第6章:愛の再定義

 達樹は自室に戻ると、ベッドに倒れ込むようにして座り込んだ。頭を抱え、目を強く閉じる。紅葉の告白の言葉が、頭の中でエコーのように響き続けていた。


「なんで気づかなかったんだ……」


 達樹は自問自答を繰り返す。普段着ているシャツのボタンを外し、窮屈さから逃れようとするが、心の中の混乱は収まらない。


 目を閉じると、幼少期の思い出が走馬灯のように蘇る。小学校の運動会で、紅葉と一緒に走った徒競走。中学校の文化祭で、一緒に出し物を準備した日々。高校での様々な思い出。そして大学に入ってからの、より親密になった時間。


 ふと、達樹は気づく。


「あの時の紅葉も、今の紅葉も、同じ人間なんだ」


 その瞬間、達樹の中で何かが変わり始めた。紅葉の笑顔、優しさ、そして強さ。それらは全て、紅葉という一人の人間の中に存在していたのだ。


 達樹は立ち上がり、部屋の中を歩き回る。壁に貼られた紅葉との写真を見つめ、その表情の中に隠されていた真実を探ろうとする。



 夜の静けさが家全体を包む中、達樹は自室から出て、階段をゆっくりと降りていった。各段を踏むたびに、心臓の鼓動が早くなるのを感じる。リビングに向かう足取りは重く、何度も立ち止まりそうになる。


 リビングのドアの前で深呼吸をし、達樹はノックをした。


「お父さん、お母さん、話があるんだ」


 両親は驚いた様子で達樹を見つめる。普段は自室に籠りがちな息子が、こんな遅い時間に相談を持ちかけてくるのは珍しいことだった。


 達樹はソファに座り、両親と向き合う。テーブルランプの柔らかな光が、三人の表情を優しく照らしていた。


「実は、紅葉のことなんだ」


 達樹の声は震えていた。言葉を選びながら、紅葉の告白について話し始める。時折言葉に詰まりながらも、紅葉の気持ち、そして自分の混乱した感情を、できる限り正直に伝えようとした。


 両親は黙って聞いていた。父親は腕を組み、眉間にしわを寄せている。母親は時折小さくうなずきながら、息子の言葉に耳を傾けていた。


 達樹が話し終えると、しばらくの間、部屋に沈黙が流れた。その沈黙が、達樹には永遠のように感じられた。


 やがて、父親が静かに口を開いた。その声には、普段の厳しさはなく、深い思慮が感じられた。


「大切なのは、その人の中身だ。外見だけで判断するな」


 達樹は父親の言葉に、はっとした。父親は続けた。


「皇紅葉という人間を、お前はどう思っている? その答えが全てだ」


 次に、母親が優しく微笑みながら言葉を紡いだ。


「愛とは、相手をありのまま受け入れること。それが本当の愛なのよ」


 母親の目には、小さな涙が光っていた。


「あなたの幸せが一番大切。紅葉との関係を、あなた自身がどう感じるかが大事なの」


 両親の言葉に、達樹は少し心が軽くなるのを感じた。長年築いてきた価値観が揺らぐ中で、両親の理解と支持は大きな支えとなった。


 しかし、まだ迷いは残っていた。社会の目、友人たちの反応、そして何より、自分自身の中にある固定観念との戦い。それらの壁を乗り越えられるかどうか、達樹の心はまだ揺れ動いていた。


 達樹は両親に感謝を述べ、ゆっくりと自室に戻っていった。階段を上がりながら、両親の言葉を何度も心の中で反芻する。


 自室のドアを開け、達樹はベッドに腰を下ろした。窓から見える夜空を見上げ、深いため息をつく。


「紅葉……」


 その名前を呟きながら、達樹の心の中で、新たな思いが芽生え始めていた。



 翌日の午後、達樹は大学近くのカフェで親友の誠と待ち合わせていた。窓際の席に座り、コーヒーカップを両手で包むように持ちながら、達樹は落ち着かない様子で時折ドアの方を見やる。


