無能な王の重荷

 暗殺未遂から一月ほど経て、ぼくの手は完全に治りつつある。皮膚が突っ張る違和感は残るけど日常生活に支障は無い。指もちゃんと動く。


 犯人の女性は単独犯だそうだ。

 息子を新大陸の戦争で失い、軍に細々と衣類を納入していた家業は支払いの度重なる延期により破産。一人残された彼女は一張羅を身に纏い光の宮殿にやってきた。食べ物もろくに食べず屋根裏部屋で女中をしながら、隙間の時間を光の宮殿に通ったそうだ。


 そしてぼくが現れた。

 そして刺殺を試みた。


 内務卿の報告は簡潔なもので、重点は「背後関係の有無」に置かれていた。誰かにそそのかされた、あるいは過激思想に絡み取られたのではないかと。しかし、その形跡は発見できなかったという。

 めでたしめでたし。


 彼女がどうなるのか、ぼくは怖くて聞けなかった。

 でも、聞かなければならない。だから聞いた。

 すでに「亡くなった」らしい。

 取調中の「事故」だそうだ。

 めでたしめでたし。


 ぼくは自分の手を切り落としたい衝動に駆られる。

 ぼくは彼女の目をよく覚えている。目尻が裂けてしまいそうなほどに見開かれた瞳。軽く後頭部を叩けば眼球が転がり落ちそうな。でも、それしか覚えていない。

 彼女は何もかも失い、ぼくを殺そうとした。

 本当はぼくが覚えておくべきだった。どのような顔をして、どのような髪をして、どのような人生を歩んできたのか、ぼくが覚えておくべきなのに、何も覚えていない。


 国政を糺す大義をもって、あるいは他国から攪乱されて、あるいは過激思想とやらに染まって、そうしてぼくを狙ったのならどれほど良かったことだろう。それは政治だ。

 でも、今回はそうじゃない。彼女は全てを失い、自殺の道具としてぼくを使ったんだ。これは政治でも何でもない。


 内務卿の報告がひどく簡素だったのはぼくへの配慮だろうか。「大したことではなかった」と伝えることでぼくを安心させたかったんだろうか。

 不幸にも精神的に錯乱した平民の凶行。だから心配はいりません。そういうことだ。

 あるいは何かを隠しているのかもしれない。彼にとって、あるいは国家にとって不都合な何かを。でも、今は邪推する気にもなれない。


 彼を下がらせてからぼくは従僕を呼んだ。ブラウネさんやメアリさんに今の姿を見せるのはあまり良くない。


 小柄な青年が早足で近づいてきた。


「今日の予定はまだあるかな」

「はい。本日は19時よりアキアヌ大公殿下をお招きした夕食会がございます」

「ありがとう。それは楽しみだ」


 ぼくは努めて平静に答え、最後に付け加えた。

「葡萄酒を一杯もらえるかな」

「葡萄酒、でございますか」

「食前酒の前借りをしたい気分なんだ。今日は少し疲れた。アキアヌ殿のお相手をする前に元気を回復しておかなければ」


 笑顔のぼくを見て、首肯と共に従僕は下がる。




 ◆




「陛下、ご所望の葡萄酒をお持ちいたしました。今お注ぎしますね」

 従僕の代わりにやってきたのはブラウネさんだ。今はあまり顔を合わせたくない。


「ああ、わざわざありがとう。給仕には及ばないよ。そこに置いておいてほしい」

 言外に長居をするなと告げたつもり。ぼくは王を装う元気が枯渇しかけている。


 ブラウネさんは何も言わず、手に持った盆を静かに執務机に置く。そして杯に注ぎ始める。


「ブラウネ殿、よい。自分でやる」

 しかし依然彼女は無言で、杯はどす黒い液体で満たされた。血のような。

 彼女はその細い手でグラスを持ち上げ、ぼくの右手に渡す。


 杯を握った途端に水面が揺れる。さざ波が止まらない。手首ではない。恐らく肩から、あるいは上半身から来ている。

 ぼくの身体が震えている。

 やがて葡萄酒はグラスの縁を乗越えて、机のあちこちに飛び散った。飛沫は彼女の腕にも、ぼくの腕にも小さな黒い染みを残した。


「ああ、こぼしてしまった。——私は不器用だから…」

 震えを収めようと左手を添え、ゆっくりと杯の底を机に下ろす。


「陛下? 何かございましたか」

「いや、何もない。まだ手が本調子ではないんだろう。ブラウネ殿の服まで汚してしまったな。申し訳ない」

「陛下。酷いお顔を。——ブラウネは心配です」


 嫌なことがあったとき、ぼくは他人と顔を合わせることを好まない。自分の辛さをぶつける道具にしてしまうから。わめき散らす哀れな姿を見せることで、他人に同情して欲しいから。

