内戦 1

新暦1716年1月にサンテネリ北部を襲った寒波は、西はアングランから東は帝国に至るまで広く中央大陸全域に居座った。

中でも最も手ひどい被害を被ったのは不幸なことにサンテネリ、それもシュトロワを中心とする北部である。

2月からの約2ヶ月間、水が凍る基準たる氷時を当地の気温が上回ることはなかった。

雪は断続的に降り続いた。

太陽が顔を出したとて、その熱は甚だ弱く、分厚い雪の表層を薄く溶かすのみ。

雪の王の圧制下で人々は細々と生を繋いだ。


枢密院がかねてより進めていた三カ国同盟の交渉も大きな進展を見せていない。いずれにせよ、この状況下において大規模な軍事行動が不可能であることは誰の目にも明らかだった。


王をはじめとする枢密院閣僚たちは続々と上がってくる地方からの悲鳴混じりの報告書を元に議論を重ねた。目の前の難題への対策と将来訪れるの予測である。


穀類の収穫は昨年秋には終わっている。最低限の流通路が確保できれば食糧はなんとかなる。つまり、死因の一位に餓死は来ない。


一位は凍死だ。

燃料は明らかに不足している。

木炭と薪は例年の需要をはるかに超え供給が追いつかない。当然のことながら価格の高騰は顕著だった。

枢密院は全国に価格統制令を発すると共に、特にシュトロワが位置するイレン・サンテネリ地域においては各卸商会に補助金を出し実効力を持った統制を実施した。


一方、統制令のみにたよらざるをえなかった地方においては、その試みは大体において失敗に終わった。

常のごとく闇相場が形成され、価格の上昇に耐えきれぬものから死んでいく。

かくして暴動が発生する。

中部、南部を中心に二十以上の地域で、死を待つばかりの貧民から時には中層の市民までもが武器を手に取った。燃料を扱う商会が焼き討ちに遭うに留まらず、被害はその他の業種にも拡大、政庁が襲撃された市さえも存在する。


枢密院はその危機に対し、ごく単純な伝統的方策を採用した。

警察と軍による鎮圧である。

よって死因の二位は恐らくこのを原因とするものであろう。


正確な統計はいまだなされないが、この三ヶ月間で十万人程度の死者が出たであろうと推測されている。



そして4月、春がやってきた。

弱々しく。

気温の上昇は顕著だが例年にはとても及ばない。冷たい春だ。

しかし、積み上がった雪を溶かすに十分なだけの熱を、ようやく太陽が吐き出し始めた。












4月上旬、アキアヌ大公は一人の賓客を屋敷に招いた。

その男は供も連れず独りでやってきた。全体が黒く塗装された馬車はごくありふれた汎用のもので、そこには所有者を特定する手がかりはなにもない。


屋敷玄関に横付けされた馬車から男が降りてくる。

無駄のない、確固たる動きだ。

白髪とも見分けが付かぬ銀髪を後ろに流し、頬から口元まで覆う髭も半ば白い。しかしその頑健な肉体は服の上からでも推し量ることができる。壮年の男性である。


従僕によって人の背の数倍もある巨大な扉がゆっくりと開かれる。

彼は無言で歩を進めた。


出迎えも独り。

この館で頻繁に開催されている夜会の雑踏は、今夜一切ない。屋敷は静まりかえっている。


「お招きに預かり光栄だ。アキアヌ大公殿」


男は至極実務的に告げた。

それは男の印象そのものである。


「ようこそようこそ、わざわざお越し頂いて恐縮しきり。貴殿とはそうだ、あまりこのように静かに出会うことはなかった。だから今日はその機会を設けられて非常に喜ばしく思っている」


