拝啓、もう一人の私が、あの人と幸せに暮らしますように。
うみのまぐろ
拝啓、もう一人の私が、あの人と幸せに暮らしますように。
「梨絵さん。私は、75 年後の未来から来たあなたです。一つお願いがあるのです」
庭の桜の木が満開となる、春の季節の頃だった。ちょうどその頃、学徒出陣の決定が新聞を賑わせ、アメリカとの戦争は、さらに苛烈さを増していくような、そんな機運が高まるころの出来事であった。だからこんな話を誰にしても、信じてくれるはずはないのかもしれない。
私の目の前に正座しているのは、今日の私と、全く同じ薄紅の 紬つむぎを纏った、私と全く同じ姿形をした女性であった。おそらく私と異なる点は、そのどこか優し気な中に憂いを湛えた瞳と、所作立ち振る舞いの余裕であろうか。それは、高等女学校を出たての十八の小娘の私には、決して持ちえない余裕であった。女学校で出会ったどんなに格の高い家の娘でも、このような所作は身に着けることはできないだろう。
そんな彼女は、三つ指をついて私に深々と頭を下げた。丸めた背中には、それがどれだけ彼女にとって、代えがたい願いなのかが伝わってきた。
「あなたの2日間を、私に譲って欲しいのです」
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思えば望まない結婚だった。
京都の隣の県の、海の近くの温泉街で老舗旅館を営む私の家は、残念なことに私と妹、二人の娘しか生まれず、男子ができなかった。妹を生んだあたりで、母様が体を悪くしてしまわれたからだ。お妾さんを取ることも父様にはできたのだろうけど、けれどそれを父様は良しとしなかった。だから長女である私が婿を取り、この家を守っていかなければいけない、と、一族の間ではいつの間にかそういうことになった。
そうして女学校を卒業してすぐ家に戻った私は直哉さんと結婚した。両家の間、親同士で合意した見合い婚であった。いや、正確には人身売買にも近いものだったのかもしれない。
資産があった私の家は、格は高くとも没落していた直哉さんの家に金をちらつかせ、札束で頬を叩くようにして、次男であり家を継ぐことのできない直哉さんを買い取ったのである。
だから、直哉さんがこの結婚について肯定的であるのか、否定的であるのかその胸中を知りえることはなかった。そして実際私自身も女学校の友人が言う、恋愛結婚、というものに憧れていたりもして、気持ちの整理がつかないままでの縁談であったので、おそらく望ましいものではなかったのである。
だけど、直哉さんは優しい。背が高く、端正な顔立ちをしていた。雨の日傘を忘れた私を、女中を使えばいいのにわざわざ傘を持って出迎えにも来てくれた。切れた下駄の鼻緒も直してくれたし、一緒に買い物に行くときは、私の荷物を持ってくれる。笑顔が素敵な優しい人。そのことは十分わかっているつもりだ。望まない縁談の中にあっても、もしかしたら直哉さんは、私のことを梳いてくれているのかもしれない。
彼の優しさは、私にそれを伝えるのに、十分なものであったのだろう。けれども、私は女学校の寮に住んでいたとき、両親から見合いの写真を見せられたそのとき、頑なにひどく反駁した。どうしてもこの縁談を強行するのなら、私は両親と絶縁する。そうとまで言ってのけたけれど、両家、そして直哉さんの方々から説得され、この戦争という時代と、そして家を存続させなければいけないという事実を突きつけられて、私はつれない態度を取りながらも首を縦に振ったのである。
だから、直哉さんがどんなに私に優しくしてくれたとしても、私が彼との結婚を渋々了承したという事実は消えず、見合いの席で、この人さえいなければ、と、ふと思ってしまった私が、『私はあなたを愛することはありません』と、そう言い放ってしまった言葉は消えず、彼のことを好い人だと思う自分の心が正しいのか、正しくないのか判別もできないままで、ふくれっ面のまま生きているだけだった。
そんなときであった。
