第29話 27 ノビレ少佐

 中将が監視哨を降りて行ったあとも、しばらく呆然とした思いで双眼鏡を睨んでいた。

 カンカンと梯子を上ってくる音を背後に聞いてヤヨイはやっと我を取り戻した。

 登って来た袖に3本線の水兵。

 敬礼する上等水兵に双眼鏡を手渡し、答礼した。

「今のところ異常ありません、上水」

「アイ、サーッ!・・・」

 ヤヨイが答礼を終えても上水はまだ敬礼のまま固まっていた。

 海軍の殿上人とも言える艦隊司令長官その人がマストのてっぺんの監視哨に登ったことは、ブリッジや上甲板にいる誰もが見上げたことだろう。その事実は二人が上にいる間に瞬く間にミカサ中に知れ渡った。が、同時にその司令長官が親しく会話する臨時の女性士官の存在も大きく印象された。

 長い梯子を下りると、たちまちに一斉に水兵たちからの敬礼を浴びた。

 ワワン中将は、これを狙ったのだと思う。

 おかげで士官たちからはより警戒されるだろうが、反面これからの仕事はやりやすくなった部分もあるし、何よりも心理的な負担がずいぶん軽くなった。エージェントとしての任務に関わる件を除けば、もう大ぴらに通信も打てるし艦内のどこを歩いても怪しまれることはないだろう。万が一には、このミカサ中の下士官水兵たちも協力してくれるに違いない。

 そして同時にこのことは、未だ確とはわからないまでも、裏切り者の心理を大いに圧迫するだろう、と思った。ミカサはもう、チナの企み通りに3海里の近海を航行しつつあり、この鋼鉄の船からは、もはや容易に逃れることは出来ないのだ。

 エンジンルームへのタラップを駆け下りながら、ヤヨイはワワン中将が最後に言った言葉を反芻した。

「ああ。言い忘れていたが、司令部のラカ少佐はキールの第四艦隊で巡洋艦の艦長をしていた男だ。この任務のために急遽幕僚に加えた。彼は私の故郷の村の出身でな。彼の名付け親を務めたのは、この私なのだ。

 このことはウリルにも話していない。話す暇が、なかったものでな。

『ラカ』というのは南の国の言葉で『年上の兄や姉』を指す。

 これから先、彼は兄のように君を援けてくれるだろう」

 ヤヨイが容疑者リストからラカ少佐の名前を消したのは言うまでもない。

 それにしても、こういうのはもっと早めに言って欲しかったなあと思う。



 ヴァインライヒ少尉がエンジンルームに来るまでに、彼女よりも噂の方が先に到着していた。

「先任! 聞きましたか?」

 出港前にベアリングの件で叱りつけた上等水兵が、石炭の残量を確認し終えて最下層のフロアに降りたヨードルに駆け寄って来た。

「なんだハンク、騒々しい。片舷しか回ってないし、釜だって3つしか炊いてない。それに俺はまだ40前だ。そんなデカい声出さなくても聞こえてるよ」

「じゃあ、知ってますか? 司令長官がマストの上の見張りをしてくれたって」

「ええっ! 何だって!?」

「・・・それだけじゃないスよ」

 ハンクは鼻の穴を膨らませて、こう言った。

「長官はマストの上にあのバカロレアの女士官を帯同してたらしいス。何者なんスかね、あの臨時少尉・・・」

 ヨードルは急に無口になった。

「あれ、オレ、なんかマズいこと言いました?」

「いいや。これからその『バカロレアの女士官』がここに来る。サボりを司令長官にチクられたくないならマジめに働けよ。さあ、噂話なんかしてないで、サッサと持ち場に戻れ!」

 その傍らでノビレ少佐がエンジンの計器盤を睨み、ボードに記入していた。

 石炭の一件では意外に頼もしいとは感じた。が、人当たりの悪いのはどうも変わらないようだ。仕事以外のことには一切興味を示さず、雑談にも応じない。通信科のヴァインライヒ少尉が見学を希望していますと上申しても、

