第17話 15 ミヒャエル、韋駄天に乗る
「・・・以上が対艦隊演習のあらましだが、質問は」
黒髪のカストロ中佐は説明を終えると幕僚たちを鋭い目で見まわした。
「この折り返し点のハイナン諸島の西あたりまで西進するとなると、チナとの国境線から1000海里も西まで食い込むことになりますね」
年の若い、赤毛をきつく結い上げたホワイト大尉が指摘した。
「そうなるな」
黒髪の目が威嚇するように光った。
「すると、演習しながら巡航10ノットとしても片道4、5日。ターラント帰港は10日後ほどになりますね」
「なにか、不都合でも?」
「各艦の石炭はどうでしょうか」
「規定では2日以上の作戦行動の場合、通常航行分に50パーセント積み増しすることになっている。十分に持つはずだ」
自分の作戦に齟齬はない。そんな本音が発言の合間に垣間見えた。
ヤヨイはミカサの石炭が足りないかもしれないことを知っている。だが、まさにそれが今回の作戦の要素の一つであることも知っていた。だから、黙っていた。
「毎度のことだが、わが艦隊の演習は示威行動も兼ねている」
参謀長が口を開いた。
「すべての海は帝国のものだ。チナには常にそれをまざまざと見せつける必要がある。敵の面前で力の差を誇示し、とても敵わないと思わせ、戦意を喪失させるのが戦争の抑止力に繋がっているのだ。
陸軍はチナとの国境線にその最大兵力を配置している。だが毎年戦力不足を訴え、編成増を要求してくる。海軍としても機会あるごとにチナを牽制し、陸軍のために協力するべきだというスタンスなのだ。
重ねて言う。全ての海は我が帝国のものだ!
大尉。帝国は周辺の国々や野蛮人たちに常にそれを思い知らせておかねばならない。それが平和の維持につながるのだ。
『フリート・イン・ビーイング』
わが海軍の伝統はそのためにあるのだ!」
参謀長が格調高くそう言い切った後、その場に水を打ったような沈黙が訪れた。
「少尉・・・、」
その沈黙を破ったのは、それまでじっと黙っていた司令長官だった。
この寡黙な老人はほとんど喋らない。必要なことは全て参謀長か参謀たちが言葉にし、それに「うむ」と頷くだけ。たったそれだけでこの帝国の最高機密であり最大戦力である4隻の最新鋭艦を含む全艦隊を統率している。
それだけに、幕僚たちは軽い驚きを覚えた。彼らは、ただの空気になっていたヤヨイに一斉に視線を集めた。
マジか・・・。
「・・・はい、閣下」
ヤヨイは、答えた。
「何か意見があれば、言いたまえ」
幕僚たちの視線が一斉にヤヨイに注がれた。
気おくれがした。この場で意見を求められることなどないと思っていた。そもそもなんでこの場に呼ばれたのかもわかっていなかった。
だが穏やかな微笑を絶やさないこの長身の老提督に見つめられているうちに、大きな腕で庇護されているような、包み守られているような安堵を覚えた。彼は知ってくれているのだ。ヤヨイが裏切り者を摘発、抹殺するために送り込まれた「エージェント」であることを。
緊張で高鳴る胸を押さえ、ミヒャエルのリュッツオーへの移乗の話をした。
「前回の艦隊運動のときのようにもし通信機の不調が起きた時、通報艦に通信機を持った士官が乗っている方がいいと考えます」
当惑する幕僚が返事をする前にワワン中将はふふ、と笑った。
「いいではないか」
と、彼は言った。
ミカサの乗組員は約300名。その半数以上が砲術科に属する。
前後の主砲塔に10名ずつ。残りは左舷右舷の副砲を担当する。1門につき3名が照準、弾込め、空薬莢の排出、砲口の清掃を分担し、さらに弾薬庫から砲の内側にある軌道レールの上を小さなトロッコを押して各砲に砲弾を補給し回収する担当がいる。2門毎にスピーカーや伝声管から伝えられる命令を伝達する担当もいた。
下士官用の食堂はその砲術科を含めた乗組員の半数、早朝から続いた演習の疲れを癒し、昼食を摂る男女の水兵たちでほぼ満席の状態だった。すでにもう半数は食事を済ませ通常航海の配置についていた。
士官には専用の談話室兼食堂がある。だが、ヤヨイは敢えて下士官水兵用の食堂にミヒャエルを誘った。
オートミール主体の粗末な陸軍の野戦部隊に比べ、海軍の
トマトや玉ねぎを煮込んだグラーシュからザワークラウトとツナの和え物、子牛肉のシュニッツエル、さまざまな種類のヴュルスト(ソーセージ)、そしてまことに美味しいチキンの煮込みであるゲシュネッツェルネス、小麦だけでなくライ麦や大麦なども使った多様なパンやクロワッサンやマフィンなど・・・。
ドイツ料理だけではない。水兵には南の国の漁港出身の者が多い。ナシゴレンという炒めたご飯や戒律の厳しい宗教の信者のために牛肉や豚肉を避けたハラルフード、鳥料理もふんだんに用意されていた。それらをカフェテリア式に好きなだけトレーに盛り付けてもらえる。海の上に出れば陸と切り離されて安息と娯楽が乏しくなる。せめて食事で緊張と退屈とに耐える兵たちの気分をリフレッシュし士気を維持しようというのだろう。
戦闘中はアルコール厳禁となっている。午後にも演習が控えているからヤヨイはミルクを、ミヒャエルはコーヒーを木のカップに注いで片隅のテーブルに2人分の空席を見つけた。
