呪い谷に降る雪は赤い

西季幽司

第一幕 阿房宮

風花

 呪い谷に赤い雪が降った。

――赤い雪が降ると、不吉なことが起きる。村ではそう言い伝えられてきた。

 雪が赤く見えるのは自然現象のせいだ。天気雨と言う言葉があるが、晴れた日に雪が降る現象を風花と言う。強い風が山に当たり雪を降らせる。そして、谷に吹き降ろす風が山に積もった雪を運んでくる。すると、晴れているのに雪が降ることがある。

 これを風花と言う。

 朝夕に風花が起こると、稀に朝焼け、夕焼けと重なって、雪が赤く染まって見える。まるで、赤い雪が降っているかのようだ。

 呪い谷には、赤い雪が降ることがあった。

 呪い谷に赤い雪が降った日、東城秋香とうじょうあきかは殺された。

 谷底に張り付くように広がった村を見下ろす高台に、屋敷はあった。茅葺屋根が残る民家が多い村に、王侯貴族の館のような巨大な洋館が建っていた。

 屋敷を「阿房宮あぼうきゅう」と言った。

 阿房宮の奥深く、二階の寝室で秋香の遺体が発見された。絞殺だった。白く細い首には、強く絞められた跡が赤い線になって、くっきりと残っていた。細長い紐状の凶器で、首を絞められたのだ。

 布団の乱れから、抵抗の跡が見られたが、総じて穏やかな死に顔だった。

 東城秋香は美容のカリスマとして、名を知られた女性実業家だ。都内にエステ・サロンやネイル・サロンを二十箇所以上、展開する東城グループの総裁として君臨している。

 三十代後半、美容グループの総裁とあって、外見には徹底的にこだわっている。どう見ても二十代にしか見えない。整った顔だが、目の間隔がやや近く、きつい性格であるかのような印象を人に与えてしまう。細身でスタイルが良い。もう少し上背があれば、モデルとしてやって行けるだろう。だが、小柄だということは子供っぽさや、若々しさを人に印象付ける。

 秋香は自らが出演する東城グループのテレビ・コマーシャルに出演していた。この為、秋香自身、芸能人並みの知名度を誇っていた。テレビ番組のゲストとして呼ばれることも多かった。

 そんな東城秋香が呪い谷にある阿房宮で殺害されたのだ。

 第一発見者は夫の東城誠一とうじょうせいいち。年齢は秋香のひとつ上。こちらはかつてモデルをやっていただけあって長身で細身、スタイルが良い。日本人離れした堀の深い顔立ちをしており、ハーフと間違えられることが多い。顎が長い点が、唯一の欠点かもしれない。

 似合いのカップルだったが、妻と異なり、中味は薄い。台詞覚えが悪く、俳優に転身しようとして失敗。自分名義のブランドを立ち上げ、事業に手を出したのだが、これも失敗した。運がよかったのは、東城グループとのコラボ商品だったため秋香に拾われたことだ。

 旧姓、大内。どこが良かったのか、誠一にぞっこんで、姓を変えたくなかった秋香の希望で婿入りして東城姓となった。

 自称、モデル、俳優だが、無職に等しく、家事はダメで、主夫ですらない。秋香の寄生虫だった。

 秋香殺害の犯人として、当然のように真っ先に疑われた。秋香の死により、莫大な遺産を相続することになるからだ。だが、秋香無しでは、莫大な遺産は「猫に小判」になり果ててしまうだろう。無能な誠一は、直ぐに遺産を使い果たしてしまうに違いない。

 それよりも生きて秋香に稼いでいてもらった方が良い。その方が良い暮らしが出来る。秋香の死により、最も利益を蒙る人物とは言いがたかった。

 それに、誠一には秋香を殺害することが出来なかった。

 いや、誠一に限らず、誰も秋香を殺害することが出来なかった。なぜなら、秋香が殺害された寝室は、密室状態だったからだ。

 秋香の死亡推定時刻は夜八時から十一時の間。この時間、誠一にはアリバイがあった。

 日中、阿房宮には飯島典子いいじまのりこと言う村の中年女性が家政婦として通って来ていた。

 年は四十過ぎ。「田舎のおばちゃん」という言葉が、似合い過ぎるほど似合う女性だ。色黒で肉付きが良いのだが、皺の多い顔で、何が楽しいのか何時もにこにこしている。秋香とは年がそう変わらないのに、親子のように見える。面倒見がよく、働き者だ。