「ああ、そうか」

 そう言ったきり黙ってしまった。

 まあ、ノビレ少佐のことはさておこう。

 問題はあの、ヤヨイだ。

 もしかすると彼女は通信機とは別の、何かの使命を帯びてやってきたのではないだろうか。昨夜リュッツオーを見下ろしながら話して以来、そんな考えがチラチラと頭を過っていた。もちろん、ヨードルにはそれ以上のことはわからない。しかも、単なるカンだ。しかし、彼のカンはなかなかにハズれたことがない。今回の石炭の件も、そうだった。

 それにしても、気になる娘だ。

 すると、前部の水密ドアが開き、そのウワサのブルネットが姿を見せた。彼女の登場は、騒音と酷暑と石炭の悪臭に満ちたエンジンルームに、一輪の清廉な花が咲いたような印象を与えた。

「あの、ヨードル先任士官はいらっしゃいますか」

 それまでノロノロとレンチを使っていたハンクが急に立ち上がって、

「マエダ主任! コックのチェック終わりましたっ! 次は何をやりましょうかっ!」

 急にキビキビ動き出したのが、ちと、ウザかった。



 ノビレ少佐は青い顔にムッツリした表情を浮かべていた。

 最初は差しさわりのないエンジン関係の質問をいくつかした。質問には答えるし、ヤヨイの話もちゃんと聞いてくれた。だが、不愛想極まりない。

 最初にジロリと無遠慮に睨みつけたかと思えば、あとはずっと計器盤の数値をボードに記入しているばかりだった。思えばあのアレックスも最初そうだったなあと懐かしく想い出した。

 ふとそれを訊いてみようという気になった。幸い、彼に引き合わせてくれたヨードルは、ちょっと他の仕事があるので、と中座していた。喧しいエンジンルームにはほかに機関主任の海曹と二三の水兵がいるだけだったし、騒音が大きすぎて二人の立ち話を聞かれる気遣いもない。

「あの、少佐。失礼を承知でお尋ねしたいことがあるんですが」

「何かね」

 相変わらず計器とボードとを睨みながら、でも口調は丁寧に、応えてくれた。

「わたしは以前徴兵で北の前線の偵察部隊に配属になっていました。そこで少佐と同じ青い肌の軍属と知り合いになりました。ひょっとして、少佐もお国は北の方なんですか?」

 ノビレ少佐はやっとヤヨイに視線をくれた。そうして、

「いかにも」

 と、胸を張った。

「私は15の歳に帝国との戦闘で捕虜になり、宣誓の後、私の部族と戦った士官の家に引き取られ、教育を受けた。その後生まれて初めて海というものを見てから海軍を志し、機械を学ぶと士官に採用されやすいと聞き、兵学校の機関科を受け入学を許された。

 ミカサの前は第三艦隊の巡洋艦、その前は兵学校の機関科の教授補佐。第一艦隊の巡洋艦にも勤務した。

 私の生まれた部族では成人して女と交わり、敵を10人倒すと一人前と認められ皆肌を青く染める。この青い肌は勇者の証なのだ。他に何か質問は?」

 ヤヨイはニッコリと頷いた。

「わたしの知り合いの名前はアレックス、たしか、アレクサンデルといいました。お心当たりは、ないですか?」

 少佐は束の間じっと思案するふうだったが、やがて顔をあげた。あの、レオン少尉に忠実だったアレックス。彼の澄んだ青い目と同じ、誠実な瞳をまっすぐにヤヨイに向けた。

「その名前に聞き覚えはない。部族の名がわかれば、いいのだが」

 そう言って再び計器盤とボードに戻り、大声を張り上げた。

「ハンク! 五番釜の圧力が落ちている。点検の漏れではないのか。もう一度よく見直せ。機関主任! 五番がダメなら隣の六番に切り替えるぞ。すぐに準備してくれ!

 いいか、皆。機関科の名誉にかけて、なんとしてもターラントまで持たすんだ!」


 この人は「シロ」だ。間違いない、と思った。

 

 一日で2人の名が容疑者リストから消された。

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