サンテネリ王国首相の饒舌に彼は素っ気なく首肯する。

その様子を気にした風もなく、ピエル・エネ・エン・アキアヌは客人を応接室に誘った。


「どうだろう。食事でもなさるか? あるいは酒」

「どちらも私は結構だ。——話を」

「ああ、それもよかろう。これが陛下であれば、男二人で浮き浮きと葡萄酒をあけるのだがね」

「首相殿も自重された方がよい。陛下のお身体に触る」

「いやいや、配慮しておりますよ。お身体に。も身体の一部でしょう」


アキアヌ大公の言は誤解を受けやすい。

彼を知らぬものが聞けば不敬と紙一重の表現ととられかねぬ台詞だ。しかし、彼が言いたいのは要するに、王の憂さ晴らしに付き合っている、といったところだろう。

男もそれを分かっている。

呆れたように口の端を軽く上げ、返答は避けた。


やがて2人は小さな応接室にたどり着く。

4月というのにまだ暖炉には火が入ったまま。夜はまだまだ冷える。


「さて、改めてようこそ、ガイユール殿。我ら当主が2人で会うとは、ここ数十年、いや、場合によっては百年単位の珍事だ。楽しもう」

「そうかもしれん。なんとも奇妙なことになっているようだ」


館の主人は対面の長椅子を客人に示し、自身も愛用の椅子に腰を下ろした。


薄暗い室内だ。

アキアヌ大公の姿はまるで闇から浮かび上がるようにその存在を露わにする。

軽く癖の掛かった金の長髪を無造作に垂らしている。三十代後半の中背中肉の男。

二十代には鋭かった頬の輪郭には徐々に肉がつき始めている。


大公は葡萄酒の栓を抜き、自身の杯、そして客人のそれに注ぐ。

本来であれば給仕は従僕の仕事だが、親密とはいいがたい相手と酒を飲み合う場合、場の主人がそれを行うのが風習である。

無毒であることの証明。

今となっては毒殺だが、サンテネリの長い歴史を眺めれば貴人の死因上位に食い込むごく日常的な営みだった。

それを防止するために生まれた実際的な行動の名残が、現在の”儀式”を形成する。


「本来であればこれ葡萄酒の来歴を語りたいところだが、生憎今日のお客様はサンテネリ至尊のお方ではいらっしゃらない。盛り上がりますまい」


アキアヌ大公は小さく笑いながら杯を軽く傾ける。


「口ぶりを伺うに、陛下はよく足を運ばれるのだな」

「ええ、一時いっときなどは週に一度は。お陰で被害者たる私なのに、随分恨まれているでしょうなぁ、奥方たちに。ああ、御身のご息女にも」

「どうであろう。ただ、フロイスブルの側妃様などは、あるいは御身に…」

「怖いことをおっしゃられる。陛下が飲みたそうな目をされていたからお誘いしたまでなのに。とはいえ、今度何かご機嫌伺いの品を持って伺わねばならんな。陛下ご寵愛のブラウネ様に睨まれるなど、できることなら避けておきたいものだ」


ガイユール大公ザヴィエもまた、ピエルに合わせて杯に口を付ける。

彼が酒を飲むことはほとんどない。だが、この場で口を付けぬのは相手の殺意を疑う無作法にあたる。


「陛下は王妃様方を等しく愛されている。お陰で穏やかなものだ。先王陛下の折りは事情をよくご存じのマリエンヌ母后様が差配なさっていたが、エストビルグのアナリゼ様にはそのような気遣いは望めまい。ならば陛下の深慮ゆえだろう」

「いやいや、あれは違うぞ。弱った子犬を心根優しいご婦人方が献身的に介助されたようなものだ。衣の中に抱いて」

「アキアヌ殿は口を慎む術を覚えられるべきだな」

「たしかに。しかし誤解めされるな。つまり陛下のご人徳の表れということですよ。ご婦人方の目にはかわいらしい子犬に映るが、我らにはそれが時折——狼に見える」


答えることなくガイユール公はもう一口、葡萄酒を流し込んだ。


「アキアヌ殿。そろそろ本題に入ろう」

「そうですな。これ以上私の口を自由にしておくと、何が飛び出すか分からぬ」


それまで背もたれに深く預けていた上半身をぐいと乗り出して、ピエルが語り始めた。









「各種穀物の価格が上がっている」

「私も報告を受けているが昨年のような投機ではないな。自然発生か」


王のが昨年危うく惨事を生むところだった。

ガイユール館で王が示した好戦的な姿勢は戦の予感を民に印象づけた。結果、軍の兵糧需要を見込んだ穀物買い占めの兆候が現れる。報告を受けた王は手を替え品を替え軌道修正を図った。


