鬼ごっこ

壱原 一

 

自宅最寄りの橋上駅舎に帰着する。宵の混雑に混ざって階段を下り切った途端、会社員風の男にぶつかられて蹌踉めいた。


故意か過失か、脅威の程度を測るため自然と男を振り返る。男も丸めた肩越しにこちらを見ていた。


男はとても狼狽していた。髪もスーツもぐしゃぐしゃで、血走った両目はがん開き。酷い顔色で大汗を掻いてがくがく震えている。


捕まえた!すみません!すみません!捕まえた!


劈くように叫ばれて、思わず及び腰で後退る。


すみません!俺かえりたくて!子供まだ小さいし、俺いないと!帰らないと!本当にすみません!


大音声で言い募り、男が慌ただしく駆け去る。


呆気に取られて見送る視界が唐突に捻転する。


平衡感覚のぶれと共に耳元でごそんと音。あれこれ倒れたなと思って意識が途切れた。


*


起きると伽藍堂の個室に居た。六方は白塗り。天井で直管蛍光灯が白々と光る。埋め込み型で金網のカバー付き。病院か何やらの施設の印象だ。


蛍光灯の傍に、これまた天井埋め込み型の丸いスピーカーが見て取れる。唯一のドアは室外から施錠されている。手荷物の一切がない。


拉致。監禁。急激なストレスに頭がぎゅうと痛む。全身が強張り、喚いて暴れたい衝動が噴出する寸前に、スピーカーから静かなノイズが発された。


錆びた蝶番がゆったり軋む高音と、傷んだ気管に息が行き来する喘鳴。重い金属製のドアが背後でゆらゆら揺れていて、マイクに口が付く距離で、呼吸に難のある者が発話の準備をしている。


キィ…キイィ…


ひゅう、ひゅー…ひゅう…


お…鬼ごっこ…しましょう…


おに…ごっ…こ…しま…しょう…


小さな掠れ声が切れ切れに訴える。声は不安定に揺らいでいて、重篤な状態で懸命に話していると察せられる。


ごとん、ぞろ、と無造作に混ざる雑音は、頽れそうな口元か、縋る物を求める指が、マイクに触れているのではないだろうか。


鬼ごっ…こ…し…


じっとり汗を滲ませて微動だに出来ず聞き入っていると、いきなり衝突音がした。


大きな「ごしゃり」という音の後、惨たらしい水音と破砕音がマイクを浸す。


おぉ…に、ごっ…ごお…こ…


執拗に捏ね回す音に溺れて消えてゆく声は、うっとりと和らいでいるように聞こえた。


鬼ごっこ!はーじめ!


つぎはぁ…つぎは□!いま行くねえ!


威勢の良い胴間声に名指しされて息を呑む。スピーカーの向こうで過重な足音が駆け去り、同時にがしゃんと部屋のドアが解錠される。


歯を噛み締めすぎて顎が開かない。


怯えた馬のように頭を振り、ドアへ跳び付き室外を窺って走り出した。


*


室外は壁が見えないほど広大な空間だった。一側面にドアを設えた四角柱が等間隔に配されている。恐らくいま出て来たのと同じ個室だろう。


ドアは皆おなじ方を向いていて、現状あいているドアは見当たらない。空間も四角柱も個室と同様に全面が白い。蛍光灯が整然と天井へ埋め込まれている。


右側のずっと後ろの方で、どん…どん…とやたら長い間を空けて重い足音が跳躍している。滞空時間が長過ぎる。重量感も凡そ人とは思えない。


幾つもの部屋とドアを背に壁を探してひた走る。空間に果てがないように感じられる。


籠もって湿気た空気のにおい。靴底に伝う床の堅固さ。なにもかも妙に真に迫っているがまるで現実的でない。


きっと現実でない。悪い夢を見ているだけ。そう思うのに逃げる足が止まらない。


脳裏に会社員風の男がしつこく再生される。


□!□ぅ!?どこお!