 飯島は阿房宮の管理を任されている。

 年に数度、秋香は別荘と言えるこの屋敷に湯治に訪れるが、その際、家政婦として世話を焼いている。朝八時半から夕方五時半までが勤務時間となっているのだが、朝は六時過ぎには屋敷にやって来て、夜は八時近くまで働いている。無論、残業代は色を付けて払ってもらっている。

 秋香は「ノリさん」と呼んで飯島を慕っていた。

 赤い雪が降った日の夜、飯島は仕事を終え、夜、七時半過ぎに阿房宮を出た。秋香は居間で暖炉を前に携帯電話を見ていた。休暇中だったが、部下が送ってきたメールをチェックしていたようだ。

 誠一は隣でテレビを見ていた。

「そろそろお暇しようと思います。何か用事はございませんか?」と飯島が声をかけると、「あら、ノリさん。今日も一日、ご苦労様でした。良いのよ、夜は放っておいてもらって、早く帰ってあげないと、旦那さんやお子さんが寂しがりますよ」と秋香が朗らかに言った。

 飯島には子供が二人いる。上の長男は高校を卒業すると、都内に働き出てしまった。下の長女が高校生で家にいるのだが、最近は反抗期なのか言うことを聞かないらしい。「あら、私なんて、早く帰っても厄介者扱いされるだけです~もう、最近、うちの子、生意気ばかり言うようになって――」と飯島は愚痴を言った。

 飯島の言葉に、秋香はけらけらと笑った。

「今晩は冷えますよ。明日は雪になるようです」

「道理で寒いと思ったわ。雪になると山の使いが見えなくなるわね」

 山の使いとは、阿房宮に現れるカラスのことだ。ただのカラスではない。体が真っ白なのだ。アルビノと呼ばれる先天的にメラニン色素が欠乏したカラスのようだ。

 初めて、このカラスが屋敷に現れた時、その独特の風貌からカラスだと分からなかった。カアカアと鳴くのを聞いて、やっとカラスだと分かったくらいだ。

「きっと山のお使いなのよ。その内、うちによくないことが起こるんだわ」秋香が言った。指先が微かに震えていた。

 屋敷の裏には妙仏山という山が広がっている。秋香は白いカラスをこの山からの使いだと言って恐れた。雪が降れば白いカラスが見えなくなってしまうだろう。

「あら、お嬢様。雪の降るような寒い朝に、カラスは来ませんよ。きっと、巣で縮こまっているはずです。はは」飯島はそう笑い飛ばして、阿房宮を出た。

 飯島が阿房宮を出た後、誠一の証言によれば、秋香は「ちょっと頭痛がするので、先に休ませて頂きます」と頭に手を当てながら言い、「どうせ、飲みに行きたいのでしょう。良いわよ。一人で行ってきて。その代わり、佐藤を見かけたら、屋敷に来るように言って下さらないかしら」と頼んだ。

 佐藤と言うのは秋香の秘書のことだ。

 群馬県利根郡湯野沢村と言うのが呪い谷の正式な地名だ。谷に赤い雪が舞うことから、地元の村人は気味悪がり、この辺り一帯を呪い谷と呼んだ。やがて、「呪い谷」では聞き覚えが悪かろうと、「野呂井」と言う漢字を当てた。それでも、不吉な発音には違いなく、市町村合併の際に、湯野沢村と名を変えた。

 新しい地名の通り、呪い谷には温泉が沸く。温泉郷らしく、村のあちこちから白い湯気が立ち上っている。人口は千人に満たない小さな村だが、秋の気配が濃厚になると、都内から、温泉を目当てに旅行客が訪れる。

 村には大小、合わせて三つの旅館があった。二つは家族経営の小さな旅館だが、「上杉湯」はやや規模が大きい。村一番の老舗の旅館で、上杉謙信が北条氏康を討伐するために起こした関東遠征の際に、湯治にやって来たという言い伝えがあった。