直哉さんに、赤紙が届いたのである。それはもちろん、めでたくお国のために戦争に行きなさい、という、国からの命令なのであった。
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たちまち、私の家は大騒ぎになった。
赤紙は家を継ぐ長子は免除されやすいものだと聞いていたけれど、直哉さんは養子であるし、といったところが仇になったのかもしれなかった。正直なところを言えば、直哉さんがいなくても私さえいれば、この家は存続するのだから。けれど両親にとって計算がいであったのは、せっかく高い金をはたいて買った娘婿が、子種をはらむこともないままに、その種が戦に行くことになったということだろう。
その渦中にありながら、右往左往する家の者とは、異相のずれた別の世界にたたずむような直哉さんは、困ったように私に微笑みかけた。『梨絵さん、すいません。僕は戦に行かなければなりません』。私はその逆光を直視することができず、罪をとがめられる子供のように目を逸らした。もしかしたら私の呪いを、神様が叶えてしまったのかもしれないと思ったからだ。
そうして、直哉さんが赤紙に記載された招集に間に合うように発つ日は、明後日ということに決まった。招集日時には必ず間に合うように赴かなければならないから、それがぎりぎりの日取りである。
ああ、そうか。あと二日。あと二日。
けれどその二日は、私にとって僥倖である二日間かもしれなかった。たとえば私の呪いのために直哉さんが戦に行ったとして、それは神様が私にくれた一つの機会なのかもしれない。直哉さんが戦で亡くなれば、私は晴れて自由を手に入れることができるだろう。私自身が愛する人を探し、そしてその人と結ばれる。呪いを振り払い直哉さんが生きて帰れば、仕方ない。この賭けは私の負けとなり、私は誰も愛することがないままに、好きでもない人の隣を生き、つまらない一生を終えることになるだろう。この二日間を乗り切れば。そこへ、その二日を、未来から現れた私は下さいと言ってきたのだった。この二日間、直哉さんと顔を合わせぬこと。それは私が何の思いも抱かぬままに、この二日間を終えるためには願ってもない選択のように思えた。けれども私は、果たして私がどうするべきなのか、しばらく私は迷い逡巡したのである。いや、そもそも本当に私の目のまえにいる私と瓜二つの女性が、本当に75年後の未来からやってきたのか、その証拠はどこにもないのだから。
その突拍子もない話を信じろと言うほうに無理がある。
私のその懸念を察したかのように、未来の私はくすりと笑ってふと立ち上がった。
そうして、彼女は静かな流れるような所作で、とある戸棚にそっと手を伸ばす。未来から現れた私が、その戸棚をさらりと開くと、そこには黒い漆塗りの、黄色い水仙の細工がなされた文箱が仕舞われている。その箱は。
「私なら、知っているはずね。この箱には、あなたの大切なお手紙が入っているわ。誰かからもらったものや、したためたけれど出す勇気がなかった手紙まで。その中には、女学校に入学する前の私が、女学校を卒業する私宛に書いた手紙も含まれているの」
どうして。と思った。そのことを知っているのは私だけである。お父様にもお母様にも直哉さんにも伝えていないはずなのに。
そのとき、私ははっと気がついた。もしも、目の前の私が本当に未来から来た私なら、その未来の私にあてて書いた手紙の内容を知っているということだ。
「待って!」
未来から来た私は、いたずらっぽく笑った。
「まだ幼い私が、あなた宛てに書いた手紙。そこにはね、『素敵な人と結婚できますように』って書いてあるわ。大丈夫。その願いは叶いました。直哉さんは、本当に素敵な人だから」
「嘘よ。あんな人と、これからどれだけ一緒にいたからって」
私がとっさのことに反駁すると、彼女は困ったように、悲しそうに首を振った。
「梨絵さん、非常に言いにくいのだけれど、この先はないわ」
春風が開かれた戸から差し込む中、彼女は静かに言った。まるで遠い時を見るかのようにして。
