第21話 いつものあさ(葵衣)

 もう二度と手に入るはずがなかった、平凡な朝だった。

 いつもは憎らしかったカーテンの隙間から射し込む朝日が、泣きたいほどにまばゆかった。

 とてもとても愛おしくて幸せな場所。

 けれど、戻りたいと望んでしまってはならないのだ。

 今ここにある奇跡は、ただ葵衣が勝真を救いたかっただけで。それが叶えば、徐々に薄れて行っている。

 なのに、別れが済んだはずの世界はどこまでもキラキラと輝いていて、新たな未練を作ってしまいそうだった。


 葵衣に残された時間は最初からなかった。

 引き延ばした時間に執着してはならない。それはきっと、誰も幸せにならないことだから。



 終わりがいつなのかを葵衣は知らなかった。

 けれど、そう遠くないことだけは最初からわかっていた。

 その先にどうなるのかなんてわからないけれど、ここに留まらないことは知っていた。

 不安に思わなくはないが、その不安は不思議なことに曖昧あいまいにかき消される。

 そう、何もかもがぼんやりとしていて曖昧なのだ。

 そのうち全てがこうやって消えていくのかもしれないとも思えた。


 最初は、この生活は葵衣の気がかりがなくなればそこで終わるのだろうと思った。

 勝真に生きて幸せになって欲しいと思ったから。それだけに必死だったから。

 だが、勝真がある程度元気を取り戻した今も、葵衣はまだ奏良の身体の中にいる。


 もしかしたら何か他に未練があるのだろうか。そう考えてみたが、思い当たることはなかった。

 全くないという訳ではない。たくさんあるけれど該当はしないのだ。

 両親はきっと今も悲しみに暮れてているだろう。友人たちもきっと。

 職場の人たちには良くしてもらっていた。彼らもきっと悲しんでくれている。

 そのどれもが、勝真には並ばなかった。葵衣はそんな自分を身勝手だと感じていた。

 それでもできる限りいっぱい、勝真のもとにいたいと思っている。

 最後まで、大切な人のもとに。

 それが未練になってしまわないように、日々自分へと言い聞かせながら。



『おはよう。葵衣さん、今日は早いね』


 布団を干して勝真と一緒にキッチンに並び立つと、珍しく葵衣より後に目覚めた奏良が話しかけてくる。


「おはよう、奏良くん。あ、朝ごはんリクエストある?」


 葵衣は当然のように言葉を口にだした。半月以上も続けていて、こんなやり取りに慣れていたが、葵衣がうつらうつらと奏良の中でまどろむ時に逆の立場で見てみると、独り言のようにしか見えなかった。

 勝真が何も言わず、何も疑わずに葵衣を受け入れていることもまた、奇跡に違いなかった。

 嬉しい、と素直な頬が緩む。


『うーん、あれ。あの卵にいっぱい色々入ってるやつ。できればまたあれ食べたい』


「スパニッシュオムレツ?」


『そんな名前なの?』


「うん、多分。かっちゃんのオムレツは美味しいよね」


「ご用命承ります」


 仰ぎ見れば、心得たとばかりに頷きながら冗談めかした返事が戻ってくる。それから勝真は、手早く材料を準備し始めた。

 狭いキッチンに二人並ぶとぎゅうぎゅうで、その中を慣れたように勝真は上手に移動する。いつもそうだったように。


 葵衣はすれ違えばぶつかってしまうくらいのこの距離感が好きだった。

 大学を卒業して勝真にもっと広い部屋に移ろうと言われたが断った。この部屋を去りがたかったのは、この部屋にあるたくさんの楽しい想い出を失いたくなかったのもあるが、この距離感を失いたくなかったのもあった。

 家にいる時は、いつも一緒にいられるような。一緒にいる時は、常に触れ合っていられるような。喧嘩した時も、気まずい時も、黙ってすれ違うことができない距離だ。

 近すぎていつか飽きられてしまうことがあるのかもしれない。そうも思ったけれど。

 結果は、誤魔化しが効かない距離でずっと大切にされてきた。


 こんなに幸福な人生があるだろうか。こんなに幸福な時間があるだろうか。

 もう十分、自分は受け取ってきた。与えられてきた。

 だから、願うのは勝真の幸せだけなのだ。



「じゃあ、俺はスープを作るね」


「一緒に切るか?」


「うん、玉ねぎをいい感じでください。後は自分でやるよ」


「わかった」


 狭い中で食材や調理用具をやり取りしながら、作業は滞りなく進んでいく。

 眩しい、キラキラとした、穏やかでありふれた日常。

 だけど葵衣にとっては、もう戻れない幸せな夢の中にいるような心地だった。


『二人とも息がぴったり。どっちも料理上手だし』


 奏良が感心して呟く。


「奏良くんもだいぶ上手になったでしょ?」


 ここのところは、葵衣の目が覚めていたとしても奏良の意識の方が強いことが多々あった。

 そんな時に葵衣に習いながら料理する奏良の腕前は、回を重ねるごとに驚くほどに上達している。知らずと葵衣の身体の動きを覚えているからなのかもしれない。


『まだまだ、葵衣さんに教えてもらうことばっかだよ』


 柔らかに笑んだ奏良の声に、葵衣の口からも笑いが零れる。


 奏良がいてくれたなら。

 本質は世話焼きな勝真は、きっと孤独にはならないだろう。

 勝真の側に居たなら、奏良はきっと守ってもらえるだろう。

 そんな打算はズルいのだろうか。

 それでも葵衣は、勝真にも奏良にも幸せになって欲しいと願うようになっていた

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