 そういう卑しい心情を自覚するからこそ、ぼくは一人でいたい。


「下がって欲しい。ブラウネ殿の心配をありがたく思う」

「いいえ陛下。ブラウネはここに居ります」


 ぼくは彼女の顔を直視した。

 彼女は魔性の女だ。何をしても受け止めてくれそうな、そんな雰囲気がある。でもそれは錯覚だ。


「ブラウネさん、ぼくはきみに下がってほしい」


 突然親密な呼称を投げかけられて彼女は驚いている。言った自分も驚いた。ほら、もう王のメッキが剥げかかっている。


のお悩みをブラウネにお聞かせください」


 あなた。

 ぼくのことをあなたと呼ぶのは勇気がいるだろう。無礼にあたるからだ。ぼくをサンテネリ国王ではなく、自身と同等の一個人として扱う。そう言っているに等しいのだから。


「これから、いつどんな場所でも、私を”あなた”と呼べるか? ブラウネ殿」


 かわいそうだから悩みを聞いてやる。その位の心持ちなら寄ってきてくれるな。我々の関係も行動も全て政治なのだから。それを分かっているのかとぼくは彼女に問うた。

 立場と建前を踏み越えて、割り振られた役割を投げ捨ててもここにいるのかと。


 執務室の窓から指す西日が彼女の顔を照らし綺麗な陰影を作る。まるで女王のようだ。芋虫よろしく椅子で身体を震わせるぼくなどよりもよほど、彼女は堂々としている。彼女は強い。


「あなたが望まれるならば、いつ、どこでも、ブラウネはそうお呼びします」

「その言葉の意味を理解しているか? 私は王だぞ」

「存じ上げています」

「では、私が下男だとしたらどうだ。きみの家に仕える取るに足らぬ下男なら」


 意地の悪い問いだ。この真面目な「正しいこと」をしようとしている女を突き崩してやりたい。そんな嗜虐心が生まれた。


「その時は、ブラウネはあなたを”おまえ”と呼ぶでしょう。でも、心に秘めた想いは変わりませぬ」


 ”変わらずあなたと呼びます”。そんな陳腐なお為ごかしが返ってくると思っていた。出来るわけがない。こと、このサンテネリでは。

 だから虚を突かれた。呼称は身分の殻だ。殻は尊重する。だが、中身。この柔らかい中身を見ていると彼女は言う。


「なぜそう言える? きみはわたしの心を何も知らない」

「ええ。左様です。わたしはあなたの行動しか知りません。成長され、父や家臣と共に日々政務に精励されるあなた。ブラウネやメアリ殿を大切に扱ってくださるあなた。王の責務を果たされるあなた。ブラウネが知るのはその姿のみです」

「では、それらが全て演技であったらどうする? 私は皆を心底嫌っているかもしれないぞ。きみやメアリ殿のことを内心厭うているかもしらん。王の責務などまっぴらごめんと考えているやもしれん」


 ブラウネさんが押し黙った。ぼくの内心のほんの一部が流れ出た。それを本能的に嗅ぎ取ったのだろう。しかし果敢にも言い返してくる。やはり気が強い。


「ではそのように振る舞われればよろしいでしょう。あなたはサンテネリの王でいらっしゃるのですから。皆の首をすげ替え、ブラウネやメアリ殿を放逐されれば」

「それが出来れば素晴らしいな。何もかも放り捨てられれば。——だが出来ない。きみが言ったように、私は王だからだ。責任がある。忌々しい責任が」


 一度放り出しているのでね。二度目は流石に気が引ける。ときどき危ないけど。

 究極のところ、自分が存在する意味はそこにしかない。責任を引き受けることだ。


「ならばブラウネは満足です。あなたが陛下であれ下男であれ、そのお心をお持ちである殿方にブラウネは惹かれます。——勇敢なお方。ルロワ家の男児として生まれればサンテネリの王に。下男の子に生まれれば下男の王に。そんな殿方にブラウネは付いて参りたく思います」


 いい女だ。そう思った。ぼくは酒杯を手に取る。祝杯を挙げたい気分だ。


「まさか…そう返されるとは思わなかった。きみはとてもいい女だ。得がたい女だ」


 何もかもぼくのせいになる。

 何もかも失ったあの人を凶行に追いやったのは、結局のところぼくだ。ぼくが彼女から何もかも。そういう一切合切の責任を背負うことの意味を目の前のこの女は分かってくれるだろうか。


