王たちの夜 1
正教新暦1716年2月15日は後世の人々に二つの出来事を以て記憶されることとなる。
サンテネリ王国が法的正当性を持つ事実上の「政府」を発足された日として。
そして、生まれたばかりの政府がまだ首も据わらぬうちに対処を迫られることとなった大災害の、始まりの日として。
15日深夜、サンテネリ北部中央から北西部にかけて近年例を見ない規模の降雪が観測された。シュトロワも例外ではありえない。旧市・新市を問わず街は白銀に染まり、ロワ河すら一部凍結した。
人々は100年に一度の大雪に衝撃を受け、至極単純な渾名を付けた。
「
16日の枢密院会議は開催されなかった。
分厚い雪に埋没したシュトロワの交通は完全に停止し、閣僚達は”光の宮殿”に赴くことすら叶わなかったのだ。
グロワス13世とその臣下たちが苦心の末作りあげた政体は二日目にして重大な欠点を露わにすることとなる。
枢密院はその理想を構成員の全会一致に求める。不可能な場合には多数決が取られることとなっていたが、それは望ましくない
では、そもそも構成員の参集すら叶わない場合はどうなるのか。
旧来の国王顧問会においては単純な解決策が存在した。
王が決定する。それで全ては終わる。
一方、枢密院首相には緊急時の独裁権は付与されていない。首相は枢密院の首座として各種決議における優越権を持つが、裏を返せば「それだけ」だ。枢密院の成立根拠が王権の委任にある以上、王権を超越しうる独裁権はいかなる状況においても許されない。これを容認すれば究極の状態——つまり今回のように構成員が物理的に一人も集まりえない状況——において、首相は王を逮捕、処刑する命を下すことすら理論的には可能となる。王権によって法的根拠を得る首相が王権の保持者を処刑することは明白な不条理であろう。
大雪への対処に独創性は必要ない。
除雪によって速やかに交通の回復を図る。「雪の王」よりも遙かに小規模ではあったが、年に数度の降雪はシュトロワにおいてそこまで珍しいことでもない。
作業自体は民間の商会に委ねられるのが通例だ。
委託を受けた商会は、雪が止んだ翌日、日雇いの人足を集めて働かせる。働き手には事欠かない。旧市で募集をかけるだけで必要な数は大方揃う。貧民を対象としたこの処置は即効性に加えて一種の福祉としても機能していた。
馬車が動くところまで除雪が終わってしまえば後は自然回復を待つのみ。地域住民の自発的な除雪行為と合わせれば大事には至らない。
だから今回も、16日の段階においては皆楽観を崩さなかった。ここ数十年絶えてなかった寒波ではあるが、ここを乗り切ってしまえば春が訪れる。
しかし雪は止まなかった。勢いを増してすらいる。
17日、氷結した前日の雪を新たな雪が上書きしていく。
王は決断した。
内務卿に使者を送り、シュトロワのめぼしい商会に委託除雪の指示を出すよう伝える。同時に首相には王権の行使を通告した。馬が使えぬ状況である。使者達は厳寒に吹きすさぶ雪模様の中、徒歩で王命を遂行した。
この判断を失敗と切って捨てることはできないだろう。
王が煩瑣な手続きを墨守せずに行動を起こしたことによって、シュトロワは瀬戸際で交通の麻痺を回避しえたのだから。
一方で彼は生誕間もない枢密院を存立の危機に晒すこととなった。首相アキアヌ大公と書面のやりとりで協議を重ね、あくまで首相の指導下で対処するのが本筋のはずだった。
その手続きを王は踏まなかった。状況が状況ゆえに例外として処理しうる。理解も得られるだろう。だが、根本に立ち返れば、王がその権能の超越性をいまだ保持していることを彼は人々に知らしめたのだ。——首相アキアヌ公に対しても。
18日、断続的に降り続く雪と想像を絶する寒さを見て、王は市民への燃料、つまり薪の配給を決定する。未だ正確な情報は上がってこないが、既に旧市において少なからぬ凍死者が生まれていることは容易に想像が付いた。
内務卿、首相に加えて財務卿にも使者が送られることとなった。
薪を扱う商会や問屋は後日の代金保証を政府から得て、燃料の配給を始めた。
19日、地方の状況は未だシュトロワに届かない。主要な街道は積雪で機能せず、水運はロワ河の凍結によって封じられている。この寒波はどこまで広がっているのか見当も付かない。被害が全土に及んでいた場合、最悪の事態が想定されうるところまで来ていた。
20日、王は枢密院閣僚を招集した。3日前から始まった除雪作業が本格的な稼働に至り、主要な大路は通行可能な状態を維持している。
光の宮殿に続々と到着する馬車。降りてくる閣僚達を王は主玄関で一人一人迎え入れた。
それは異例の光景だった。
◆
備え付けの暖炉は休むことなく熱を吐き出していく。
しかし分厚い石壁に守られた室内においてさえ、この異常な冷気を打ち倒すには少々心許ない。