「直哉さんは、帰ってこない。私は 75 年の月日を、一人で過ごすこととなった」
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私は宿の一室、二階の部屋で寝転がりながら、天井の木目が作った節目を眺めていた。少しだけ開けた窓からは、春の風が差し込んでくる。庭の脇に枝を伸ばす、青い桜の香りである。そうして私は、この選択は正しいはずだと言い聞かせる。端的に言えば、私は承諾したのだ。直哉さんとの最後の二日間を、未来から来た私と入れ替わるという行為について。あの後、彼女と少し話をした。未来の私が過ごした 75 年間のことを。直哉さんが招集されてから、未来の私はこの宿を任されることとなった。直哉さんは几帳面に、戦地から手紙を送ってくれたのだという。その手紙には、直哉さんの優しさが溢れていて、未来の私は直哉さんのことが、はじめから好きだったことに気付いたのだという。
それらは、ただ直哉さんの無事を祈る日が続いた。戦火は激しくなり、温泉街で療養する傷病兵も増えていった。その数が一人、また一人と増える度、未来の私は直哉さんもまたそうなってしまうのではないかという不安に駆られ、いてもたってもいられなかったのだという。
けれどその願いは裏切られ、宿には一つの文が届けられた。内容は、直哉さんが遠い南の島で戦死したというものだったという。腹に銃弾を受け、引き上げる舟の上で、そのまま帰らぬ人となった。文にはそう書かれていたということ。
それから私は抜け殻のようになり、ふさぎ込んで過ごす日々が続いた。でも、私の胸に焼き付く何度も再生されるのは、直哉さんとの思い出であったのだという。未来の私は直哉さんの優しさを思い出し、そして直哉さんのことが好きだったことだったことに気付いたのだという。そしてようやっと私は、私が直哉さんを忘れることなどできないこと。直哉さんとの思い出を抱えて、一人で生きていくのだという決意をして、そうしてその通りに生きたのだそうだ。敗戦を迎え、激動の時代を迎える日本の中で。
『それだけの人生、と思うかもしれないけれど、実際は違ったの。』
未来の私は、困ったように眉を顰めて静かに笑った。まるで懐かしい思い出を見るようにして。
『あの人が戦に行ってから、私は、一日一日、次の日もまた次の日も、もっともっとあの人のことが好きになった。その気持ちはとめどなく私のこころに降り積もり、胸を掻きむしりたくなるくらい痛くて苦しくて狂おしいものだった。でも、そんなふうに生きた私の日々は、本当に幸せなものだったのよ』
そんな彼女の表情は、とてもきれいで美しくて、私はひととき目を奪われて、そして目を逸らしたのだ。彼女の姿は、凛とした少女のようであり、優しい母のようであり、そして深い皴の刻まれた、小さな老人のようでもあった。
私は、未来の私と入れ替わったことがばれないように、温泉宿の、今日明日は空室になっていた客室の一つに引きこもることにした。家人たちに言いつけて、食事のとき以外は誰も来ないように言いつけてある。この家に私が二人いて、秘密の計画を実行しているなんてわかりえる人は多分いないだろう。春風に誘われて広縁に備えられた椅子に座ると、中庭に咲く桜の花が見えた。
あのとき。
いいですよ。と、逸らしたままの目で、私は答えた。正直なところを言うと、私がこれから七十五年間、直哉さんに焦がれるような恋をするとは思えなかったし、それに仮にそうだったとしても好きの強さを比べるとしたら、この二日間は彼女に与えられるべき時間だと思ったからだ。
日は、少しだけ傾いていた。おそらくはそろそろ、商工会議所に出かけていた直哉さんが戻る時間に違いない。今日は直哉さんの壮行会だから、またすぐに出かけて行ってしまうだろうけれど。そんなことに一日を浪費してしまう彼女について、少しだけかわいそうな気もしたのだ。
さく、と、草を踏む音がする。直哉さんが帰ってきたのだろう。私が桜の木に目を向けたとき、まるで小犬のように、小走りに駆け寄る薄紅の