それが今、市場で再び穀物価格に暴騰の兆しが現れている。主要都市の穀物価格は軒並み2週間前の1.2倍に上昇していた。

中央大陸は今、どこも戦争どころではない。各国内政に大わらわである。それは周知の事実であった。よって、昨年の軌道修正と合わせて軍の需要を当て込んだ買い占めではありえない。


「お分かりのはずだ。これから何が起こるか」


投げかけられた問いに財務卿ガイユール公爵は目を伏せ、組み合わせた手のひらをじっと眺めながら呟いた。


「ああ、分かる。昨年秋の播種は絶望的だ。恐らく芽吹くまい。少なくとも北部は厳しい。我が領も大きな損害を被るだろう」


サンテネリの主食たる小麦は秋に播種され、冬を地中で過ごし翌年春に発芽する。そして秋に収穫される。

しかし1716年の春、穀倉地帯たる北部のロワ河流域において種のほとんどが発芽せずに終わるであろうことが明らかになってきた。

雪と霜、そして雪解け水がもたらした大地のぬかるみ、あるいは洪水が原因である。


「北部以外は通常の不作程度で済むはず。アキアヌはまだ状況はよい。今春の大麦と合わせれば民を生かすことは可能だろう」

「うらやましいことだ」

「私がただアキアヌの主であったなら、ほっと胸をなで下ろしたところだろうよ。だが、残念ながらこの身はサンテネリ全土を預かっている。ガイユール殿と同様に。ようするに、サンテネリの皆を食わせねばならん」


右手に杯を持ったまま両腕を大きく掲げ、ピエルは慨嘆する。


「特にシュトロワを、か」

「その通り。外国からの輸入も合わせれば恐らく総量はなんとかなる。だが…」


今の値動きは将来の供給不足を見越した動き。つまり、安定した食糧供給のめどが立ち、それを知らしめることができれば徐々に解消に向かう。


「在るところから無いところに、どうやって流すか。首相殿に存念はおありか」

「統制はできん。北部には”物がない”のだ。売るものがない」

「被害の少ない地域から買い上げ、北部に流すか」


常識的な解答。財務卿の答えに、首相アキアヌ大公はじっと対手の目を覗き込んだ。


「金はあるかな?」

「ない」

「ならば、商人達に借りるしか道はない。借用の相手に損をさせるための金を当の本人に借りるとは、とんだ暴政になります」

「無理を通す以上、どこかにしわ寄せが行く」

「では内務卿殿に出張ってもらうと。一人二人見せしめに吊るせば表面上は上手くいくでしょう。ですが、お分かりでしょう? とてもだ」


政府による買い上げは市場価格を大きく下回る価格でのものにならざるをえない。商人達は損をするだけだ。強権的に従わせたとて、あの手この手で逃れようとするだろう。

公領の主として自領の商業的繁栄を追求してきた両者である。商人達の動きをある程度は理解していた。


ザヴィエには一つ腹案があるが、同じものが目の前の男の中に存在するかどうか、それを知りたかった。

それは政争の引き金になる。


「首相殿、昔のことだ。ゾフィ妃様を陛下に後見していただいた時期がある」

「ああ、覚えていますよ。随分気をもんだ。あのガイユール殿が陛下と? それでは我がアキアヌは独りぼっちになってしまうと」


いいながら首相は皮肉な笑みを浮かべる。

実際のところ、両者は同じ外様諸侯とはいえ特に緊密な関係でもない。


「代わりにガイユールが差し出したものも、ご存じか?」

「……」


アキアヌ大公は再び背もたれに身体を預け、大きく息を吐く。


「穀物に限り、関税の領主徴税権を停止する。時限的に。そういうことですな。すると無税になった穀物が、売価が高騰する北部に流れる。やがて飽和し、安定する」

「その通り」

「それが意味するところも、賢者ガイユール大公様はご存じでいらっしゃるわけだ」

「無論」


安堵とも苦悩とも分からぬため息をつき、首相は俯く。


「1月に陛下に釘を刺された。”急激な変化は好まぬ”とね。ガイユール殿の言を達した暁には、それはだ。段階的な関税撤廃を進める御国はいざ知らず、我がアキアヌ家の損害も大きいが、規模の小さい北部の小領主は収入の途絶に耐えられぬ。一掃される」