会議室に集った閣僚諸氏も寒さが堪えるのだろう。口々にここ数日の”幽閉体験”を語り合うも、その顔色は冴えないものだった。
首相ピエル・エネ・エン・アキアヌは、同僚と軽口を交わしながらも意識は別のところに向いている。王に、である。
枢密院制度設計段階で、このような事態は想定されていなかった。最悪の事態と目された戦争、それも敗戦の濃厚な場合においてさえ閣僚が物理的に集合し得ない状況は考えられていない。火災や大雨、そして大雪においても、それは変わらない。
今回がまさに「異常」なのだ。
アキアヌ大公はそれを十分に理解している。
王の行動が緊急措置であることも分かる。降雪二日目の昼過ぎに届いた書状にも明確にその旨が記されていた。
だが、この一連の行動の裏に何らかの意図が含まれているかどうか、その判断はつかなかった。
「諸卿がこうして無事に陛下の御許に集いえたのはまさに僥倖。それにしても今回の雪は途方もない塩梅ですな」
彼の発言が会議の始まりを告げる。皆一様に大きく頷く。それは素振りではない。ほとほと参ったというのが本音であろう。
「除雪と燃料配給については陛下のご決断ゆえ、速やかに行うことができた。内務卿殿には尽力感謝したい。この忌々しい”雪の王”とやらが立ち去ってくれるまで、当分は続けざるをえまい。方針に異論がおありの方は?」
ぐるりと諸卿を見渡す。異論が出ることはない。ごく順当な対応なのだ。国庫への負担は増すが完全な必要経費だ。
「ではその通りに。関係諸卿の尽力をお願いしましょう。——まぁまぁそれにしても、本当にやっかいなやつですな、この
彼は肩を叩く素振りをしながら慨嘆する。
「シュトロワはいいでしょう。問題は地方だ。どこまで被害が広がっているか想像も出来ない」
ガイユール公が言を継ぐ。自領の心配ではない。王国の財務卿たる彼にとって、地方行政官達、あるいは領主達が対処しきれぬ負荷に対しては何らかの援助を検討する必要があった。
「街道の状況次第ではありますが、あと数日で最初の伝令がたどりつきます。今回は水路が凍りつき使いものにならず、狼煙も雪にかき消されて機能せず。良かったことがあるとすれば、軍としてこの”課題”を発見できた…」
「なんと、それは素晴らしいことですな」
軍務卿デルロワズ公の生真面目な応答に、思わず首相が皮肉めいた冗談を飛ばす。その諧謔は聞き手の心境次第では衝突に発展しかねないほどに危険な水域に達していた。
「その通りです。首相。素晴らしいことです。課題は”発見”が最も難しいところですからね。ご存じではない?」
「いやいや、存じておりますよ。——ああ、冗談だ。許してほしい、デルロワズ殿。それこそ、私の悪癖をご存じであられよう?」
若干の苛立ちが籠もったデルロワズ公の口ぶりを感じ取って首相は即座に謝罪する。彼がかなり際どい言葉をもらす癖は皆が知っていた。
「なるほど。いずれにしても情報が集まるまでは待つしかない。では待とう」
首相と若い軍務卿の冷えたやりとりを断ち切るごとく、デルロワズ公が簡潔に纏めた。
「待てぬ問題もあります。現在薪の配給までは進みましたが、それで終わりにできましょうか」
内務卿プルヴィユ伯爵が一同に問いかける。
「食糧か…」
アキアヌ大公が浮かぬ顔で内務卿を見やる。
「現状除雪に従事させているものたちは食いつなげます。しかし労働に耐えられぬ者も多い」
「やるしかあるまい」
彼の答えは簡潔なものだった。選択肢は事実上存在しないのだ。
「首相殿、シュトロワはそれでよいとして、地方の問題もある。我がガイユールや貴殿の領地はなんとでもなろうが、負荷に耐えられぬところも多いはずだ」
「被害の範囲による。もしこの”忌々しい王”が全土を覆うのであれば、我々はもう降参するしかない。我が国は落城し劫掠される。だが北部のみであれば踏みとどまれる。幸い北部には貴公はじめ富貴で知られるご領主が多くおられる」
「つまり、自弁ということでよろしいかな。西部一の富貴なご領主様のご意見は」
ガイユール公には依然余裕がある。デルロワズ公にはないそれが。
「先日陛下が仰ったとおり、”根治は望めぬ”。やれることをやるしかあるまい。我らは陛下の御聖断に従おう。いかがかな、諸君」
大仰に両手を広げ、アキアヌ大公が言い放つ。
つまるところ、「シュトロワを死守する。地方は基本的に自助を求める。それが基本方針だ」と彼は述べた。
それはしごく常識的な結論であった。サンテネリはおろか、中央大陸のどこを探しても地方の貧民まで保護するだけの余力を持った国は存在しない。
だからこそ「領主」が存在するのだ。形骸化が始まっているとはいえ、領主は領国に責任を持たなければならない。
にもかかわらず、賛意はすぐには挙がらなかった。