 やがて、颯爽とした足取りで誠が入ってきた。


「よう、達樹。珍しいな、こんな急に呼び出すなんて」


 誠は軽く手を上げながら、達樹の向かいの席に腰掛けた。


「どうした? 深刻な顔してるぞ」


 達樹は深呼吸をし、ゆっくりと口を開いた。


「実は、紅葉のことなんだ……」


 達樹は昨日の出来事を、できるだけ詳しく誠に話し始めた。紅葉の告白、自分の混乱、そして両親との対話。言葉を選びながら、時折詰まりながらも、全てを打ち明けた。


 誠は黙って聞いていた。普段はふざけていることが多い誠だが、この時ばかりは真剣な表情で友人の言葉に耳を傾けていた。時折、小さくうなずいたり、眉をひそめたりしながら、達樹の話に集中している。


 話し終えた達樹は、緊張した面持ちで誠の反応を待った。カフェの喧騒が遠くに聞こえる中、二人の間に一瞬の沈黙が流れる。


 そして、誠はにっこりと笑って言った。


「お前が幸せならそれでいいんじゃないか? 大切なのは二人の気持ちだろ」


 その言葉に、達樹は一瞬驚いたような表情を見せた。そして、すぐに安堵の笑みがこぼれる。


「でもさ、世間の目とか……」


 達樹が言いかけると、誠は手を振って遮った。


「そんなの関係ないって。お前が紅葉のことを好きで、紅葉もお前のことを好きなら、それで十分じゃないか」


 誠は真剣な眼差しで達樹を見つめ、続けた。


「確かに、簡単な道のりじゃないかもしれない。でも、本当に大切な人なら、一緒に乗り越えていけるはずだ。俺は、お前たちの味方だからな」


 誠の言葉に、達樹は強く頷いた。目に涙が浮かんでいるのを感じながら、達樹は言った。


「ありがとう、誠。お前の言葉で、少し勇気が出たよ」


 二人は互いに微笑み合い、そしてカフェの喧騒に溶け込んでいった。達樹の心の中で、新たな決意が芽生え始めていた。



 夜風が頬を撫でる中、達樹はマンションの屋上に立っていた。都会の喧騒が遠くに聞こえる一方で、頭上には無数の星が瞬いている。達樹は深く息を吸い込み、星空を見上げた。


 ポケットに手を入れると、そこに紅葉からもらった小さなお守りが触れた。それを握りしめながら、達樹の心の中で様々な思いが交錯し始める。


 幼い頃、紅葉と一緒に虫取りをした夏の日。中学の文化祭で二人で作った出し物。高校の卒業式で交わした未来への誓い。そして大学に入ってからの、より深まった絆。それぞれの思い出が、まるで星座のように達樹の心の中でつながっていく。


 同時に、これからの可能性も浮かんでくる。二人で乗り越えていく困難、分かち合う喜び、そして築いていく未来。それらの想像が、不安と期待を同時に呼び起こす。


 達樹は目を閉じ、紅葉の笑顔を思い浮かべる。その瞬間、心の奥底から湧き上がるような感情と共に、言葉が自然と口をついて出た。


「紅葉、待たせてごめん。やっとわかったよ。大切なのは、君が君であることなんだって」


 その言葉を夜風に乗せて送り出すと、達樹の心に静かな確信が芽生えた。社会の目や周囲の反応への不安はまだ残っているものの、それ以上に紅葉との絆を大切にしたいという思いが強くなっていく。


 達樹は、自分の中の価値観が少しずつ変化しているのを感じた。「普通」や「当たり前」という概念が、徐々に崩れていく。代わりに、個々の人間の本質を見ることの大切さ、そして無条件の愛について考え始めていた。


 星空を見上げながら、達樹は小さく微笑んだ。紅葉を受け入れる準備が、ゆっくりと、しかし確実に整いつつあった。それは、単に紅葉だけでなく、自分自身をも受け入れる過程でもあった。


 夜風が少し冷たくなってきたのを感じ、達樹は深呼吸をした。そして、新たな決意と共に、屋上を後にした。明日、紅葉に会う準備をしなければならない。その思いと共に、達樹の心は静かな興奮に包まれていた。


 達樹はポケットから携帯を取り出し、紅葉にメッセージを送る。


「話がしたい。明日、会えないか」


 送信ボタンを押す指が少し震えていたが、達樹の目には強い決意の色が宿っていた。新たな一歩を踏み出す準備が、ついに整ったのだ。

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