国民服を纏った直哉さに、まるで飛びつくように抱き着くと、そして瞳の潤んだ顔を上げた。あんなに凛としていた彼女とは、同一人物とさえ思えない表情だった。
彼女は言った。はらはらと桜の散る庭先から、遠く声が聞こえる。
会いたかった。
私は、あなたのことが好きです。
その告白に私は、音をたてないようガラス戸を閉めた。
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次の日、未来の私と直哉さんは、朝から二人で出かけていった。直哉さんが、最後の日くらい、夫婦水入らずで過ごしたいと、一週間ほど前に申し出たからである。私が彼に対してする仕事は、役職としての妻からくるこころの一つも入らないものであったので、最後の最後くらいしかたない、と、渋々了承したものである。
前の日、飲んで遅く帰ってくる直哉さんを待つ夫婦の部屋に、私は夜そっと忍んだ。そこには夜具を纏い、電灯の明かりを頼りに手紙をしたためる、未来の私の姿があった。直哉さんへの手紙であろうか。住み慣れたはずの私の部屋は、まるで別の誰かの、もっと格の高い誰かのものであるかのような、そんな疎外感が感じられた。
『残念ですね。せっかくの二日間なのに、今日は直哉さんが遅くて』
無意識に出た私の言葉は、少しだけ意地悪だったのかもしれない。だから私でさえ気付いたその意味を、未来の私が理解しえないわけなんてなかったのだ。だっていうのに彼女は静かに笑うと、庭の足音が聞こえるよう、少しだけ開けた窓の先を見遣った。
『いいえ。帰って来てくれるなら、待つのはとても楽しいものよ』
未来の私はその手紙を隠すように、そっと本を重ねた。
『あなたには、とても感謝しているの。私に、この二日をくれて』
その言葉に、何も言えなかった。私が彼女のもとに訪れたのは、彼女が現れてから私の中に巣食い始めた、もやもやとした気持ちの根源を確かめるためであった。結局のところその目的は叶わぬまま、私は逃げ出し、そして朝を迎え、二人は出て行ってしまったのだ。
しばらくして、私は女中に服を借りて家を出た。私のこの胸の内に巣食う気持ちを確かめるには、二人を遠くから眺めていることが一番だと判断したためである。小走りにあたりを探していると、直哉さんは私は桜の咲く温泉街の川沿いの道を、未来の私に手を引かれながら歩いているところであった。私は、そのまま二人についていくことにした。
街の中ほどにある神社で無事の祈願をして、お団子をつまみ食いしながら桜並木を眺めて。足湯で疲れを癒した後に、遊技場で直哉さんは弓矢で真ん中を射貫いて景品をもらって。
二人でお蕎麦をいただいて、長い時間をかけてこの温泉街にたくさんの思い出を残していく。
未来の私は、まるで少女のようにはしゃぎながら、一心不乱に直哉さんを見つめて、そしてたくさんの言葉を彼と交わし、笑い声をあげた。それはまるで、降り積もる七十五年間の思いが溢れだしたかのように。
直哉さんと私が知り合ってから、一年ほどたっても何一つ重ねることのなかった思い出を、彼女はたった一日で、たくさんたくさん作り上げていくのである。意気地なしの私には、ついぞできなかったことであった。
そうして夕暮れが訪れた頃、温泉宿に戻った二人は、満開の桜の下で口づけを交わした。
いっそのこと永遠になってしまえばいいように思えるような静寂の中、美しい二人の下に赤く染まった桜の花びらは舞い落ちる。直哉さんはきっと、あそこにいるのが私だったとして、あんな表情を浮かべることはなかっただろう。そう思うとひどく惨めになって、私は二人に見つからないように、宿の客室へと急いだのである。
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夢を見た。
それは、直哉さんと一夜を共にする、未来の私の夢である。見知った夫婦の部屋、一つの布団の上で、直哉さんと私の体は強く絡み合っている。私はまるでたくさんの思いをぶるけるように、自分から直哉さんを求めていく。上気した頬は優しく、照れたようで、けれど嬉しそうにして、それはとても美しかった。直哉さんも、それに応えるようにして彼女を強く抱いた。
