第22話 20 痛快! リュッツオー
ブリッジと自室とシャワールーム。全部回転砲塔内。そして食堂と幕僚室とあのキングストンバルブのある艦底以外の、初めての場所に来た。
後部鋲鎖庫上甲板。
ミカサには艦首と艦尾に錨があり、その錨を繋いだチェーンを収める部屋が甲板の下にある。その後部の方の部屋の真下の海中に、二人の乗組員が潜っていたのだ。
ヤヨイがそこに到着したときはもう、数名の水兵が集まっていて二人の潜水服を甲板に引き上げる作業をしていた。潜水服の大柄の方が、手に複雑に絡み合ったロープと太いチェーンを持っていた。先にそれを引き上げさせ、自分も後から引き上げられた。
巨体のほうが水密帽(ヘルメット)を脱いで、言った。
「舵は大丈夫だが、左舷軸はプロペラが全部折れてる。コイツが絡まって、引き千切ったんだろう・・・」
ヨードル曹長はロープに引っかかっていたチェーンの断片を指した。
「マルセイユにもキールにもない。ターラントにしかない300トンクレーン。特注チェーンの断片だ!」
髪の毛から滴る海水を払いながら、彼は言い切った。
「何故、ここにある?」
そこに集まっていた者に、その問いに答えられる者は誰もいなかった。
だが、ヤヨイにはわかった。
やっと、始まったのだ・・・。
ホッとしたわけではない。むしろ逆だ。静かな闘志が身体の奥底に湧き、力が漲るのを感じた。
「おいおい! なにがどうしたってんだ、オイ・・・」
すでにミカサは停船したように見えた。ヘイグ艦長は機関微速を下令して双眼鏡を構え、リュッツオーをさらにミカサに接近させた。
「おい、発光信号送れ。
『我、標的牽引を中止し、貴艦に接近す』だ。
なんだかわからんが、ミカサになにかあったらしい。どうも悠長に演習してるような雰囲気じゃなくなってきたようだぜ。甲板長、ワイヤーを手繰っておけよ。スクリューにからまっちゃどうもならねえからな。」
「いったい、何があったんですかね?」
ミヒャエルが艦長の双眼鏡の先のミカサの艦影に目を凝らした。
「さあな。わからねえが、何かがあったんだろうな」
そう言ってヘイグは咥えた葉巻を噛み潰し、んーと唸った。
「艦長!」
ワイヤーを巻き取る作業を指示しに行った甲板長が戻ってきた。
「なんだ、うるせえな」
「ボートが一隻、見当たりません。エンジンを積んだ方です」
「ほう、そうか。・・・ってなにーっ!? 」
ヘイグの目がギンっ、と吊り上がった。
「誰が乗ってるっ!」
「さあ・・・」
「さあ、じゃねえだろうが、この、ドアホッ!」
「あ、あそこですっ! 9時の方向!」
マストの上から監視兵が怒鳴った。
「艦長! 新米の2人が見当たりません!」
「なんだと!」
すでに夕暮れが迫っていた。
小さなボートが一艇、大海原に沈みかける夕陽を背に受け、北に向かってリュッツオーを離れつつあった。
「誰が許可した!」
「わかりません。今回初めて乗り組んだ甲板員のようです!」
年かさの伍長が血相を変えてブリッジに戻ってきた。
「ぬわんだとおおおおおおお? わかりませんじゃねえだろが、この、くそったれがあああああああああっ!」
葉巻を海に投げ捨てると、ヘイグ艦長は叫んだ。
「甲板長、ブイ切り離せっ! ブイに発煙筒載せとけっ!
機関全速! 全艦、戦闘配置! あのくそボートを追いかけるぞっ!
ヘッヘッヘ・・・。艦長たるオレ様に無断で艦を離れるたア、いい度胸してるじゃねえか・・・。とっ捕まえてヒイヒイ言わしてやる!