 秋香はこの寒村の出身だ。事業で成功し、故郷に錦を飾る意味から、村に豪華な洋館を建てた。

 上杉湯の門前に「小木乃屋」と言う、村でただ一軒の居酒屋がある。宿泊客目当ての店だったが、村人も通って来るし、誠一も秋香と共に何度か顔を出したことがあった。

 秋香の秘書、佐藤晴彦さとうはるひこは上杉湯に宿泊していた。秋香は休暇中だったが、佐藤は仕事で呪い谷にやって来ていた。

 佐藤は四十代、秋香や誠一よりも年上だ。細身だが、腹回りにたっぷり肉がついている。顎が張っていて口が大きい。下に向かって広がる台形のような顔だ。七三に綺麗に髪を撫で付けているが、頭頂部が薄くなってきている。

 秋香が休暇を取って阿房宮に滞在する時は、何時も佐藤がついて来た。「大変だね。こんな辺鄙な場所まで、お供で連れて来られて――」と誠一が同情すると、「とんでもない」と佐藤は宿泊費が会社負担だと教えてくれた。「会社のお金で、のんびり温泉に入って、ちょこっと仕事をして、夜は居酒屋で一杯やって、もう、最高の仕事です」と笑った。

 今晩も小木乃屋で飲んでいるはずだ。

 秋香の許しが出た。佐藤への伝言を預かったことを口実に、誠一は阿房宮を出た。

 屋敷を出たのは、午後八時前だったという。ぎりぎり秋香の死亡推定時刻にかかっていない。阿房宮は高台にある。歩いて行けない距離ではないが、帰りは上り坂を延々と登ってこなければならなくなる。飲酒運転になることを覚悟で、車で出かけた。こんな辺鄙な村だ。飲酒運転の取り締まりが行われることなどない。

 小木乃屋に顔を出すと、果たして佐藤が一人で飲んでいた。誠一の顔を見て、話し相手ができたと喜んだが、秋香が呼んでいることを伝えると、「おっ! こんな時間にお呼びですか?何か緊急の仕事でもあったのかな?――でも、まあ、姫がお呼びとあっては、行くしかありませんな」とおどけてみせた。

 佐藤は陰で秋香のことを姫と呼んでいる。秋香は気が短い。思いつけば、直ぐに行動を起こす。夜討ち朝駆けは何時ものことだった。

 誠一は屋敷の鍵のついた車のキイを渡して、「ここで待っているから、用事が終わったら、飲みなおそうよ」と誘った。佐藤にとっては勝手知ったる他人の家だ。屋敷の間取りや寝室の場所は分かっている。佐藤は「良いですね~」と言いながら、店を出た。

 その後、誠一は一人で飲んでいた。四十分ほど経過した頃、佐藤が戻って来た。

「誠一さん。姫、寝室に鍵をかけて寝ていましたよ。ドアをノックして、社長~!と呼んでみたんですけどね。起きて来ませんでした」と佐藤が言った。

「それは申し訳なかったですね。頭が痛いと言っていたので、鎮痛剤を飲んで寝てしまったのでしょう。明日の朝、出直せば良いですよ。さあ、今夜は飲みましょう。お詫びに、ここは僕が持ちます」

「おっ! すいません。じゃあ、ご遠慮なく、いただきます」

 こうして、誠一と佐藤は閉店の十一時まで飲んでいた。

 夜、十一時過ぎ、二人は店の前で別れ、佐藤は歩いて対面の上杉湯に戻り、誠一は車で屋敷に戻った。寝室のドアには確かに鍵が掛かっていた。部屋はいくらでもある。秋香を起こすのは気が引けた。寝室から締め出された誠一は、二階の客間のひとつで、朝までぐっすり眠っていた。

 翌朝は七時前に目を覚ました。寝坊をしてしまうと、秋香に「あら、随分、ごゆっくりですね」と嫌味を言われてしまう。居間に降りると、秋香はまだ起きていなかった。ほっとしたところに飯島がやって来た。

「旦那様、昨晩、お山で雪が降ったようです。こちらに来る時、風に煽られてお山の雪が村に降り注いでいました。朝焼けに染まって、真っ赤な雪が降っているように見えましたの。嫌ですわ。昔から、赤い雪が降ると、よくないことが起きるって言いますの。今日はお屋敷から出ない方が良いですよ」飯島がコートの雪を払いながら言った。

