第2部「分別ざかり」 第1章 1716

王の肖像

 メリアは今日の遠足をとても楽しみにしてきた。


 日々の生活に追われる両親が彼女を外に連れ出してくれる機会はほとんどない。級友達が楽しそうに語る夏期休暇の旅行体験をいつも曖昧な笑みを浮かべて聞いていた。

 幼い頃には不平を漏らしたこともある。だが、小等学校の最終期を迎えた今となってはさすがに家の事情が分かる。彼女の家は裕福とは言えなかった。

 そんな境遇においては、例え近場といえども日常と異なる世界に飛び込む体験は貴重なものだった。


 今年の秋には全国知検が迫っている。

 サンテネリの子ども達は小等学校の第5期、つまり最終期にこの試験を受け、その後の進路を、あるいは人生を定められる。中等学校か実業学校か。人生を振り分けられるのだ。

 メリアの成績はそう悪くはないが良くもない。一言で纏めるならば平凡なものだ。このまま行けば恐らく実業学校に進むことになるだろう。

 小等学校で仲の良かった友人たち。ごく一部は中等学校に、大部分は自分と同じく実業学校に進むだろうが、恐らく学校はばらばらだ。一緒に出かけることはもうない。

 その事実がもたらす寂しさが非日常の興奮と混じり合う。


 メリアの家族のような郊外の住宅地に住む人々にとって、シュトロワ中心部はそう珍しい場所ではない。列車で1時間と掛からず到着する。それは旅行ではない。ただの通勤だ。

 だが、彼女は一度も行ったことがなかった。


 小等学校最終期の「歴史」授業は第18期から第20期が学習範囲となっている。この動乱の時代、サンテネリの悲惨と栄光を表す様々な出来事の舞台となったのは常にシュトロワだった。

 サンテネリ共和国の中心地シュトロワには様々な歴史的建造物がひしめいている。

 ロワ河北岸の旧市レジー・アンシェには、先の大戦の犠牲者を追悼する公共施設「勇者の宮殿パール・クールール」や、国政の中心機関たる国会オネ・コンシーが開かれる会堂セアトル

 南岸の新市レジー・ヌールには、世界最高峰の高級ブランドが本店を連ねるルー・サントルや、旧ガイユール公家の館を改装した統領プレダン官邸、その他官公庁が点在する。


 今日の旅行は正確には体験学習である。メリアたちが現在「歴史」科目で学んでいる時代を体感する機会だ。

 行き先は、サンテネリの歴史を彩るきら星のごとき建造物の中でも最上のもの。その名を世界に知られた美の宮殿。性別年代貧富を問わず、旅行客達が必ず訪れる名所。


 光の美術館ガレ・ルミエである。





 ◆





 光の美術館は巨大な正門から既に人の渋滞を起こしている。

 世界でも五指に入る著名な「観光地」である。観客は引きも切らず、平日休日を問わず賑わう。


 メリアたち研修旅行の一団は担任の教師に連れられてその群の一部に加わった。

 友人達の中にはここを訪れた経験を持つ者も多い。彼ら彼女らは揃って「混んでいて嫌だ」「せっかくならルー・サントルの方がまだいい」「旧市レジー・アンシェがよかった」と不平混じりだ。

 旧市は戦後の再開発を経て、その名とは裏腹に若者を誘引する流行の発信地となっている。対する新市は少々。ルー・サントルは未だに華やかな盛り場ではあるが、それはあくまで富裕な大人向けのものだ。10代の若者が好んで行きたがる場所でもない。


 そんな友人達を尻目にメリアは光の美術館に圧倒されていた。正確にはその人口密度に。

 有名な絵画や彫刻が至る所に飾られ、そこにはより濃密な群が形成されている。しかし華奢で小柄な彼女では一目見ることすら叶わない。群をかき分けて前列に行くには小さすぎたからだ。

 引率する教師とて半ば諦めている。これは「決められた行事」であり、教員の役割は「行事を無事遂行すること」だ。子ども達が作品をじっくり鑑賞するなど不可能であることは分かりきっていた。


 一行は流されていく。一階正面玄関から順路に沿って進む。

 潮流に引かれる小舟のように自分たちが今どこにいるのか見当も付かない。受付で配布された館の見取り図を時折確認しながらメリアはひたすら歩いた。

 右へ左へと動いているはずなのに、空間の巨大さゆえか屈折を意識することすらない。

 額装された絵画、あるいは一面に直接描かれた壁画、あるいは小ぶりな彫像。次々と現れる作品群の存在だけは分かる。人の膜に覆われて見ることは叶わないが。


 だから少女がこの美術館を本来の意味で経験したのは空間そのものにおいてである。

 ついに、かの有名な「光の大回廊」にたどり着いたのだ。

 片方の壁面は大量の透明な玻璃ガラス、対面の壁には巨大な鏡。天井から吊るされた金の垂れ燭台。

 光に溢れているはずのその場所は、しかし人々の肉体を大量に飲み込み、塞がれて、少女の元までを届けてくれない。

 人いきれ、囁き声。足音。そして熱気。

 お世辞にも素晴らしい体験とは言えない。見えるのは人の背中のみだ。

 にもかかわらず、メリアはちょっとした感動を覚えた。ごくささやかな、だが明らかに非日常の思いである。


 ——ここに居たんだ。王女メリアも


 自身と同じ名を持つ王女。幼い頃買ってもらった物語絵本で読んでから、彼女はなんとなくその王女のことが好きだった。

 メアリ=アンヌ・エン・ルロワ。

「メリア」は「マリエンヌ」と並ぶメアリ=アンヌの縮約形であるが、後者が早々に正式な人名として定着したのに比して、こちらは少し愛称に過ぎなかった。それがいつしか世間に広く流布し、今ではサンテネリ女性の定番名となっている。


 歴史上の人物と同じ場所に立っている。

 それはまさに少女の短い人生の中で初の体験だった。

 少し誇らしい気分だ。

 王女メリアも11歳の頃、この回廊を歩いたのだろうか。王女メリアが羨ましい。

 なぜって、彼女は全国知検に悩まされることはなかっただろうから!





