第15話 きおく(奏良)①

「可愛い顔してんじゃん。アンタが入れ込んでたホスの子なんじゃね?」


 半裸の母の同僚に顔中を撫でられて、意味のわからない言葉をかけられた。

 あれはいつ頃だっただろうか。小学校にあがるよりもずっと前のことだった。

 その頃の日常は、奏良にはわからない言葉が飛び交っていた。


「あんなクズの子なんて何の役にもたたねーよ。ソイツには今んとこ四人ほど父親いるし?ピンキリだけど養育費はにぎってんからね」


「あはは。一人は離婚したって?泥沼笑える。律儀にカネだけ渡してんだ?」


「嬢にガキ産ませるようなアホなんか別れた方が良いに決まってるだろ。おかげで元嫁にも慰謝料しぼられてんらしーし。こっちも取り分へるわって。サイアク」


「自分のタネじゃないことくらい、考えてりゃわかるだろうになー」


「ヤることヤってんから否定できねーんだろ。シモでしかモノ考えねぇアホウどもさ」


「利口になられちゃ稼ぎが減るからちょうどいいんじゃね?」


 気怠けだるそうに煙草をふかす母と、奏良の顔の前で煙を吐き出しつつお喋りを続ける母の同僚。狭い部屋の中は白い煙で埋め尽くされていて息が苦しい。

 ピカピカのピンクの爪が、値踏みするように奏良の頬を撫で続けていて、身動きするのも怖かった。


「しっかし、こんまま綺麗なカオしてりゃあ、そのうち稼ぐようになるかもなぁ」


 にやり、と気味の悪い笑みを浮かべた女性は、わざとらしく奏良の顔に煙を吐きかけた。

 ムセそうなのを我慢する。目がヒリヒリと痛んで、生理的にじわりと涙が浮き上がった。


「稼ぐようになるまでに金食うんだよガキは」


 深い溜息とともに新しい煙を吐き出して、母が奏良を一瞥いちべつもせずに低い声で嘆く。

 母よりも母の同僚の方が奏良に興味を持っていて、それは時に玩具おもちゃをいたぶるような気まぐれな遊びにもなるけれど。同時に気まぐれに奏良に構い、施しをくれるのだ。

 逃げ出してはならなかった。


「あはは。四人もパパ持ってんだからアンタの太客じゃん」


「最初は六人だったんだけどな。残りも最近カネ払い悪いんだよ。そのうち飛ぶんじゃねー」


「何年も払わせてる才能がすげーよ」


「ま、そろそろ限界かもな」


 母が奏良を見る目には、いつも金になるか否かしか映っていなかった。

 聞こえる会話の意味はあまりわからなかったけれど。

 幼い頃から奏良には母も父もいないに等しいということだけは理解していた。



 奏良の日常は、たぶん、物心ついた時から『普通』ではなかったのだろう。


 母は夕方に着飾って出かけて行き、朝まで帰ってこない。帰ってくる時はたいてい酔っぱらっていて、一人の時もあれば誰かを連れて帰ることもあった。

 狭いマンションの一室には、頻繁に知らない大人が出入りしていた。

 それが母の同僚であるときは、比較的安心できた。彼女たちは奏良をちょっと変わった玩具程度にしか思っておらず、せいぜい悪戯くらいしかしない。

 知らない男性である時の方が怖かった。相手によってどう対応すれば良いのかわからないからだ。

 酔うと暴力的になる男もいれば、酔って寝ている母のかたわらで奏良に全身を撫でまわしたり、触らせたりする男もいる。殴られるよりはましだと思っていたが、気持ち悪くて嫌だった。


 それは奏良にとって当たり前の日常で。小学校にあがって、同級生たちが初めてのキスに夢見る話を聞いてから、キスもペッティングも当たり前ではないのだと知った。

 奏良が自分は『普通』ではないのだと知ったのは、同じ年頃の子どもと関わる機会が増えたこの頃だった。

 知ると同時に諦めた。『普通』は遥かに崇高すうこうで、奏良には辿り着けない場所にあった。


 小学校にあがった頃は、着る服も必要なものもそこそこ持っていた。

 母がたまたま連れてきた人の好さそうな男が、たくさん買ってくれたからだった。

 洋服が窮屈きゅうくつになるまでに、次の服を買ってくれる人は来なかった。

 窮屈になったのも、うんと遅かった。まともに三食ありつけることがほとんどない奏良は、小柄でガリガリに痩せていたからだ。


 小さな頃には綺麗な顔と言われていたのに、成長と共に『貧相なガキ』になっていった。身の汚さも相まって、奏良の見た目は『可哀想かわいそう』と言われることが多くなっていった。



 家に帰りづらくて日の落ちた町をさまよう奏良に、男が声を掛けてきたのは中学生になった頃だった。

 人が好さそうで真面目そうな、小柄でふくよかな中年男性だった。

 奏良が可哀想に見えて声をかけた、一緒に食事をしないかと誘われた。

 最初は善意の他人だった。

 数回会って食事をおごってもらううちに、男は少年が好きなのだと語りだした。

 可愛い少年と一緒に過ごしたいのだと。


 奏良は、腹が膨れるのなら構わないと思った。

 だから、男の取る距離がだんだん近づいてきて、触れることを求めてきて、だんだんその要求が高くなっていっても許容していた。

 幼い頃から身にしみついた感覚だったからだ。

 見くびっていた。

 触ることや触られることなんて、大したことはないと。


 後ろ盾のない寄る辺のない少年に、自分の欲求をつきつける人間が真っ当である訳がない。

 男は奏良があらがえないことも、何かあっても誰にも庇護ひごされないことも次第につかんでいた。何があっても抵抗する手段のないこの少年は、我慢する必要などない相手であると。


 男は豹変を見せ、奏良をいたぶるようになった。

 本当は可愛い少年が汚されて苦痛に表情を歪めるのが好きなんだ、とささやいた。

 大人はそんなずる賢い生き物なのだと、奏良は学習した。

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