邪神の牙

斎藤帰蝶

序章 旅路

風が少し冷たい。


ふっと、そんなことを考えた。


おかしなことだと思う。

こんな時でも、感覚は自分が生きていることを知らせる。

いや、こんな時だからだろうか。


今まで、風の冷たさとか、草の匂いとか、空の色とか、

意識したことがあっただろうか。


感覚が何かを捕らえることが『生きている』ということなら、

今までの私は生きていなかったのだろうか。


馬鹿げてる。


私は頭を振って、妄想を追い出した。

少しだけ、感傷的になっているだけだ。


「エア?」


あの時から、一言も発しなかったセレンが、私の名前を呼んだ。

『私』の、名前を。


不覚にも、胸が熱くなる。

こんな状況でなければ、どんなに喜ばしいことだろう。


私は少し息を吸って、気持ちを落ち着ける。


この子は不安がっている。

決意が揺らいできているのかもしれない。


「もう少し、先へ行こう。」

「足が痛いよ。もう歩けない。」


堰を切ったように、セレンは泣き出した。


小さな足を飾っていた綺麗な靴は、

今や、纏わり付いているだけのボロとなっていて、

血が滲んでいる。


いや、足だけではない。


気がつけば、セレンの華奢な体は、

無数の傷と泥に覆われていて・・胸が強く痛んだ。


私にもう少し体力が残っていたら、

抱きかかえたり、おぶったりして、

少しでも楽をさせてやることができただろう。


「エア?」


言葉を失っていた私が我に返った時には、

セレンは、もう、泣いていなかった。


「大丈夫‥?顔色が悪いよ‥。」


私の顔を、澄んだ瞳が、見つめる。


「やっぱり、あの時、肩を‥」

「歩こう、もう少しだ。」


私は敢えて、言葉を打ち切った。

セレンはただ頷き、それ以上は何も言わなかった。


そうして、どちらからともなく、再び手を取り合い、足を進めた。


藪が開けて、風が一際強くなった。


そこは高台となっていて、見晴らしが良かった。

目的の場所に違いない。


眼下には炎に包まれた建物が、夜闇に浮かび上がっている。


それは不思議と美しい光景で、

私たちはしばらく、静かに見入っていた。


「始めようか。」


私の言葉を受けて、セレンが跪く。

そして、ゆっくり頭を垂れる。


まるで、それは祈りを捧げているように見えた。


実際、祈っているのかもしれない。


露わになった、その白い首はあまりに細く、

手折ることさえできそうで、私の心を躊躇わせた。


しかし、所詮、他に道はない。


私は腰の剣を抜き、上から振り下ろした。


・・


腕が‥動かない!?


まるで、自分のものではなくなってしまったような感覚!


「やめなさい。」


背後から声が聞こえた。


その声はあまりに静かで、丁寧だが、

私の体はすでに、逆らうことができなかった。


「何故‥邪魔をする‥」


今まで心の奥底に押さえ込んできた激情が、体を震わす。


「我らを哀れと思うなら‥

 人の情けがあるのなら‥」


もはや、言葉と共に溢れてくるそれを、

止めることはできなかった。


「何故、死なせてはくれないのか!?」


私の怒声は、自分でも驚くほどの強さを持っていたが、

それでも、声の主は、あくまでも静かに佇んでいた。


「何故!?」


私は、今度は正面から言葉をぶつけようと、ふっと目を遣った。


!?


私は思わず、言葉を呑み込んでしまった。


そこに佇む人物は、異様な姿をしていた。


白髪に白い肌、白い衣装‥

それ以上言葉を発しないこともあって、

石像のように思えてしまう。


私の怪訝そうな視線にも、

セレンの怖れを含んだ眼差しにも、

相手は静かに見つめるだけだった。


ただ、沈黙だけが辺りを支配していた。


私たちは、そうして、しばらく、

お互いに見つめ合っていた。


相手は終始、静かだった。


そのうっすらとだけ青みを宿す白い瞳は、

澄み渡った清涼な泉の水のように見えた。


まるで、その瞳に引き込まれるように、

私たちは視線を外すことができなかった。


どれぐらい時間が経っただろうか。

相手の唇が動いた。

そうして発せられた声は、やはり静かで‥淡々としていた。


「それは、私が神だからだ。」


一際強く、冷たい風が、頬を殴るように通り過ぎていった‥。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る