この帝国海軍一の快速艦リュッツオーを舐めんな。オレ様から無事に逃げられると思うなよ、このクソ野郎めがっ!」
野卑なわりに優しかった大尉が悪鬼に豹変する様を、ミヒャエルはまじまじと見た。
ほとんど理屈と数式しか詰まっていなかったミヒャエルのアタマの中に、わずかに残されていた動物的カンが訴えていた。
この人は絶対に敵に回してはいけない人だ・・・、と。
チビリそうになるのを辛うじて、堪えた。
しょせん、サトウキビを運ぶ蒸気トラックと同じ、民家の貧弱なカマドのようなエンジンを載せただけの小船が、帝国海軍一の快速艦に速度で敵うわけがなかった。
通報艦として特別に強力なエンジンを積んだリュッツオーは、機関全速で艦尾がグッと沈み込み、ほとんど艦首の喫水線下を持ち上げるようにして全速力を出し始めた。
「前部速射砲、および機関砲! 発砲を許可するっ! 威嚇なんてまどろっこしいのはナシだっ! 最初から命中させる気で狙えっ! 沈めても構わん。全弾必ず当てろッ! ぶっ殺せッ! 皆殺しだあああああっ!」
怒髪天を衝く勢いでメガホンで怒鳴る艦長に、
「アイアイ、艦長!」
速射砲の水兵が応じた。応じねば、自分が殺される。水兵はそう思ったに違いない。
すぐに砲が唸り、空になった薬莢を引き抜くのももどかしく次弾が装填され発射される慌ただしさ。
次第に距離が詰まると、機銃までが参戦した。
砲弾は面白いように命中炸裂し、ボートに火の手が上がるのはすぐだった。夕闇に赤々と火炎が炸裂した。ボートの速度が目に見えて落ち始め、ダメージを与えたのがわかった。
「最後まで手を緩めるな。撃沈する気で追い詰めろ! お前たち、武器庫から銃を持って来いっ! 飛び移って乗ってるヤツをふん縛れ。いや、いっそ、ぶっ殺せっ!」
「アイ、サーッ!」
こういう時の艦長の気迫にあらがう水兵など、リュッツオーには誰もいなかった。
見る間に距離が詰まり、あと少しで乗っている者の顔が見られるところまで来たと思いきや、突然ボートから爆発が起こり、小さなボートは木っ端微塵に四散して沈んだ。
小舟を追い詰めようとしていたリュッツオーの水兵たちは皆面食らい、言葉を失った。
「なんなんだ、あいつらは・・・」
ヘイグ大尉は隣にいるミヒャエルに言うともなく、燃え上がる木造の小舟から上がる炎に顔を照らし、独り言ちた。
艦隊は全艦ミカサの周りに停泊し、リュッツオーも同じく旗艦の傍にやってきて接舷した。真っ黒だった海面には戦艦たちの舷側の灯りが落ち、好光性の魚やイカたちがその灯りを慕うように艦の周りに集まってきていた。
帝国海軍の第一艦隊旗艦ミカサに、かくも重大な破壊行為を為すとは・・・。
まさに、神をも畏れぬ所業。
早、チナとのいくさか?
そう思うのが普通の感覚だ。
実は、軽微な嫌がらせ、挑発行為はこれが最初ではないのだという。
パトロールの駆逐艦に漁網を絡ませて立ち往生させる。
拿捕しようと接舷すると、旧式な滑とう式の銃を乱射してくる。
接舷して臨検しようとすると、刃物を振り回して応戦してくる・・・。
過去何度もそのような事件があり、その繰り返しなのだと。
「ああ、いつもの嫌がらせか・・・」
艦隊の誰もがそんな印象を持った。
専制国家なら、自国の海軍の艦艇が害を受けたなら、即開戦である。
だが帝国の場合、宣戦の権限は唯一、元老院にある。
皇帝といえども自らの意思だけで他国に戦端を開くなどは出来ない。
軍を動かすのは元老院の議決によってのみ。
元老院からプリンチペス(第一人者)に軍を率いる要請があって初めて、インペラトール(最高司令官)として軍に命令を下せる。帝国は為政者の思いのままに何でも出来る専制君主国家ではないのだった。帝国はシビリアンコントロールの絶対支配下にあった。
いきおい、帝国における陸軍も海軍も、相当な自制を強いられる。相手に挑発されても絶対に乗らない。
だから海軍としては、ミカサにこういうことがあった、と事実を知らせ指示を仰ぐより他、現時点では為すべきことはない。怒りに任せてチナ領に砲弾を撃ち込むなど、絶対に、ありえなかった。