「ボクは士官の食事よりこっちのほうがいいな。大学のカフェみたいで気楽だし、落ち着くね」
前の航海では水兵が給仕する士官たちの食卓に相伴した。だが、リセやバカロレアでの日々に慣れていたヤヨイにもこうした食事スタイルの方が肩が凝らなくて寛げた。ミヒャエルも同じだったとみえ、早速トレーに山盛りにした料理と焼きたてのクロワッサンに美味しそうに舌鼓を打った。
「大学のよりうまい気がする」
「・・・そうね。食材の産地が近いからかしらね」
気のない相槌を打ちながらあまり湧かない食欲を持て余しつつ、ヤヨイは少量のマフィンに南の国特産のブルーベリージャムをトッピングした。その間にも周囲の水兵たちの様子に目を配った。彼ら彼女らの中にも協力者が、ルメイの同調者がいるのだろうか、と。
「ねえ、ミック。提案があるんだけど・・・」
「なんだい?」
「モールスはわかるわよね?」
「まあ、みんなと同じぐらいにはね」
電気学科の電波を研究している院生は皆一通りのモールスを受発信できる。この度海軍で導入が決定した通信機も、元はバカロレア工学部の院生や学生が製作したプロトタイプを持って汽車で首都を離れ、受発信可能な距離を徐々に伸ばしていったことが認められた結果だったのだ。徴兵で配属された野戦部隊で覚えた者もいたが、その通信のために皆モールスを再度習得し直していた。
「戦艦が目標を攻撃するのを外から見たくはない?」
「どういうこと?」
「戦艦の主砲がぶっ放されるのをぶっ放される側で見たくない? ってこと」
「え?」
小さな船窓の向こうではリュッツオーが標的ブイの牽引準備を終えようとしていた。それを横目にしながら、ヤヨイはミヒャエルを唆した。
「あの艦に乗れば、それが見られるわよ。これからリュッツオーが引っ張る標的に艦隊がガンガンに実弾を打ち込むんだから」
「・・・おう。・・・おおっ!」
ミヒャエルの脳裏には、大海原を突き進みながら敵艦に砲撃する艦隊の雄姿が浮かんできたのだろう。ヤヨイは畳みかけた。
「この機会を逃すと、もう一生見ることは出来なくなるかもよ。それに、万が一またミカサの通信機に異常があった場合、通信担当の士官が通報艦に乗っている意味は大きいわ。
幸い今なら通報艦が横付けしているし、チャンスだと思うけど・・・」
ミヒャエルの目がみるみる爛々と光り出した。彼が単純な性格でよかった。しかし、すぐに彼の顔は曇った。
「でもさ、あの艦(ふね)には通信機を載せてないじゃないか」
「実は予備があるの」
「予備?」
「後から見せてあげる。・・・どうしたの?」
怪訝な
「ヤヨイ、どこか具合でも悪いのかい」
「ううん。どうして?」
「あまり食べないし、さっきから、ってよりは港を出てからずっとイライラしてるように見える。ギスギスってか、・・・ピリピリ、みたいな」
シシカバブーとソーセージを挟んだクロワッサンをモグモグしているミヒャエルを見つめた。彼は根が単純なわりに雰囲気を察するのが上手い。だからあの気性の激しいアンとも上手くやれるのだろう。いけないな。ブリッジでは気取られぬように気を付けていたが、さすがに緊張が途切れがちになっているようだ。気を引き締めねば。
「あはは。また通信機に異常が起こらないかと、ヒヤヒヤしてるからかな」
標的の牽引準備を終えたリュッツオーが接舷していたミカサを離れた。
小さな軍艦に移乗しようとするミヒャエルに平たい小型の通信機とアンテナ用のワイヤーを持たせた。
「まさかの時のバックアップ用に作っておいたの。これがあれば、ミカサの通信機がまた不具合を起こしてもリュッツオーが中継できるでしょ。出力が小さいから最大でも半径60キロぐらいしか届かないけどね。これが周波数のダイヤル。『1』がミカサ。『4』がヴィクトリーだからね。『5』は全艦用」
「こんなもの・・・」
通信機を手にしたミヒャエルは当然ながら、驚いていた。
「・・・いつの間に作ってたの?」
それには答えず、ヤヨイはワイヤーの接続や使い方を教えた。教え終わると、念を押した。
「いい? 何度も言うけどくれぐれも気をつけてね。絶対にダイヤルを『0』にしないように」
「だからどうして? なんで?」
「どうしても」
「教えてくれたっていいじゃないか」
「わかった? 絶対、守ってね」
うかつにそれをやると、ミカサが沈没する。
その秘密と理由をミヒャエルに教えるのはまだ、早かった。
だが、万が一の場合を考えれば彼に託しておく方がいいだろう。もし、ヤヨイに不測の事態が起こり、自分が自爆できなくなった場合に。
もし、その時が来たら。ミヒャエルにミカサを葬ってもらうために・・・。
上甲板で敬礼し、ミカサを離れるリュッツオーを見送りながら、やるべきことはすべてやった、今できることはこれで全部だ、と自分に言い聞かせた。
微速でミカサを離れたリュッツオーが徐々に速力を上げながら離れて行くと、発進のラッパが響き渡った。
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