第14話 だんらん(奏良)

 朝起きてまずすることは、手と顔を洗って身支度を整えること。

 そんな常識的なルーティーンを、奏良は十八歳にして初めて知った。

 いくつか並んだ洋服を前に頭を悩ませる。

 今までは大穴が空いていない服を清潔な状態で着られるだけでも十分ありがたい状態だったから、選ぶのが難しくて結局は一番端っこから順番になってしまっている。


 身支度を整え終えれば、奏良にはすることがない。

 洗面所から戻ると、人の気配があるキッチンへと向かった。


 この家のキッチンで、自分以外の姿を見たのは初めてだった。

 奏良の身体は小柄なので幅が半畳もないキッチンでもそう窮屈きゅうくつだとは感じなかったが、背が高い勝真が作業しているとひどくせまく見える。

 勝真はそんなことをものともせず、また、キッチンの入り口でたたずむ奏良のことも大して気にする様子なく、慣れたように作業をしていた。


 冷蔵庫の中身を一度じっくりと見まわして、必要なものを調理台に取り出す。手際よく食材を下処理して、一つは鍋に、一つは電子レンジに、一つはグリルにと同時進行で調理を進める。

 葵衣が料理するときは、いつもじっくりと一つずつ丁寧に作業を進めていた。奏良はそんな方法しか知らなかったから、いつの間にかあちこちで出来上がってくる勝真の効率的な調理をみて素直に驚いた。


「すごい、手品みたいだね」


 勝真は手を止めて奏良を振り返り、柔く口元を綻ばせた。


「葵衣も昔そんなことを言っていたな」


「葵衣さんらしいね」


 奏良が葵衣の料理しか知らなかったように、葵衣も自分のようなやり方しか知らなかったのかもしれない。奏良は驚く葵衣の姿がありありと思い浮かんできて、思わず笑みがこぼれた。


「でも、こうやって見ると勝真さんは背が高いね。キッチンがぎゅうぎゅうに見えてくる」


 少し距離があるというのに、奏良からはまだ見上げるほどの身長差がある。注意して見ていた訳ではないが、顔一つとまではいかないまでも、背伸びしても届かないくらいだろう。


「君は小さいからな」


「まあそうだけど。でも勝真さん身長高いでしょ?」


 奏良は気になって、勝真のすぐ横まで歩み寄る。ぐいっと顎が上がるくらいの見上げなければならないのは、少なくても普通よりは長身に違いない。


「そうだな。でも葵衣でもこのくらいだ」


 勝真は奏良との身長差の間の半分、ちょうど奏良の頭の10センチくらい上を手で示した。

 そう言われて、奏良は一瞬意味がわからずに考えるように首をひねり、それから初めて思い至って目を見開いた。

 奏良は、葵衣がどんな姿をしていたのか知らない。

 奏良の身体に葵衣がいるのが当たり前で、葵衣の容姿なんてものを考えたことがなかった。

 なんとなくのイメージはある。ちょっとおっとりしていて、優しそうで、綺麗な人のイメージ。だけど具体的な容姿を思い描いていた訳ではない。


「そうなんだ……葵衣さんの姿って、見たことないから。俺は葵衣さんも見上げなきゃなんないんだ」


 普通だったら有り得ないだろうが、奏良にとっては初めて知った事実だった。こんなに近くにいて、心すらわかるというのに。知らなかった葵衣の当たり前の一面にしみじみと感動した。



「見るか?」


 勝真はさっと手を洗い、スマホを取り出し操作して奏良に差し出した。

 そこに映っていたのは、ちょっと引き目に撮った横顔。

 短いふわふわの髪に、うつむきぎみのふっくらした頬。ねた様子がありありと顔に現れているスーツ姿の会社員。


「わ、小動物……」


 思ったよりもずっと普通で、でもすごくしっくりする。

 思い浮かべた美人とはちょっと違ったけれど、葵衣の見せる表情が、かもし出す雰囲気が、写真の中の男性と一致する。

 葵衣を知っているからこそ、その姿は奏良には可愛らしく思えた。


「葵衣は写真が好きじゃないんだ。もっと格好良くなってから撮るって、昔からずっとそう言い張る」


 表情は変わりにくいが、勝真の声は笑いを含んでいた。スライドして見せる写真はほとんどが盗み撮りのようで、葵衣の視線はあらぬ方向を向いている。

 写真はきっと最近のものだろうものもあれば、幾つかはずっと年若い姿のものもあった。古く荒い画素の中で幸せそうににやけている葵衣の姿なんて、奏良と年頃が変わらないのかもしれないと思った。


 写真をまじまじと眺めて、一周して最初の眉尻を下げて唇を尖らせた葵衣の姿に戻る。


「葵衣さんは顔に出るタイプだねぇ」


 写真の葵衣はすごく不服そうだ。だけど、害のある不機嫌ではなくて、微笑ましい感じがする。なんとなく、勝真が写真を撮りたくなったのがわかるような気がした。


「ああ、3キロ増えてベルトに腹が乗ったって嘆いてる顔だな」



「な、なっ、なんてこと!なんてもの撮ってるのかっちゃん!!!ひど、ひどいぃー」



 ストン、と力が抜けた感じがした。奏良の身体は勝手にあわてふためいている。

 葵衣が目を覚ましたようだ。


「ちゃんともとに戻ったんだからね!」


「その後5キロ増えたんだろ」


「!!!」


 恥ずかしくて、混乱して、腹を立てて……いや、拗ねているのか。

 むっとしているけれど、同時に喜びも感じている。勝真が葵衣の姿を残していたことに……いや、残したいと思っていたことにだろう。

 ドキドキと鳴り響く心臓も、くらくらするほどに上がった体温も、愛おしい。

 奏良は、誰かを愛おしいという感情を身をもって知った。

 こんな想いがあるから、世界はキラキラと輝いているのかもしれない。


「あはは。でも葵衣さんは写真、嬉しいんだよね」


 ぽろりと自分の口から零れて、奏良は驚いた。

 言葉になるとは思わなかった。葵衣が身体を動かしているときに、自分も喋ることができるなどと思ってはいなかったのだ。


 葵衣はばっと口元を両手で覆った。

 真っ赤な顔で目を見開いて、てのひらの内側で唇をぱくぱくさせている。


「ひ…ひどい、奏良くんから、裏切られた……」


 呆然ぼうぜんと呟いた葵衣の頭へ、勝真の手がぽんと降ってきた。


「別にどんな姿だろうと葵衣はいつも可愛いから問題ない」


 平然とした様子で、当然とばかりに勝真が葵衣をなだめる。


『うわぁ……』


 当たり前のように葵衣に甘い言葉を向けた勝真に、奏良は感心した。世の中にはこういう関係があるのだと、奏良の生きてきたスレた世界からは想像もつかなかったから、純粋に驚いて、眩しく感じた。


 一方、葵衣は真っ赤なまま打ち震えている。


「な、なっ……奏良くんに引かれてるでしょう?!なんてこと言うの、もう、もうぅ!」


 真っ赤なまま地団太を踏む葵衣の姿は、ウサギかな。頬を膨らせる姿はハムスターみたいだったけど。

 奏良は写真の葵衣の姿を思い浮かべて、くすくすと笑った。

 葵衣の姿を知って、また一つ葵衣のことを好きになった。


 この幸せな光景が、ずっと続いていけばいいのにと心から願った。

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