この大雪の範囲によっては万単位の死者が出る。恐らくこの瞬間ですら千単位で貧民達が死んでいるはずだ。大公が述べたとおり、範囲が王国全土となれば犠牲者の数は10万単位に跳ね上がるかもしれない。
枢密院に集う閣僚達はいずれも歴史ある貴族家の当主である。
彼らにとって貧民とは、その実体を捉えることがまことに難しい存在であった。
観念の層においては憐れみの対象であり、保護すべき不幸な者達だ。
一方で、肉体存在としての彼らは取るに足らぬ穀潰しである。あらゆる犯罪の根源であり不道徳と退廃の巨大な巣である。そして時には秩序に抗し暴れ回る潜在的危険分子。
この正反対の記号が貧民——無産市民たちに貼り付けられていた。
だから諸卿の逡巡は前者から来たものだ。
シュトロワの配給はごく合理的な政策である。貧者達が暴動を起こせば自身の身も危険にさらされるのだから、大人しくさせておく必要がある。しかし、直接的な関係を持たぬ地方の貧民達には配慮の必要性を感じられない。
だから彼らはこのとき、ある種の宗教的道徳心から言葉を濁していた。
「首相の意見に、私は賛成しよう」
沈黙を破るその声の主は、会議中一度も口を開かなかった男。じっと人々の議論を眺めていた。常のごとく無表情に。
王グロワス13世である。
王の意思表明を皮切りに枢密院は方針の全会一致をみた。
会議の終わり、王は少しすまなそうに首を傾けながら呼びかけた。
「諸君、危急の時だ。雪が止むまでは
◆
アキアヌ公領の主にして枢密院首相ピエル・エネ・エン・アキアヌは、目の前でいつものように酒杯を舐める自らの主君、その手元をじっと眺めていた。
——少しは落ち着かれたか
一時に比して手の震えは大分収まっている。瞬きの回数も平常だ。
枢密院会議移行後、場合によっては摂政として動くことも考えなければならなかった数ヶ月前からすれば格段の進歩だ。
ピエルはアキアヌ公爵としてアキアヌの姓を名乗るが、男系は先々代の王グロワス11世に根源を持つルロワの傍系王族である。自身とは十数歳年の離れた王を”親戚の青年”と評しても問題はない。
——不思議な方だ
王太子時代のグロワスはピエルにとってただの子どもに過ぎなかった。誰しもが経験する十代の熱狂そのままに行動する彼を半ば笑いながら見ていた。”御守のフロイスブル殿もご苦労だろう”。その程度だ。
少年はグロワス13世として即位した。その後の1年を彼は大した感慨も無く過ごした。家宰を事実上の停職に追いやった王を見て、いよいよ出番か、やれやれと、柄にもなく慨嘆した。
”自分が望んだわけではないが、皆がそういうのならば、国のために”。
かくして王統はアキアヌ家に移る。長きにわたるルロワ朝の時代は終わる。
事実、家宰失脚の頃から有力各家との付き合いが目に見えて濃度を増した。軍の要職を抑えるルロワ第1の藩屏たるデルロワズ家でさえ、幾度か婉曲な”挨拶”を寄越してきたほどだ。
即位1周年を迎えた直後、グロワス王は自室で昏倒した。
その報を聞いたとき、彼の胸に去来したのはある種の憐れみであった。完全なる政治的勝利を喜ぶ気持ちはむろん存在する。
だが、不器用で幼く、まだ何も知らぬ親族の少年が死にゆく様を、指さして笑う気にはとてもなれない。
この相反する感情を齟齬無く統合する術をピエルは心得ていた。
「それはそれ」「これはこれ」。
王は回復した。
そして変わった。
頭部への衝撃により性格が急変する事例がごく稀に存在することは知られている。回復後初めて王と会食した際に、アキアヌ公はその事例だろうと当たりを付けた。
口数が極端に少ない。
常に薄い笑みを絶やさず、自身の挑発的な発言も軽く受け流す。
じっとこちらを覗き込む濁った瞳。
相手をひたすら空振りさせて何一つ実を与えない空虚な会話を王は演出した。それは”少年”のものではありえない。自身と変わらぬ経験を積んだ人間の空気だ。経験は時間を必要とする。まだ20歳の王がそれを手に入れることなどどうすればできようか。
政務を執るのは復権したフロイスブル侯爵とルロワ譜代の家臣達。王は玉座の上で置物のように一言も発さない。
そんな噂を耳にする。
不予以前の愚かさとはまた別の方向性の愚かさ。白痴の愚が一部貴族達のグロワス13世評となった。
アキアヌ公は上機嫌でそのご注進を聞いた。正確には、上機嫌を装った。
得体の知れぬ恐怖。平素恐れを抱くことなどほぼない大公の脳裏を王の茫洋とした視線が去来する。
出仕の貴族だけでなく、王宮に出入りする商人達、果ては下男下女に至るまで、考えつく限りの対象から情報を探らせた。
私生活までを含めたとき、グロワス王の動きは非常に露骨なものだった。
フロイスブル侯爵の娘、近衛総監の娘、そしてガイユール大公女!