私はそのさまを、俯瞰するように漂いながら眺めていた。この夢は、きっと夢でなく本当のことで、神様が意気地なしの私に与えた罰なのかもしれない。
やめて欲しいと伸ばした手は届かずに、私はやっと、私の中に沸き上がっていたもやもやとした感情は、一つの嫉妬であることに気が付いた。それを理解したとき、胸は張り裂けそうなほどに悲しくて、苦しくて、あそこにいるのがどうして私でないのだろうと思った。
いや、認めよう。今この世界で、あそこにいるべきは私ではなく彼女である。彼女が降り積もらせた月日の想いは、私なんかが及びつくものではないのだから。私と彼女が同じものだとして、その純粋性を目のまえにしては、私は彼女にその権利を譲らざるを得ないのである。
悲しくて、悔しくて、けれど同じくらい直哉さんのことがすきだと気付いて、私はぎりぎりと奥歯を噛んで、あふれ出そうになる涙を飲み込んだ。
認めよう。私は直哉さんが好きだ。好きの強さで、未来の私に叶わなくっても。
そのとき、直哉さんの上に乗る玉の汗が浮いた私は、そっと私の漂う天井を見あえげ、そして、まるで別れを告げるように、口元だけで小さく『ありがとう』と言った。。
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次の日、未来の私は最初からいなかったかのように、煙のように消えてなくなっていた。
部屋を覗きに行くと、直哉さんが取り乱したように慌てていて、私の顔を認めると、『昨日のことが夢だったのかと思って』と安堵した。『夢ではありませんよ』と、笑った彼の優しい表情に、私の胸は、ちくりと少しだけ痛んだ。
そうして、直哉さんが旅立つ日がやってきた。よく晴れた、桜の花びらの散る朝である。
私はせめてもに私の持つ中で、いっとうお気に入りの水仙の着物に着替え、直哉さんを送り出すことにした。
たくさんの家人たちに見送られながら、国民服に旅支度を整えた直哉さんは、この旅館を後にしていく。みんなお国のために頑張ってきてと彼に言う。でも私は知っている。彼は南の島で死ぬことを。これが今生の別れであることも。
手を振りながら歩く彼の姿が少しずつ遠ざかっていく。張り裂けそうな胸の痛みをこらえながら、私は未来の私にお礼を言った。断言しよう。あなたのいた世界のいた直哉さんよりも、私の世界の直哉さんのほうが、幸せな思い出を持って死者となることができるだろう。
きっとそれは私ではできなかった、あなただからできたことなのだ。私は直哉さんのことが好き。だから直哉さんが笑っていれば、きっとそれでいいじゃないか。
きっと、これで。
いいわけ、ないのだ。
私は、着物の裾が乱れるのもかまわず駆けだした。そして、桜の木の下で手を振る直哉さんの胸に飛び込むと、強く服を掴んで、どんどんと胸板を叩いた。ぽろぽろと涙があふれていた。ああ、なんてみっともない私なんだろう。未来の私はあんなに凛としていたっていうのに。
今の私に、あなたに好きだなんていう権利はきっとない。それなら私にできることは、あなたの無事を願うことだ。あなたがいなければよかった、何て神に祈った、その呪いを払うことだ。私には何もできないけれど、せめてこれだけはあなたに伝えたい。
「梨絵さん、大丈夫、たくさん手紙を書きますから」
泣きじゃくる私をなだめるように、直哉さんは言った。でも、私はその言葉に首を振った。
「手紙なんて、いらないから。必ず生きて帰ってくると約束して。私は、あなたをずっとここで待っていますから」
そんなわがままを、誰が聞いてくれるっていうのか。
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それから、一年が過ぎた。未来の私は直哉さんはたくさん手紙をくれたというけれど、私の手元には南方から一通の文も届くことはなく、直哉さんが帰ってくることもなかった。未来の私が言うとおり、きっと直哉さんは腹に銃弾を受け、南方の島で亡くなってしまったのだろう。
