哲学

鏑木レイジ

第1話個人的暴動

 命の価値を推し量る。

 あきらめに似た現代に、進むべき考察は、詩論ではない。

 暴動の時代に、個人的な推測は、達しうる。

 朝、目を覚まして、コーヒーを淹れる前に、やるべきことは、世界認識。

 光彩の残像に、悩むとき、真の哲学の胎動を、感じる。

 否。

 論理のあやを取って、客観的にコーヒーの湯気を見る。

 すると、見えてくるのは、コーヒーを焙煎するコーヒー職人は、日々の生活の中で、必要だ。

 なぜかと言えば、コーヒーの豆を摘む人がいないとコーヒーは製造できないからだ。

 しかし、コーヒーを取らなければ、特に必要はない。

 ここに、システマティックな日常性がある。

 生活において、関わる現象は、あくまで、一部だが、関わるからこそ重さを生じる。

 関係がなければ、その人はいないのと一緒だ。

 存在の必要性は、ここにある。

 個人的な暴動とは、関係を獲得するために、世界に視野を向けること。

 世界を広げようとすれば、まず破壊から物事は始まる。

 より豊かに物質的に生きようとすると、糧がいる。

 精神を豊かにしようと試みれば、まずコーヒーをおいしく淹れる必要がある。

 論理を放棄して、思索するのは危険だ。

 瞬間の安らぎから、究極の思想が生まれる。

 そう、私たちの暴力性に方向を作るために、行うべきことは、暴動を扇動する事物に角度を決めて、アプローチしていくことだ。

 手段は、飛躍する思考を制すること。

 意欲の問題もある。

 この世界認識で、私たちは、コーヒーを飲んで、まずは、問題を発見し自己完結しつつ、さらに問題を見つけて、個人的暴動を起こし、生活と切り離して、隠れるような気分で、酔いしれる。

 酔いからさめて、痛みが見つかれば、麻酔を打つ。

 麻酔とは、理解を和らげるコーヒーを通して感じる緊張に消極的な態度で臨みつつ、すっとひく、ボーダー。

 ここに、生活と思想の区分がある。

 個人的暴動とは、ボーダーの領土を広げていく知的な暴力行為だ。

 

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