つまり自身の本来の権力基盤たるルロワ譜代を抑え、手放したと見せつつ近衛軍との縁を保ち、ついには歴代王家がその副作用を嫌って極力避けてきたガイユール家と接近する。止めとなったのは、バロワの次女とデルロワズ公の婚姻を斡旋することにより、軍権という最も重要な要素を自身と結びつけたところだ。
この動きの意味するところは明白。ピエルは心底頭を抱える。
——これはつまり、アキアヌ以外の全てではないか!
王から旧城での昼食を誘われたとき、出立の直前まで彼は迷った。
逮捕まではありうる。
彼が行ってきた様々な工作——それは市民への扇動も含めて——は口実としては十分だ。
だが、逮捕するつもりならば食事など迂遠な手段は必要ない。兵を差し向けてくればそれで終わる。さらに、これまでに行ってきた幾度かの直接会談の中で、そのような”強行”を嫌うグロワス王の性質も理解していた。
彼は王族である。明白な反逆以外の罪状による処刑はありえない。恐らく逮捕もないだろう。順当なところでは”念押し”程度。
そこまで読んだ後、彼は会談に臨んだ。
「では、私は”王の器”を備えているだろうか」
王の言葉を聞いたとき、心底肝を冷やした。あるいは読み違えたかもしれないと。戦まで視野に入れて自身を誅することを決めたのかと。
しかし、その後の展開は完全に彼の予想を裏切った。
王が提案した枢密院制度。
つまるところ、王が求めるのは自身の政権参画なのだ。それもただの参加ではない。首相の地位を提示されている。
——この方は大物だ…。
彼が王位を望まないのであれば、もうその提案に乗るほかはない。
野党を気取って現状維持に走ればいずれ潰される。ガイユールは確実に王の下につく。そうなればアキアヌ公領単体で王権に抗する道はない。
他国と結ぶこともできようが、王が帝国との和約を成立させた以上、手を取れるのはアングラン、あるいはプロザン。
アングランは大陸での陸戦を避けるだろう。残るはプロザンだが、もし彼らがアキアヌ公と手を結び動けば、それはすなわちエストビルグの本国への侵攻を招くことになる。
王位を引き受けるのもよい。元々それを目指したのだから。
しかし、この現状において新王は何もなしえないだろう。
国土の半分を領し、さらに数百年に渡り国家の行政を担った大量の譜代諸侯を従えたルロワ大公。ガイユール大公女とエストビルグ王女を妻とするルロワ大公を配下に持った新王ピエルに何ができるだろうか。
ならば首相の座を得るほかはない。
彼は王の軍門に降った。
”玉座の置物”。
王の様子を自分にそう伝えた木っ端貴族達を語彙の尽きるまで面罵してやりたい気分だった。
彼は極めて洗練された政争に敗北したのだ。戦っていることにすら気づかぬうちに。
ピエルは自身の偏見を強く恥じた。
人は自分の体験に引きずられる。直接見た”王太子”グロワスの姿に彼は明らかに引きずられた。酒を飲み交わす度に”王”グロワスが見せた気弱な笑みにも。
そして油断した。
サンテネリ屈指の名門に生まれた以上、その名を歴史に残したい。ピエルは常にそう望んできた。
——名君グロワス13世を助ける希代の名宰相アキアヌ公爵
最善が手に入らぬならば次善を手に取るほかはない。この王の下であれば自分の名も残るだろうと言い聞かせた。
だが、残念なことにその思いはすぐに裏切られることとなった。
グロワス13世は名君などではなかったのだ。
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