 呪い谷で赤い雪が降ったと言うのだ。

「ああ、そうするよ。今日は屋敷で過ごすことにしよう」

 飯島が朝食の支度を始めたので、誠一は秋香を起こしに寝室に向かった。

 何度かノックをしてみたが、反応はない。鍵は掛かったままだ。名前を呼んでみたが、秋香は起きて来なかった。

 台所に降りて行って、飯島に「社長はまだ寝ているみたいだ。寝室に鍵がかかっている。昨日、寝る前に頭が痛いと言っていたので、薬を飲んで寝たのだと思う。ちょっと、薬が効きすぎたみたいです。もうじき、秘書の佐藤さんが屋敷にやって来ます。飯島さん、合鍵が何処にあるのかご存じでしょう? 寝室に朝食を運ぶ時、ついでに秋香を起こしてくれませんか?」と頼んだ。

 時に誠一は秋香のことを社長と呼ぶ。

「分かりました。お嬢様、日頃の激務で、きっとお疲れなのですよ」

 飯島は秋香のことをお嬢さんやお嬢様と呼ぶ。そう呼ばれることに、「いやだわ、お嬢さんなんて呼ばれる年でもないのに――」と言いながらも、秋香は喜んでいた。

 飯島は誠一の朝食を居間の食卓に並べると、秋香の朝食をトレイに乗せて、応接間に向かった。朝は洋食派の秋香のために、こんがりと焼いた厚切りのトーストに、ベーコンとスクランブル・エッグ、オレンジジュースにホット・コーヒーを用意した。秋香の定番メニューだ。

 応接間には屋敷の全ての部屋の鍵を保管してあるキーボックスがある。キーボックスの鍵は飯島が屋敷の鍵と一緒に持ち歩いている。もうひとつあるキーボックスの鍵は飯島の家で厳重に保管されている。飯島以外はキーボックスを開けることができなかった。

 キーボックスから寝室の鍵を取り外すと、両手で朝食の乗ったトレイを持って、階段を上がっていった。二階の奥に寝室がある。寝室のドアには鍵がかかっていた。

 阿房宮の各部屋には、ドアの室内側に、ドアノブとは別にサムターンと呼ばれる鍵がある。部屋の中からはつまみを回すことで、簡単に施錠、開錠することが出来るが、部屋の外からは鍵がないとドアを開けることができない。

 飯島は鍵を開けて寝室に入った。

 谷底にある村だ。朝晩はかなり冷え込む。だが、屋敷内は全館冷暖房が完備されていて暖かい。寝室もエアコンが効いていて暖かかった。

 ベッドで寝ている秋香の姿が目に入った。

「お嬢様、さあ、朝ごはんですよ~」朗らかに言いながら、飯島はベッドに近づいた。二、三歩近づいたところで、飯島は異常に気がついた。

 秋香はかっと目を見開いたまま寝ていた。

「きゃあああ――!大変!!お嬢さん~!」飯島はベッドに駆け寄った。

 トレイに乗せた皿やカップを床に落としてしまいそうだった。かろうじてバランスを取りながら、枕元のサイドテーブルにトレイを置いた。

 秋香の顔には生気がなかった。

「どうした!飯島さん」いきなり背後から声をかけられて、飯島は「ひゃあ~!」と悲鳴をあげて飛び上がった。

 誠一だった。飯島の悲鳴を聞いて駆けつけて来たのだ。

「せ、誠一さん。お嬢さんが、お嬢さんの様子が変なのです!」飯島は半べそ状態で誠一の胸倉をつかみながら叫んだ。

 東城秋香は死んでいた。

 首には、索条痕と呼ばれる紐状の凶器で首を絞められた時につく赤い線がくっきりと残っていた。誰かに殺されたのだ。

 こうして呪い谷に赤い雪が降った日の朝、東城秋香の遺体が発見された。

 飯島が秋香の遺体を見つけた時、庭に白いカラスがやって来ていた。白いカラスは薄く積もった雪の上にじっと佇んでいた。まるで何かを待っているかのようだった。

 そして、白いカラスは飯島の悲鳴を聞くと、カアカアと鳴き叫びながら、庭から飛び去って行った。

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