第20話 あのころ(勝真)③

 そんな葵衣も一緒に住み始めてからは、いつの間にか勝真の世話をやくようになった。


「かっちゃん、疲れてるだろ?休んどきなよ」


 そう言って、家事を片付け、食事を用意してくれる。

 勝真は最初は葵衣がそう言うことの意味すらわからなかった。自分のやるべきことをやるだけで疲れるなんて、惰弱だじゃくだとすら考えていた。


「だって勝真は俺がぐだぐだなときは何もかもやってくれるだろ。俺だってなんかしたいよ」


 時を経て堂々と気持ちも考えも口にするようになっていた葵衣が、生き生きと、楽しそうに、嬉しそうに勝真に主張する。


「勝真、それ絶対熱があるだろ?無理して悪くなったらだめでしょ」


 いかめしくしかめても拗ねているようにしか見えない善人顔で、勝真に説教をする。


「葵衣も一緒になら大人しく寝る」


「俺はちょっと先に片付けてから…」


「そんなもの、起きてから二人でやればいい」


 我儘を言って手放しで甘えれば、照れ隠しにぶつぶつ言いながらも嬉しそうに口元を綻ばせる。


 気付けばそんな葵衣の気遣いを、心地好ここちよく思っていた。


 勝真は自分がちっとも完璧な人間ではないと思い知っていた。

 考えた通りに動かない心も、計画を遂行できない情動も、心を委ねて護られることに喜びを感じてしまうことも。

 高みから人を見下す者たちに、愚かしい敗者だとみなされても仕方ない。


 優秀であれと育てられた。『成功』の基準を押し付けられて、完璧であるべきだと、そうあって当たり前だと教えられて育った。

 けれど、完璧ではない勝真のことを葵衣は心から慕ってくれる。

 得意な面を褒めてくれるし、苦手な面を補って教えてくれる。

 勝真は完璧であるよりもずっと多くのものを得てきた自信があった。


 もし葵衣に出会わなければ、きっと勝真は不服で退屈な世界で、自分の不完全さすら自覚せずに完璧気取りで生きていたのだろう。

 他人を見下し相手にもせずに、ただ一人で孤高のフリをしていたのだろう。

 自信がなくて周囲を伺って愛想笑いをしていた葵衣が、共に過ごしているうちに、自分の意見を堂々と口にして、素の顔をさらけ出して、勝真を守ろうとするほど強くなったように。

 勝真もあの頃の自分には想像ができなかった、ただの生身の人間へと変わってきた。

 勝真は、そんな完璧ではない自分を誇れた。


 優秀だ、成功だ、完璧だなんて、そんな概念などどうでもいいのだ。

 そもそも社会的に完璧と言える特徴がない葵衣が、勝真にとっては何よりも価値があるものなのだから。

 誰かのものさしなんて何の意味もない。社会通念ですら、結局は訳知り顔で口に出す人間の主観にすぎないのだから。

 勝真のつまらない世界は、葵衣に幸福な色に塗り替えられた。

 誰にどう思われようと、葵衣は勝真の中では世界のてっぺんで、それが勝真にとっての事実だった。



 だから、大事な人を失うことも、勝真にとっては初めてだった。


 頭も、心も、身体も、バラバラでいう事を聞かなかった。そもそも考えることすらできなかった。

 逃げることも向き合うこともできなかった。

 ただ、悲しみにくれることしかできなかった。


 けれど、葵衣の言葉を聞くことができたから。

 勝真は勝真にできるだけのことをしたいと思った。


 葵衣が最後まで幸せでいられるように。

 葵衣が望むなら、勝真自身が幸せに生きられるように。


 決心しては、次の瞬間には悲哀に変わり、苦しく胸に沈む。

 それはきっとこの先も避けられないのだろう。

 だけど諦めるつもりはない。

 葵衣を選んだのは勝真なのだから。

 いつだって叶えてやりたかった。

 そして、何もしないまま後悔するような性分でもない。


 大切にできなかったことを悔いた。だから、勝真は真摯しんしに最後まで葵衣を大切にしたいと思うのだ。

 幸せな夢が終わっても。決して不幸にはならないように。



 薄暗い夜明けに、カーテンの間から射しこんだ光がまばゆくて目を覚ました。

 傍らで年若い小柄な青年が、光の射す窓の向こうを隙間からじっと見ていた。

 それが葵衣だとわかるのは、葵衣の中には勝真が根付いていて、勝真の中には葵衣が根付いているからだ。

 葵衣とよく似た表情で笑う少年ならば、息をする間のひとつから葵衣とは異なっているとわかる。


 細い肩越しに見つめた横顔はどこか遠くを眺めているようで、何を考えているのかはわからなかった。寂しそうに愛しそうにすがめた目が、名残を惜しむように静かに瞬く。


 一人で抱えてしまった荷を下ろせるのならば、頼って、嘆いて、泣きわめいて欲しい。

 辛さも悲しみも恨みも、耐えることなく放り投げて、自分のためだけに怒りをぶちまければいい。

 けれど、葵衣はきっと全部抱えたまま行くつもりなのだ。

 残された者が嘆く事のないようにという、葵衣らしい気遣いで。


「ああ、かっちゃん。目が覚めた?」


 がばりと身体を起こして、少年が柔らかな笑みを浮かべた。


「天気いいな。今日は布団を干しちゃおう?」


 この少年はすでに葵衣であって葵衣ではない。

 親族の中に入れなかった勝真は、その身体が焼かれて骨になったのを目にした訳ではない。だが、義母が大切そうに抱えた白い箱は、今でもしっかりと目に焼き付いていた。


「そうだな。早起きして干した布団で昼寝だ」


「贅沢なやつ!」


 ぴょこんとベッドから飛び降りた少年に続いてベッドを降り、小さな体でかき集めている布団を奪い取ってベランダへ向かった。

 扉を開けた瞬間、朝早くから元気なセミの声が鳴り響き、温い風と陽光がじりじりと肌にまとわりつく。

 季節が巡っている。時間はあの日から誰の上にも平等にずっと止まらずに動いていて。

 ここにいるはずのない葵衣が、勝真の後ろでごにょごにょとねている。


「奏良くんの身体は小さいけど、この位のことはできるのに」


「そうか、デカくてはできないか」


「そりゃあ勝真は背が高いから俺より簡単なんだろうけど、まだ本調子じゃないでしょ?」


「俺にだってこの位のことはできる」


「うう……でも、ありがと」


 他愛もない言葉を交わせるのは、この蒸し暑い夏の一夜の夢のような、ほんのひと時の奇跡なのだ。

 夢の終わりに良い寝覚めが訪れるように。

 明日も自分を誇れるように。

 勝真はこの幸せな奇跡の隅々までを胸に刻んでいた。この記憶が自分の血肉となり、この先も共にある。

 見えなくても、触れられなくても、言葉をかわせなくても、共に生きてゆけるのだと、諦めの中で淡い期待に縋りながら。

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