呼ばわる残響を聞く度に鼓膜も怖気もびりびり震える。


潜めた声でこっち!と個室へ招き入れられ漸く息を吐いた。


*


もう逃げられないと一目で分かる人だった。干物のように乾いて細い。頭の斜め上が欠けている。肩が煎餅の如く潰れて片腕がぷらぷらしている。足先も片方ない。


どうしてまだ…もしかして捕まるまで死なないのか。


引き攣る顔を苦心して制し、頭を下げて礼を言う。物凄く研ぎ澄まされた目をしている。澱みなくぎらつく、目標の定まっている目。萎びて張り付いた口で、その目も納得の提案をされた。


一度近くまで行ったので脱出口を知っている。案内するから運んでほしい。とても軽いからあなたなら運べる。


逡巡する贅沢は近付く足音の前に失せた。


上着で覆って、今にも壊れそうな脆さと半端な温かさと剛柔の相半ばする生々しい人体の感触を負う。


指示通りに走る。疲弊した膝が崩れ落ちる前に棒のような足を持ち上げて全力で前へ。


激しい血流と心音が耳を覆って、荒い呼吸音ばかりが近い。恐ろしい足音が遠い。


でも徐々に迫っている。


吐く息まで鉄の臭いがする。


ぼやけだす行く手に白い壁が見える。真っ赤なドアが見える。ドアの上に緑色の長方形。呑気に駆け足するピクトグラム。非常口。


舐めてんのかと腹が立つ。


それで最後の一駆けを奮い切った。


ドアノブに取り付く。背後で地鳴りが。


早く入って!入れ!早く!!


耳元で鋭い声が急かす。焦りに焦って滅茶苦茶にドアノブを引いて何か嫌な音を聞く。


赤いドアの中へ滑り込む。同時に背中が軽くなって足元に干からびた腕が落ちた。


*


振り返ると赤いドアの外で仰向けに顔を押さえ付けられてばたばたと藻掻いているのが見えた。


顔を押さえ付けている丸太のような腕を辿る。その姿。顔。角や牙こそ生えていないが、正しくそのものと思われた。


醜く、邪で、残虐と無慈悲の権化のよう。喜悦に顔を輝かせて後頭部を床で平らにさせ、顔面に指を食い込ませている。


んんー!ううううー!ううー!


みしみしぱきぱきと割れて、卵のように中身が流れ出る。


猛烈に暴れている。


あの弱り果てた身体の何処にそれほどの力を秘めていたのか。いやもう殺虫剤を掛けられた末期の虫のように不随意に痙攣しているに過ぎないのか。


死力を尽くした断末魔が緩やかに弱まり、びたんびたんと床を打つ音が漸減する。


赤いドアさえ潜ってしまえれば、鬼には気付かれないようだった。


小山の後ろ姿が血の跡を引き摺って柱の群れの奥へ消える。走り終えて熱い身体から滝の汗が流れる。


がちがち歯が鳴り口の中が切れ、涎が零れ、ぐずる子供のように鼻を垂らして泣いていた。


*


あなたが友達と入れ替わらずここに残ると新しい鬼ごっこが始まりません。


あなたが友達と入れ替わってここを出ると新しい鬼ごっこが始まります。このドアを開けて友達を捕まえてください。


薄暗い部屋の奥にはこの紙が貼られた黒いドアだけがあった。


これは夢。夢だから。


覚めろと願って目を瞑る。頬を抓って目を開けるとまだ黒いドアの前に居た。


ああ。


ああ。


せめて子供の居なさそうな。あまり若すぎなくて、それなりに走れそうで、さほど未来に希望を持って居なさそうな。


隙間から必死に探したが、そんな人は見付からない。捕まえて良い人なんて居ない。


すみません。すみません。


跳び出してぶつかった人に捕まえたと叫ぶ。


血走った両目はがん開き。酷い顔色で大汗を掻いてがくがく震えている。


同じ顔。


卑しい鬼のような顔で笑っていたと思う。


*


あなたが鬼にならずここで死ぬと新しい鬼ごっこが始まりません。


あなたが鬼になるとここと同じ別の所で新しい鬼ごっこが始まります。このマイクで鬼ごっこに誘ってください。


振り子のように揺れる視界を毛深い指で摘ままれて読まされる。


絶対にここから出る。前は下手に身の上を聞いた所為でごみみたいな良心が出しゃばって途中で先へ行かせてしまって逃げ損ねた。今回はぎりぎりで捕まって、これで終わりかと思ったら願ってもない活路だ。


終わりになるよりずっと良い。可能性が少しでもあるなら何にだってなる。絶対にここから出るんだ。


背後で扉が鳴っている。後ろで鬼が笑っている。


今ここで鬼が笑いながら新しい鬼ごっこを始める。


古い身体を潰されて立ち上がると気分が一新していた。


元気な強い体になって、わくわくした気持ちが溢れてくる。


ここが遊び場。広くてきれいで楽しい遊び場。お友達がいっぱい。誰がいい?誰にしようかな?


つぎは△!


鬼ごっこぉ、はじめるよお!


いま行くねえ!



終.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬼ごっこ 壱原 一 @Hajime1HARA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