現場には現場の事情がある。海軍にも海軍の「気分」というものがあった。
自分の艦から脱走兵を出した。
裏切り者をそれと知らずに艦に乗せていた。
その裏切り者が、あろうことか旗艦に害をなしたかもしれない。
しかもそれを捕らえるのに失敗し、尋問もできなかった・・・。
その不名誉と疑惑を、ヘイグ大尉は痛快な方法で晴らした。
彼は機関員も含め艦の乗組員全員を上甲板に並ばせて、こう言った。
「よーし・・・。
今からお前たちの信用調査を行う。総員、軍服を脱げ! 肌着も全部だ!」
そう言って自分が真っ先に服を脱ぎ始めた。
駆逐艦やリュッツオーのような小艦はミカサのような大艦とは違いシャワーなどを備えてはいない。たまにスコールに出会うと皆裸になって水浴びをすることはままあった。だから乗組員は全員男。女性水兵や士官はシャワーの付いた巡洋艦以上にしか、いなかった。
だがここは大海原のど真ん中ではない。
旗艦に横付けし、周囲にも戦艦たちが停泊している。その1000人以上にもなる水兵たちの中には女性も数多くいる。
衆人環視とも言える状況では、さすがに兵たちも気が引けた。
「何をグズグズしてる! サッサと脱げ!」
ヘイグ大尉はそう言って刃渡りの長い軍用ナイフを取り出し、一番手近に立っていた全裸の年かさの伍長の裸の胸に刃先を突き付けた。
「姓名、官職を名乗り、宣誓しろ。自分はチナの手先ではないと。できないなら、今この場でお前のをちょん切る。はじめっ!」
艦長の気迫に押されるようにして、生唾をのみ込み、伍長は上ずった声を張り上げた。
「マイク・ライル伍長ですっ。天地神明に誓って、自分はチナの手先ではありませんっ!」
「よーし、次っ!」
・・・。
こんな感じでリュッツオー乗組員総勢30名、一個小隊の裸の公開尋問をやらかしたのだった。
兵たちは恥ずかしさもさることながら、こんな下らないことで大事なイチモツをちょん切られてはかなわないと皆素直に宣誓した。
接舷した通報艦の上で始まったこの珍事に、何事かと集まってきたミカサやほかの戦艦たちの乗組員はみな爆笑し、女性士官や女性兵たちはキャーキャー言いながら艦内に逃げ込んでしまった。
「あの、ぼ、ぼくも脱ぐんでしょうか・・・」
おどおどしているミヒャエルに当然のようにヘイグは言った。
「当然だ。このリュッツオーの乗組員なら、例外はないっ!」
彼もまたヘイグの気迫に押され、いささかヤケクソ気味に裸になると宣誓した。
「ミヒャエル・ユンゲ少尉ですっ、ホントはバカロレアの学生ですけど、今だけ士官になってますっ。通信担当で、それ以外のことは、何も知りませーんっ!」
艦隊司令部から事情調査に訪れたラカ参謀がその場に立ち会っていた。
さすがに苦笑を禁じえず、ブラウンの髪をポリポリ掻いて、
「艦長、わかったよ。もういいから服を・・・」
「いいえ、よくありませんっ! 総員、回れ右っ!」
尋問が終わるとそう命令し、自分も同じく素っ裸で旗艦を見上げた。
「総員、気を付けっ! 司令長官閣下に対し、敬礼っ!
閣下! 我らリュッツオーの乗組員には、裏切り者は一人もいませ~んっ!」
ヘイグは、艦隊司令長官ワワン中将がミカサのブリッジから自分たちを見下ろしているのを認め、ワザと海軍士官にあるまじき不行儀を敢行したのだった。
白い髭を蓄えた第一艦隊司令長官はその様子をじっと見下ろしていたが、やがて腹の底から高らかな、大きな笑い声をあげた。その朗らかな笑いはやがてミカサや他の戦艦にも広がり、夜の穏やかな大海原の上をどこまでも響き渡っていった。
そして笑い声が収まるや、ワワン中将ははリュッツオーとその乗組員たちに対し、情愛の籠った答礼を為した。
その一部始終を見ていたヤヨイは深い感銘を覚えた。
やはり帝国海軍全てを統べる司令長官だ。
度量の大きさが違う。
この笑劇の後、リュッツオーの乗員たちの忠誠を疑うものはもう、誰も、いなくなった。
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