北部の領主達は皆ルロワ家の譜代軍伯を由来とする。

つまりルロワ王権の支持基盤そのものである。

そして、まさにその支持基盤を潰すのがこの政策なのだ。


「一方で国内の物品流通は円滑になる。売買の規模はこれまでとは比べものにならぬほどに拡大する。王国の一体化。これは陛下の御心に叶う」

「ですなぁ。正直なところ、この機会を逃せば王国の一体化はそれこそ百年待たねばなりません。それもまぁ、最後は血まみれで達するしかない。人は一度手に入れたものは容易に手放しがたいものですから。我らとて、この立場におらねば…」


それ以上を言葉にすることはなかった。

一諸侯の立場として王にこの政策を迫られれば、あるいは彼らは独立を望んだかもしれない。

自領の軍で国軍と戦うことは不可能だ。ならばアングランを引き入れて…。


ザヴィエは娘を王妃となし、ルロワ家と強く結ぶことによってその道を回避した。

関税の部分的な撤廃は既に始まっている。

現状ガイユールにとっては損ばかりだが、領国内の商人達の懐は潤う。後は儲けた彼らから適切に金を吸い上げることさえ叶えば初期の損失は補填されるだろう。

こうしてガイユール公領とサンテネリの他の地域は市場として連結される。


「首相殿。お分かりだと思うが、どこまでやるかが問題だ。期限付き、穀物限定のものか。あるいはそれ以上か。限定にすれば、恐らくありとあらゆる業種から『我らも』と陳情が起こるだろうが、”雪の王”が引き起こした異例として強弁することが可能だ。一方で、この機を逃せば…」

「次に手を付けるときには大出血を覚悟、というわけですな。だが、穀物以外にも広げていくとなれば、それはつまり同時に税にも手を付けねばならんでしょう」


これは国家の問題であると同時に、の問題でもある。

ガイユール、アキアヌともにずば抜けた大資本家として多くの徴税人に出資しているのだ。効率的な税制とはつまり民間の徴税人から徴税業務を移管することを意味する。

すなわち、国家による直接の徴税。


歴史ある半独立領の主としてあるべきか。あるいはサンテネリの為政者としてあるべきか。

究極的なところで彼らに問われているのは自己認識だった。


「私はね、ガイユール殿。陛下が私におっしゃったお言葉を今でも覚えていますよ。私は執念深いのでね。ほら、旧城を売り払うときです。私は陛下に呼ばれ食事を共にした。ああ、もちろん酒もね。——そこで言われたのです」


目を閉じて、二年前の情景を思い出す。


「『アキアヌ公領を富ませ、”民の護り手”と讃えられて田舎の明主として生涯を終えるか、サンテネリをまさにその手で動かすか』とね。——あの方は実に…怖い方だ」

「そして貴公は後者を選ばれた」

「そのようですな。成り行きながら気がつけば。——よって私の心は定まっている。御身はいかがか、ガイユール大公にして財務卿殿」


ザヴィエは答えなかった。彼は既に選択を終えていた。

財務卿の職を引き受けることを決めたときに。


そして、その決定が自身の大公たる誇りを傷つけるものとは思わなかった。

先祖が帝国と結んで打倒しようとしたルロワの王権。その元でガイユールは雌伏して過ごした。日陰で。

しかし今、歴史の光はガイユールにもたらされる。


「王は諸君に忠誠を。王は諸君に愛を。ただ一つ、サンテネリへの忠誠と愛を求めたい」


グロワス13世が貴族会で発した言葉はまさに正しい。ガイユールはルロワ家の家臣ではない。

だが、である。


ならば、サンテネリへの忠誠を持つ。

王へのものではなく。



「首相殿。これは…戦争だ。武器は用いないが、国を割る」

「ですな。ああ、いや、戦争はよろしくない。より正確に言わねばならん。つまり、です」

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