 ◆





 二階に上がると人流は早くなる。

 有名な作品の多くが一階に集められている関係上、二階はいわば「二番手」の作品群が多い。むろん美術品としての価値においてではなく、知名度の差に過ぎない。


 友人達の意識は既に昼食に移っている。

 光の美術館の周囲に広がる庭は、庭というよりも公園の呼称の方がふさわしい巨大さを誇る。彼女達一行はそこの一角を借りて簡易的な野外食を食べる計画になっていた。


 メリアは美術の類いに特段の興味を持たない。それは当然だ。「体験」自体が存在しなかったのだから。

 家には絵など一枚も飾られていない。本とて少ない。

 だから彼女の芸術体験といえば、それは学校の授業と教科書の挿絵くらいのものだった。そして彼女は残念ながら「鋭敏な感性」なるものを天与されていなかった。

 普通の、ごく普通の少女なのだ。


 見学路の終わり近く。

 人々の歩みはどんどん早くなる。

 光の美術館に”行った”という経験はもう済ませたのだから、長居は無用だ。


 だからだろうか。

 1時間以上に渡って大波に攫われるように歩き回ったあげく、メリアはやっと一枚の絵を見ることが出来た。

 肉眼で。





 ◆





 荒涼たる大地を背景に、一人の男が立っている。

 金糸で縁取りされた黒い軍服を身につけ、腰には剣を提げて。

 左手を柄におき、右手を上着の合わせ目の中に入れている。


 痩せた男だ。

 ふくよかであることが威厳と富貴を表す記号であった「昔」の絵にしては、痩せている。


 金の髪を後ろに流し7分3分に固めている。

 むき出しの額は広くはない。眉も比較的細く、少し外側に盛り上がっている。

 そして二つの眼がある。

 目元に薄ら刻まれた皺から、恐らく中年であろうことが分かる。

 つまり、メリアの父と同年代だ。


 人は眉と眼と口で表情を作る。

 この絵画に描かれた男には表情が無い。

 笑ってもいない。悲しんでもいない。

 ただ物質として、眉があり、眼があり、口が存在する。


 緑色の瞳。

 深い眼窩からその表面をのぞかせている。

 細密を極め虹彩に至るまで描き込まれているはずなのに、それは空疎だ。


 少女は男の姿をじっと観察した。

 光の美術館に展示されているくらいだから凄い絵なのだろう。ならばがどこかに隠れているのではないか。

 そうあたりをつけて。


 そして落胆した。

 何度見てもこれといった特徴が見つけられない。

 不細工とはいえないが、美男子かと言われれば悩ましい。中年の細身の男性。そうとしか言えない。明らかに高価な軍服と剣を取り払って父の工員服に着替えさせたら、なんの違和感も無く街に溶け込んでしまうだろう。


 メリアの落胆はつまりそこにある。

 光の美術館にその姿が飾られるほどの人物なのだから、何かあってしかるべきだろうに。言葉に出来ない雰囲気があるはずだろうに。これでは自分たちと変わらないではないか。

 だから人目を引くこともなく順路の隅にひっそり置かれている。


 光の美術館は「歴史」の授業に出てくるの肖像画であふれかえっている。

 マルグリテ女王、グロワス7世、グロワス11世。人だかりに阻まれてじっくり見ることは叶わなかったが、確か一階の大きな展示部屋に飾られていたはずだ。その似姿は教科書にも掲載されていて、不真面目な男子が戯れに落書きを付け足す素材にすらなっているというのに。

 そんな偉人達の住処に、なにかの手違いでが紛れ込んでいる。


 その男は身体も顔面も、全ての部位が平均の範囲内に収まっている。

 どこかがほんの少しでも突出していれば言葉に出来ただろう。

「鼻が大きい人」「耳が大きい人」。あるいは「背が高い人」「なで肩の人」。

 翻ってこの男は手軽な抽象化を拒む。それは意図的な拒絶と称しても不思議ではないほどに無個性であり、無感動であった。


 熟練の美術評論家であれば、その「無」から何かの意図を導き出すことができたかもしれない。背景に荒野が描かれている点にも意味を見出すだろう。高位の人物の肖像画の背景が描かれることは極めて稀だからだ。

 しかし、専門教育はおろか絵画に触れた経験すら皆無に近い少女にそれを求めるのは酷だろう。


 メリアは何も感じなかった。

「昔の偉い人」

 そうとしか表現しようがない。


 少女の美術鑑賞は終わった。

 意識は急速に傾いていた。級友達と食べる昼食に。空腹を覚える時刻だ。









 額縁の下に添えられた小さな金属片。そこに刻まれた男の名を見ても少女の心はさざ波一つ立てなかった。当然のことだ。それが誰か、メリアは知らない。


グロワス13世ロー・グロワス・トレージエン


 あるいは知っていれば、彼女はもう少し鑑賞を続けたかもしれない。

 このがメアリ・アンヌ・エン・ルロワ——王女メリアの父であると。



 しかし少女の無知も無理からぬことだろう。

 そんな王の名は彼女が与えられた小等学校の教科書にはのだから。

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