私は思う。
死ぬべきは、きっと私だった。純粋なあなたに呪いをかけた、心の醜い魔女の私こそが、あなたの代わりに命を落とすべきだった。
あのときの言葉は、一日一日が過ぎるたび、季節が巡るたびに何度も何度も、雨のように、紅葉のように、雪のように、桜の花びらのように私の心に降り積もる。『必ず帰って来てください』と、そんな日は来ないことを知っていながら、私はこのどうしようもなく静謐な世界にただそれだけを祈った。
知っているとも。祈りは届かない。願いは叶わない。後悔は降り積もる。人は誰もが孤独だ。だから私はつまらない意地なんて張らず、あのときあなたに愛していると告げるべきだったのだ。恥も外聞もなく、あなたを止めるべきだった。懇願して、あなたのことが好きだって、私のほうが正直になるべきだったのに。
でも。七十余年の月日を過ごせば、もしかするとあなたに愛を告げる機会は私のもとに訪れる。高潔な生き方を貫いた未来の私はこの世界にやってきて、そして最後の二日間を直哉さんと過ごすことができた。それは 75 年間夫を愛し続けた彼女だからこそ、神様から与えられたご褒美なのかもしれなかった。それが待っているのなら、きっと私は生きていくことができるだろう。
――でも。
そのとき、ふわりとした風が吹き、流れた桜の花びらが私の頬を掠めていった。まるで、どこまでも意地っ張りな私の代わり泣くようにして。
ああそうだ。そんな本当にあるのかないのかもわからないようなご褒美を目当てにして、向こう七十余年を生きるなんてみすぼらしい真似はできないのだ。その生き方は、未来の私にも、直哉さんにも、きっと神にだって誇れない。私の命が尽き果てて、そして冥府にいくとして、それこそ本当に直哉さんとひとときでも逢うことができたとき、そんな丸まった背中で、卑しいこころで、あなたをまっすぐに見つめることなんてできるはずもない。
なら、そんな日が来なくったっていい。私は誰にも縛られず、私の意地っ張りな、せめてもの正しき生き方を貫くのだ。もし神様が私の死後、あの甘やかな二日間を与えるなんて甘言を吐いたとしても。鼻で笑って突き返してやる。私の人生に悔いはないと。私は幸せに生き、幸せに死んだ。たとえその道が煉獄の炎に包まれていたとしても。
たとえこの世が、この世界が地獄でも。降り積もる悲しみしか見えずとも。
私は。振り向かず、誇り高く生きるから。
だから、涙はあの日で最後なのだ。二人を見送った桜よ。私の代わりに泣けばいい。そしてその目に焼き付けなさい。私が涙の一つも流さなかったこと、その嘘偽りない証人となって。
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そうして、また一年が過ぎ、戦争は終わった。たくさんの人が死に、たくさんの街が焼け、日本は負けた。直哉さんからの便りはない。私は、若女将として忙しい日々を過ごした。療養に来る傷病兵。都会へ帰っていく疎開してきた人々。戦地から帰ってくる人々、私はその一人一人の中に、もう亡くなってしまった直哉さんの姿を探している。
降り積もる。
好きという気持ちは、降り積もる。
もし、直哉さんが生きていたら、そんな思いが、少しだけ一緒にいた時間の、あの人の優しさが、笑顔が、広い背中が、少しだけ触れた手のひらが、私の心に降り積もっていく。その思い出の雪は少しずつ重みを増して、私の胸は、こころは、きりきりと軋みを上げるのである。
この世界は地獄だ。
けれども、たとえそうだとしても、私は歩みを止めない。この痛みは、私があの人を好きでいることとの証明である。だからこの愛しい痛みと共に、私は胸を張って生きるのである。
忙しく毎日は過ぎる。
