第2話 本編
それは、小学五年生の夏休みの出来事だった。
その日は特に予定もなく、僕は二階の和室でゴロゴロして暇を潰していた。
今日の分の宿題は午前中に終わってしまったし、暑い中外で遊ぶほどの元気もない。それにお昼ご飯を食べた後、横になったせいか、眠くて仕方がなかった。
当時は自分の部屋がなく、子供部屋では母親が掃除を始めてしまった。それで僕は、和室にやって来たのである。
和室では妹が丸椅子に座り、パソコンで遊んでいた。
ポーカーだったか、大富豪だったか。その辺の記憶は曖昧だが、トランプゲームをしていたのは覚えている。
僕は怠惰にゴロゴロ転がりながら、妹に近づく。ボーっとしながら、画面を見上げた。
妹は僕が近づいたことに気付いていたと思うが、特に気にすることなく、ゲームを続ける。僕も『なんでそこでその手を切るんだよ』とか、妹のプレーに心の中でツッコミや実況を入れながら、勝手に楽しんでいた。
妹なりに戦略とかあるのだろうし、僕だって途中で横やりを入れられるのは良い気がしないから、口ははさまない。
エアコンから吐き出される風の音、マウスをクリックする音だけが、静かな部屋に響いていた。
「……………」
妹は勝ったり負けたりを繰り返し、気がつけばそこそこ時間が経っていた。
僕は、妹のプレーにツッコミや実況を入れる遊びに、だんだん飽き始めていた。
元々眠かったこともあるし、トランプゲームは絵的にも地味だ。妹の考えはある程度想像できても、心の中でどんな駆け引きをしているかよく分からない。
僕はあくびをして、視線を画面から天井に向けた。
そんな状態だったから、その少し前に何があったのかは分からない。
妹が何らかのきっかけで、丸椅子から落ちたのだ。
――僕のお腹の上に。
「―――――っ!?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
きっと『悶絶』とか、『筆舌に尽くしがたい痛み』とかって、こういうことを言うのだろう。息をすることも苦しい。とにかく、僕が今まで感じたことがない『痛み』だった。
「ごめん。お兄ちゃん。 ……大丈夫?」
顔を真っ青にした妹が、僕に謝ってくる。でも今の僕には、それに対応できるほどの余裕がない。
「大丈夫……大丈夫……だから」
僕はそう言って妹を慰めると、右手でお腹を押さえながら和室を出た。
廊下に出た途端、夏の熱気が体を包む。
だけど、それを気にする余裕もなかった。お腹に意識が集中していて、他の感覚が麻痺していたのかもしれない。
よろめきながらも、僕はなんとか階段を下り、一階の台所に入った。
しゃがむと痛みが増した気がするので、壁にもたれかかる。
ふと鏡を見ると、自分が泣いていることに今更気がついた。妹が顔を真っ青にしていたのも、そのせいだったのだろう。
涙が気になって左手で拭うが、簡単には止まってくれない。自分でも酷い顔だと思う。これだけボロボロと涙を流したのは、久しぶりだった。
ただ痛いというだけで、これ程心がかき乱されて、不安になるものだっただろうか?
父は仕事で家にいないが、二階に戻れば妹と母がいる。一階には祖母がいる。
助けを求めることはできたが、ただ『お腹が痛い』という理由で
別に家族と不仲という訳ではない。
『男の子なんだから、お兄ちゃんなんだから、多少痛いのは我慢しなさい』と、特別、そんな風に育てられた覚えもない。
でもいつの間にか、僕は他人を頼ることが苦手になっていた。
相手に迷惑をかけたくない。
それもあるが、理由としては半分くらいだ。
本音を言えば、相手の反応を見るのが怖いのだ。
自分が思っていたことと違う反応をされると、何となく裏切られたように感じてしまう。そうなると、もう本音が話せなくなる。モヤモヤしたものを溜め込んで、逆に苦しくなる。そうなる可能性があるのなら、できるだけ他人と関わらずにいたい。
幸い、痛みは引いてきていた。これなら耐えられると思う。
心に多少余裕ができると、今度は夏の暑さが気になり始めた。感覚が少しづつ戻ってきたようだった。
誰もいない、エアコンの効いた部屋に行きたい。
そう考えると、二階に戻ることになる。妹や母には心配されるだろうが、さっきみたいに適当にあしらえばいい。おとなしく寝かせてくれるだろう。
「せめて涙の跡くらいは消して…………?」
流し台の方へと体を向けた時だった。生暖かい何かが、自分の太ももを伝って流れていることに気がついた。
もしかして、漏らしてしまったのだろうか?
もしそうなら、余計に親には言い辛い。でも、小便を出しているような感覚とは違う気がした。
「………………」
嫌な予感がする。背筋を冷たい何かが走り抜けた。
引っ込み始めていた不安が、また顔を出す。目を逸らしたいが、確認しない訳にもいかない。
僕は恐る恐る、ズボンの中身を覗いてみた。
「……何これ?」
顔から血の気が引く。
――僕の股間から血が流れていたのだ。
「は? ……は? はぁ!?」
訳が分からなかった。頭が真っ白になって、パニックになる。慌てて血が出ている部分を手で押さえるが、指の隙間から溢れてしまう。止ってくれそうになかった。
ズボンの裾からも、赤い血が流れ落ちていくのが見える。その光景から目が離せない。
どうしよう?
どうしよう?
どうしよう?
僕はただただ、怖かった。それ以上の感情が浮かばない。赤色が、思考を埋めつくしていく。
僕は大泣きして叫んだ。
『一人で耐えよう』なんて思っていたが、これは流石に無理だった。
それからの記憶は、ほとんど飛んでいる。
まず一番近くにいた祖母を呼んで、次に母を呼んでもらい、近くの病院に連れて行ってもらった。
お医者さんや看護師さんにも恥ずかしいところを見られたはずだが、それも覚えていない。
ただ病院を出たころには、血はすっかり止まっていたのだった。
後から母に聞いた話によると、血尿だった訳ではなく、皮膚が切れてそこから血が出ていたらしい。
また、血が出たのは
僕は成程なと思いながら母の話を聞いていたが、正直、そんなことどうでも良かった。
股間を見つめると、今度は恥ずかしさも湧いてくる。
この一件は僕にとって、不安と恐怖と羞恥が入り混じった、そんな事件だった。
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