「ブラウネ。前にぼくを刺そうとした女の人、亡くなったそうだ」


 彼女は無言でぼくの右手をその小さな両手で包み込む。柔らかく、震えを止めてくれる。いや、抑え込んでくれる。そして杯をゆっくりとぼくの口元に運ぶ。

 身を乗り出して。執務机の上を彼女の肢体が覆う。

 女の匂いがする。不思議な甘い匂い。


「戦争で息子を亡くし、家は破産した。彼女は一人だった」


 黒い液体がぼくの口内に入ってくる。どろりとした舌触りだった。あるいはぼくの唾液が粘性を帯びているのか。


「彼女は全部無くして、ぼくを刺して死のうとしたんだそうだ。——彼女は正しい。正しい相手を狙ったんだよ」


 目の前に、本当に目の前に彼女の青い瞳があった。じっとぼくを見ている。視線がぼくを貫いている。鈎のついた棒のよう。ぼくの心の中に突き刺さり、言葉を引きずり出す。


「ぼくは、辛い…」


 口に出して酷い後悔に襲われる。目の前の女にそれを伝えてなんになる。これはぼくが背負うもので、彼女には関係ない。


 耐えられず目をそらす。

 ぼくは同情を買おうとしている。かわいそうだと思って欲しい。哀れんで欲しい。よくやっていると言われたい。

 でも、彼女がもしそうしたところで慰めにはならないだろう。彼女もまた、ぼくが責任を負うべき人だからだ。


光の宮殿パール・ルミエに出仕せよとあなたが命じられた、そう父から聞いたとき、ブラウネは絶望しました」


 これまで無言の彼女がようやく口を開いた。


「絶望? それほどいやだったか」

「…下女に落とすと、そうおっしゃったものと早合点したのです」

「下女? なぜ。そんなことがあるはずがないだろう」

「でもあなたは”世話トレをさせよ”とおっしゃったと」


 ブラウネの顔が少し赤みを帯びる。

 下女と世話トレの間にどのような関係があるのか、すぐには分からなかった。少し考えてハッとする。


「いや、まさか。そんなことは考えていない。ぼくは…」

「ブラウネはその場で承知しました。あなたがそう望まれるなら、と」


 下女がある種の性的な存在であることは何となく分かっていた。主に下男と下女の間で、が行われているらしいことも。


「なぜ? ありえないことだ。きみは侯爵家の姫だぞ」

「はい。でも、あなたのご命令です。従うほかありません。ブラウネは自分の運命を受け入れるしかありません」

「馬鹿なことを! ぼくがそのような」

「ブラウネには自分で何かを決めることは叶いません! このサンテネリで全てを決めることができるのは、あなただけ」


 ぼくを一刀両断する、それは鋭い言葉の刃だった。


「ブラウネは自分の境遇を定められません。その代わり、恨むことができます。あなたを。あの時、お母様が冷静に状況を判断してくださっていなければ、ブラウネはきっと自害していたでしょう。恨み、耐えられず、命を絶つこと。それしか叶いません」


 改めて自分の迂闊さを痛感する。メアリさんだけではなく、彼女もまた死の淵にいた。ぼくが追いやっていた。そんなつもりではなかったとは言えない。言うことができない存在なんだ。


「全てを決めることができるあなたは、だからこそ誰も恨めません。だれにも責任をなすりつけることができません。——それをあなたが自覚されていることが、ブラウネにはとても嬉しいのです! それを引き受けられるのは勇者だけ。真に勇敢な殿方だけが引き受けられる重荷です」

「ぼくを勇敢と言ったのはきみが初めてだ」

「あなたは昔、たくさん威勢のいいことをおっしゃいましたね。エストビルグを従える。アングランを征服すると。よくお茶会でお聞きしました。——実はブラウネは、そんなあなたを内心軽蔑していました」


 彼女は杯を掴んだぼくの手を自分の口元に引き寄せ、葡萄酒を一口流し込んだ。

 ぼくの酒を。

 彼女は行くところまで行く気らしい。


「その後、あなたは変わられました。グロワス様は本物の王になられました。ブラウネはそれが何よりうれしいのです。ブラウネは威勢がいいだけの小物の側に侍りたいとは思いません。真に勇敢な王の足下に侍りたいと願います。——その願いが叶ったのですから、本当に幸せ者です」