一人旅館を切り盛りする私に、何度も、何度も再婚の縁談があり、私はそれを断った。しびれを切らした父様は言った。『なら、好きにすると良い。恋愛結婚でもなんでもなさいなさい。跡取りを作ってくれるなら何でもいい』。それにも私は首を振った。『あの男に義理立てするのか? 輿入れのとき、あんなに嫌がっていたじゃないか』
父様の焦りを秘めた困惑に、私ははっきりと答えた。
『私は今やっと、あの人に恋をしている途中です。でも、私のあの人への思い出はこの旅館しかございません。時が来たら、お家のため、妹婿にこの旅館は譲りましょう。それまでは、私がこの宿を守ります』
何を幸せと思うかは、人それぞれだ。
ねえ、直哉さん、私は今幸せです。苦しくても、この世界で好きなだけ、あなたを愛することができるから。
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時は過ぎる。
また一年が過ぎ、戦後の喧騒は少しだけ落ち着きを見せる。この一年で縁談というものではないけれど、たくさんの殿方に愛を告げられ、そのすべてを断った。
「梨絵様は、またお美しくなられました」
私の髪を梳きながら、女中の一人がそう言った。それはきっと、私が直哉さんに、一日一日恋をしているからであった。それだけが、私の生きる理由である。
でも、だからこそこの世界は地獄だ。どんなに凛としていたって、あの人はもういないのだから。一日一日あの人のことを好きになるたびに、胸を焼く灼熱の炎はその勢いを増していく。焼けるような痛みにぎりぎりと歯を食いしばって、私は部屋から春の桜を見上げた。
もう三年になる。零れそうな涙をぎゅっとのみ込んで。
それでも、私は泣かないから。
この思いを、冥府まで連れていくと決めたのだ。
だから、せめて、別の世界の私たちは、勇気を出して、もう少しだけ正直になって。私は何もできなかったけれど、そうすれば、あなたたちは少しのあいだ幸せな、甘やかなときを過ごすことができるから。別の世界の私たちが、あなたと幸せに過ごしますように。それが、私の願いでもある。私は手のひらに落ちた花びらを、かすかに吹いた風に見送った。
そのときである。
ざあ、と吹いた風は、八重桜の花びらを一斉に散らした。その花吹雪の向こうに、見慣れた誰かの背姿がある。花びらが見せた春の幻だったのだろうか。さく、と、あのとき、 二階の部屋で聞いた足音がした。霞の向こうに、私が焦がれたあの人は経っていて、照れくさそうに頬を掻いている。
「――直哉さん?」
私は、震える声を出した。
「すまない。南方からの引き上げ船の中で捕虜になってね。帰国が遅れてしまったんだ」
幻ではない。その言葉は私の耳に確かに届いているけれど。でも。
「嘘。だって、直哉さんは、南方で腹に銃弾を受けそれで」
「ああ。確かに僕は生死の淵をさ迷った。でも、梨絵の言葉がずっと心に残っていた。『必ず帰って来て』と泣いてくれた君の声で、僕はここに帰ってこられたんだよ」
これを、君に返す。そう言って、直哉さんは一つの、水仙の刺繍がされたお守りを手渡した。開けてはいけないよって、君はいたずらっぽく笑っていたね。それは未来の私の悪だくみだということに気付いた。結びをほどき取り出されたされた、小さく折りたたまれた紙片を広げると、年季の入った私の字で、こう書かれている。
『拝啓、もう一人の私が、直哉さんと幸せに暮らしますように』
ああなんだ。あの人はずっと信じていたんだ。あなたが必ず帰ってくることを。そして私と幸せに暮らすことを。そんなふうに気高く生きた、あなたにはどうしたって敵わない。それでももし、たった一言で何かが変わるというのなら、せめて私はもっと正直になろう。あなたが奪っていったあの言葉を、私も直哉さんに伝えたい。だって私と直哉さんの4年越しの恋は、きっと始まったばかりだから。
「私は、あなたのことが好きです。
どの世界の誰よりも、あなたのことを愛しています」
拝啓、もう一人の私が、あの人と幸せに暮らしますように。 うみのまぐろ @uminomagu
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