第24話 22 帰港へ。そして陰謀の渦中へ

「疲れましたか」

 ヨードルが声をかけると、ブルネットの美少女は愛らしい笑顔を浮かべた。

「ええ、少し、緊張しました」

 そう言って少しはにかんだ娘のその佇まいに、航海を終えて帰宅する度にパパと懐いてくれていた頃の幼いヒルダのことをまた、思い出した。

「でも、驚きましたよ。少尉が幕僚室にいたのも、閣下がたに直接お話しされていたのも・・・」

「はい。長官のご指示で同席させていただいているんです。海軍はよほど通信機に期待を寄せていただいているんだな、と思いました」

 思いがけず姿を見かけ無意識に声をかけたヨードルだった。

 普通なら下士官が士官に対して親し気に肩を叩くなどはあり得ない不作法だ。だがぼんやりと夜空を見上げて佇んでいたそのか細い肩に触れ、抱きしめてやりたい衝動を抑えきれなかった。

 話すほどにこのバカロレアの娘の高い知性が感じられた。そして話すほどに会えなくなって久しい我が娘が思い起こされ、束の間の癒しを得ることができた。

「実は、少尉にはいつか申し上げねばと思っていたことがあるんです」

「・・・はい。なんでしょう」

 小首をかしげるその雰囲気もまた、愛らしい。

「前の航海の後、発電機に不具合が見つかりました。ダイナモの回転にムラが起きていたんです。恐らく電圧が大きく変動したのではないかと。砲塔の回転モーターのような重電なら許容範囲ですが、もしかするとそれがあの通信機の異常を起こさせたのではないかと。弱電のことはよくわかりませんが、一応お伝えしておきます。将来的にはより容量の大きなコンデンサを導入したり、もう二段階ぐらいトランスを増やして低電圧系の電圧の安定化を図るべきだと思っています」

「そうだったんですか・・・」

 とヴァインライヒは言った。

「少し、肩の荷が下りました。ずっと責任を感じていたものですから。ありがとうございます、海曹長」

 こんな儚げな娘に気遣いさせていたとは・・・。申し訳ないという思いが募った。

「フレッド。みんな自分をそう呼びます」

 この娘ともっと親しくなりたい・・・。

 そう思っていると、

「あ、ヤヨイだあ。おーい、ヤヨイ~・・・」

「少尉、ダメですよ、そんな恰好で」

 ふと下を見るとリュッツオーのドアが開き、賑やかな歓声とともに素っ裸の青年が甲板に飛び出してこちらを見上げていた。ミカサの灯りに照らされたその真っ赤なふやけ顔は完全に酔っぱらいの、それだった。リュッツオーに移乗した、娘と同じバカロレアの学生だな、と見当をつけた。彼はすぐに規律を慮った下士官に連れ戻され、艦内に消えた。

「え、ちょ、ミック? まっ、いやーん・・・」

 美少女はみるみる顔を赤らめ、くるりと後ろを向いてしまった。そこがまたまたなんとも言えず可愛かった。

「どんちゃん騒ぎの最中なのでしょうな。リュッツオーは明日の朝までここに停泊し他の3艦の演習に付き合います。だからハメを外させているのでしょう。あんなことがあれば、誰でも嫌な気持ちになりますからね。それを慰めているのでしょうな。

 でもあの収め方は良かった。旗艦の爆発に脱走騒ぎ。艦隊中を覆っていたいやな気持が笑い話になりましたからね。いい艦長ですな。小艦の艦長にしておくのは惜しいです」

 ヨードルは日ごろ感じていることを口にした。そして、

「・・・少尉はヤヨイ、とおっしゃるんですね。どこの国の言葉ですか」

「ヤーパンの言葉で、3月という意味なんです。誕生日が3月15日なんです。母が名付けてくれました。わたし、12人兄弟の3番目なんです。みんな月の名前を持っているんですよ」

 そうか。この娘は平民で、母親が国母貴族なのだな・・・。

 するとヴァインライヒと言うのは父方の姓か。

「そうなんですか。なんてきれいな名前だ。ならば、あなたはユリウス・カエザルの生まれ変わりかもしれませんね・・・」

 帝国の子供たちは皆、小学校でローマ史を習う。今は北極の氷に閉ざされている、祖先たちのいにしえの故郷、自分たちのルーツだからだ。なので、ユリウス・カエザル、ジュリアス・シーザーが暗殺された3月15日は、よほど勉強の嫌いな子でもなければ誰でも知っていた。

