Nowhere to go 始

tokison

第1話 父親と母親が裸でプロレスをしていた 

今でも鮮明に残っている、あの忌まわしい記憶。

あんなものを見なければ、俺の人生はほんの僅かでもマシになっていだろうか。


いいや、恐らく其れは違うだろう。

あれは只のノイズでしかない。俺という存在其の物が、初めからいなければ良かっただけの話。


ただそれは、俺のせいでは無い。全ては生まれた時から決まっていた。

俺はこの世に存在しなければ、其れが1番幸せだった。





俺はその時、小学4年生だった。酷く寝苦しい夏の深夜、俺は冷えた麦茶を欲し台所の方へ向かおうとしていた。

しかし部屋を出た瞬間、異様な物音を聞いて一瞬足が止まった。

例えるなら、夜中に野良猫が出す声を聞いた様な。獣が発する、独特のあの土臭い感じ。

何かが激しく擦れる様な音。其の全てが俺を心底不安な気持ちにさせた。

幽霊では無い事は既にわかっていた。何故なら音の発する場所が、俺のいる廊下の先の部屋だったから。



俺が其の音の発する場所に近付いたのは、好奇心や探求心といった楽しい気持ちに駆られたからではなかった。

不安と恐怖と、何よりも強い悪の臭いを感じ取ったからだった。

夜中に俺の家に泥棒が入り込んで、寝室に居る父と母を痛めつけているのではないかと思ったのだ。

俺は一度部屋に戻って、何でもいいから武器になりそうなものを探した。たまたま図工で使っていた彫刻刀が机の上にあったので、俺は其れを握り締めて再び静かに部屋の外へと向かっていった。



俺は本当に泥棒が父と母を痛めつけていたら、迷わず此の彫刻刀を泥棒の全身に突き刺すつもりでいた。

少しその足取りは恐怖で震えていたが、俺は自分の行動を正しいと確信していた。

俺の家はとても貧乏で、父と母は二人供毎日遅くまで仕事をしていた。「疲れた」「お金が無い」が口癖で、そんな俺の家から何かを奪う事は絶対に許せなかった。

父と母を特別好きだったわけではない。もう此れ以上俺の家が貧乏になって、今以上に生活に困るのが心底嫌だったのだ。




彫刻刀を握り締めたまま、俺は物音を立てないようにして両親の寝室の方へと向かっていた。廊下の先が父親の部屋で、その横が母親の部屋だった。

異様な声と物音は、母親の部屋から聞こえていた。俺は母親の部屋の手前で止まり、壁に耳を押し当てて中の様子を伺った。

奇妙な事に、俺の耳には父と母の声しか聞こえてこなかった。泥棒が居る様な気配も無く、単に二人が声を潜めている様にしか思えなかった。

ただ布団を擦るような音が延々と続き、たまに母親が野良猫の様な声を小さく発していた。

俺は何が起きているのか怖くなり、恐る恐る扉の隅から中を覗き込んだ。母親は酷くズボラな性格なので、大体寝室の扉は開けっ放しだった。



其の時に俺が見たものは、自分の父と母が裸でプロレスをしている姿だった。

父親が母親の上に乗り、何故か母親に寝技を掛けていた。俺は其の姿を見て、只々呆然としていた。

何故深夜の3時に、父と母がプロレスの練習をしているのだろうか。うちが途轍もなく貧乏だから、泥棒が入った時の為に懲らしめる為に?

母親は父親に関節技や締め技を掛けられているのに、なぜ声をあげるだけでタップをしないのだろう。

俺は漫画が好きでプロレスや格闘術の漫画を読んでいたので、辛い時はタップをして降参する事を知っていた。

頭が混乱した状態で、俺は静かに自分の部屋へと戻っていった。そして彫刻刀を机の上に放り投げ、さっさと布団の中に潜り込んだ。

胸の中がムカムカして、気持ち悪さでその夜は一睡も出来なかった。当時小学四年生だったガキの俺にも、何か見てはいけないものを見たという感覚は鮮明に残っていた。

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