 ぼくは目の前の女の意外な姿を見ている。もっと常識的で控えめな、典型的なサンテネリの淑女だと思っていた。泣きつけば胸元に迎え入れてくれる、そんな母性的な性格を空想していた。でも、実際の彼女は峻厳で誇り高い。


「グロワス様はフロイスブル家の成り立ちをご存じですか?」

「少しだけ。遙か昔、女性の当主がマルグリテ女王のもとで功を遂げ、軍伯に封じられたと聞いている」

「当家初代の名もブラウネといいました。世間で知られる歴史は外向けのものです。ブラウネの本当の主はマルグリテ女王ではありません。我が家に伝わる話では、その名はユニウス。当時サンテネリの元帥を務めた武人です」

「ユニウスとは、あのユニウスと関係があるのか?」


 危険思想。そう言ってよい。

 今から900年ほど前、ユニウスなる人物が書いたとされる短い覚書の写しが近年巷に広く流布している。

 宗教に根拠を持たない人間存在の平等、人の自由意志による選択とそこから生じる責任、魔力概念の否定、運命の否定、教育の意義と重要性。現代日本を生きたぼくには全く違和感のない思想あるいは哲学を無秩序に記した覚書。冷静に考えてこれほどおかしなことはない。先進的過ぎる。

 そんな彼の思想がパンフレットになって密かに、あるいはおおっぴらに世に出回るようになった。平民のみならず一部の貴族も影響を受けているようで、最近では内務卿がその動向に目を光らせている。


「はい。そのユニウスです。今では思想家としてですが、本来の彼は軍人でした。最後はマルグリテ女王に反旗を翻し、刑死したと伝わっています」

「では逆賊か。きみの祖先はよく生き残れたな」

「不思議なことにマルグリテ女王は彼の死後、その部下達を引き立てました。近衛のバロワ家初代も元はユニウスの部下ですから」

「近衛。メアリ殿の。——マルグリテ女王はよほど器が大きい方だったんだろうな」


 女王戴冠。旧城の広間に飾られたあの中世絵画はマルグリテ女王の戴冠を描いたものだった。あの人か。あの冷たい目をした…。


「マルグリテ女王は生涯結婚なさいませんでした。女王は常に剣を佩かれていたそうです。それはユニウスが愛用したものであったと伝えられています」

「それはまた…。つまりそういうことか」


 マルグリテ女王とユニウス元帥はある種の親密な関係にあった。それが最終的に拗れ、元帥は反乱に及んだ。マルグリテ女王は彼を忘れられず、というわけだ。


「確かなことは分かりません」


 ブラウネはもう一口、葡萄酒を飲んだ。首元が少し赤みを帯びて空中に色香が舞う。


「初代ブラウネは子ども達に家訓を残しました。”勇者の元で槍を振るえ”と」

「勇者か」

「ブラウネは初代の名を継ぐ女です。槍を振るうことは叶いません。でも、勇敢な方の元にありたいと願います。今ブラウネの目の前にいらっしゃる殿方は勇敢な方。ブラウネを必ず背負ってくださいます」


 目が据わっている。その言葉には有無をいわせぬ迫力があった。


「きみは面白い人だ。弱ったぼくに、さらに自分を背負えという」

「はい。背負ってくださいませ。不器用なお手元は、このブラウネがお世話いたしますから」


 彼女の笑みはお姫様の甘ったるいそれではない。成熟した女の、男を籠絡する笑顔だった。




 ◆




 知られること、理解されること。

 それはぼくにとって未体験のものだ。日本に生きた頃、付き合った人も居た。親もいたし、友人もいた。でもぼくは自分が理解されることを求めなかったし、諦めていた。

 ぼくをこじ開けてくる人はいなかった。もし居たとしても強く抵抗しただろう。


 ブラウネがぼくを知ったから、理解したからといって何かが変わるわけではない。相変わらずぼくは溺死寸前で、空気を求めてあえぐような日々を送り続ける。

 でも、ぼくを知っている人がいる。

 それはとても素晴らしいことだ。


 あれからずっと上の空だ。夕食会で何を話したのかも全く覚えていない。ただ、目の前で気持ちよくしゃべり続けるアキアヌ公もまた、ぼくを理解してくれるだろうか。そんなことを考えていた。


 そして寝床について、身体の火照りは全く収まらない。酒を飲み過ぎたんだろう。心臓の震え、血管の膨張。耳鳴り。それを強く感じる。


 久しぶりに生身の女性を感じた。ブラウネから。


 ぼくは欲情している。

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