「マルスと呼ばれることもありますよ。マルティウス(3月)ですからね」

 少女は面白そうに笑った。ブリッジから漏れる明かりが彼女の可憐な碧眼を美しく煌めかせた。

「これは勇ましい!」

 ヨードルは久々に腹の底から笑った。

「じゃあ、あなたが乗っている間、このミカサは軍神の庇護を受けられるということですな。頼もしいことです」

「ミカサはそろそろ出発ですね」

 娘は突然意外な方に話を変えた。それを少し、残念に思った。

「あ、はい。燃料を節約するためにボイラーを4分の1まで減らしますから頑張ってせいぜい6、7ノット、8ノットは無理でしょうね。片舷だけですし。そうすると5日後くらいに港に帰れる計算ですかね。下手すると6日後ぐらいに、なるかなあ・・・」

「そんなに・・・。そうですか・・・。でも食料とかは大丈夫なんでしょうか」

 ファッションや同年代の男の子の話題に夢中になっているはずの年頃の娘が、そんなことにまで配慮を巡らすとは。目の前の美少女に軽い驚きを感じつつ、ヨードルは答えた。

「心配ありません。元々10日間の航海の予定でしたからね。

 それにミカサは戦闘艦です。万が一に備えて戦闘糧食はさらに10日分はストックしてあるんです。演習のとき召し上がったでしょう。お世辞にも旨いものとは言えませんがね」

「なるほど。さすがですね。・・・あ、いっけない」

 少女は急に何かを思い出したように口を押えた。

「どうしました」

「さっき幕僚会議でお話しした、大学に通信を送るというのを忘れていました。すぐに送らなきゃ。これで失礼します、あ、海曹長・・・」

 身を翻そうとした美少女が美しいブルネットを揺らせた。

「フレッド、です。なんでしょう」

「港に帰るまで時間がかかるんですよね。フレッド、わたし一度エンジンルームを見学したいんですが」

「・・・構いませんが、あんなクソ暑い、あ、失礼。息苦しい場所にわざわざ?」

「ええ」

 またも意外な方に関心を持つものだと、ヨードルはヤヨイという少女にさらに興味をそそられ見つめ直した。

「軍艦って初めて乗りました。せっかくですからいろんなところを見てみたいのです。それに出来れば機関長にもお会いしたいんです。会議では直接お話しできませんでしたので」

 さすがバカロレアの学生だ。普通の、例えば我が娘ヒルダのような市井の少女とは関心の方向が違うのだろう・・・。

「そんなこと。汗まみれ粉塵まみれになってもよければお安い御用ですが」

「ありがとう、フレッド。話せてよかったです。おやすみなさい」

 少女は愛らしい笑顔を残し、ブリッジを登って行った。ヨードルはその後姿を見送り、暖かい心を抱いて持ち場に戻った。

 もう出発の準備にかかる時刻になっていた。



 ミカサの石炭の件が明るみになった。

 それにミカサにおけるサボタージュ(妨害工作)の件。その結果、左舷の推進器を損傷した件、その犯人と目される潜入者が我が方の追跡を受けて自爆した件。

 それらはもう、ミカサの誰もが知っている情報だった。だから平文で打っても全く問題はない。そしてこれから単艦になったミカサが微速で帰港の途に就く件も、だ。

 ヤヨイは、バカロレア宛て、その実はターラントのリヨン中尉とクィリナリスの丘にあるウリル少将のオフィスに向けてモールスのキーを叩いた。

 傍らには通信長のデービス大尉がいてヤヨイの猛烈に速いキー打信を畏敬の眼差しで見守っていた。

「・・・すごい速さだな。僕なんか到底敵わないよ」

 賛辞に笑顔で応え、ヤヨイは通信を終えた。

「大学へはその周波数で送るんだね。そこまで届くとは知らなかったなあ。驚きだよ」

「最終的には帝国全域をカバーするのが目標なんです。リュッツオーに託した小型の携帯用の通信機をさらに改良して海軍の全艦艇に搭載する予定だと聞いていますし、フジヤマ島やオキナワ島などの拠点や軍港やもちろん軍令部や海軍省にも設置します。陸軍も同様にすべての部隊に配備する予定だそうです。開発費用が皇帝陛下のご下賜金ですので。大学としてもなるべく早く帝国の役に立つ製品に仕上げたいのですが・・・」

「なるほど・・・」

「それはそうと、ターラントへはどういう航路で帰るのですか」

「ああ・・・」

 とデービス大尉は言った。

「実は、その件で今、参謀長と艦長が幕僚室で協議中なんだ。メイヤー少佐も同席しているはずだよ」

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