あやかし
くろかわ
人殺し
「祇園精舎の鐘の音~♪」
丁の字に座って琵琶を掻き鳴らす男がいる。
いい迷惑だ。
「諸行無常の響きありぃ~♪」
外れっ調子で歌う姿はいっそ清々しいほど滑稽で、何か恵んでやろうかとも考えたが、明日の自分の食い扶持すら怪しいのだ。盲にくれてやる銭などない。
「驕れるものも久しからず……」
琵琶も歌も不意に止まった。
階段に差し掛かった私のほうに顔を向けて、その男は口を開いた。
「おい坊主。そこの身なりの良いやつだ。瓜を持ったお前」
間違いなく、私だ。
「何用か」
「侍の子かぁ?」
「そうだ」
まだ元服はしておらず、髷も二本も差してはいない。そして、まだお取り潰しが決まったわけでもない。故に、侍の子には間違いない。
「続き、解るか」
琵琶を持っているのに平家物語も吟じられないのか、この男は。まぁそうだろう。先程の歌も飛び飛びだった。まだ冒頭だというのに。
溜息一つ、踏んでいた石段から足を外し、草鞋を男に向けた。
じっと眺めると、思いの外見窄らしい格好をしているわけではないと判る。ただ、全身が黒い。肌こそ白いのだが、ぞろりと長い髪に喪服のような黒。その上琵琶まで黒い。
ぎろりと眼が開く。盲では、無いのか。ならば、何故琵琶なぞ弾いているのか。
そも、世は徳川泰平である。盲の生業は専ら按摩で、道端で琵琶なぞ掻いていたら気性の荒い長屋連中に拳骨を食らう。ここが丁度人気の無い町人町の端だからよいものを、この黒い男は何をやっているのか。琵琶を爪弾くにしては文字通り爪で弾いており、撥も持っていない。歌だっておざなりが過ぎる。
天上人に近い僧などは盲た琵琶弾き坊主の集まりがあるとも聞くが、家禄もさほど無い我が家には無関係の世界だ。それはこの男にも当てはまるだろう。
思索から男に視点を戻す。少なくとも侍ではあるまい。かといって、町民にしては見た目も雰囲気も異様だ。敢えて形容するなら、馬か。それも、人を乗せて走るようなものではない。人が触れただけで噛みつき、跨がろうとすれば蹴飛ばす、暴れ馬。もし父上が存命であったなら、この男の風体を何と表するだろうか。
不意に男が口を開く。
「お前さん、ここに何しに来なすった」
ここにゃあ荒れ寺しか無ぇぞ。
そう、なのだが。
「神頼み、というやつだ。情けないことに」
へぇ、と男が笑う。嘲笑うでもなく、可笑しいといった風でもなく、童子のように楽しげに笑う。
「見たところ名前だけは武家を背負っちゃあいるが、名前負けしてそうな身なりだ」
私の痛いところを的確に突く。二本を差していれば無礼討ちしているだろう。
男の言葉は滔々と続く。
「理由があって男は一人、お前さんだけか。んで、母と妹を路頭に迷わせるわけにはいかねぇ、だから仇討ち……ってなとこかい」
黒い、虚のような眼が何を写したのか。
「頭ん中でも覗いたのかって? 違うね、全部お前の顔に書いてある」
ひた、と頬に触れる。つい、水瓜がごろりと転がる。思わず手放したそれは、男の脚にこつんと当たり、動きを止めた。
「オレは神様じゃあ無ぇが」
瓜くれんなら、人くらい斬るぜ。
男はべべん、と掻き鳴らす。私の心がかき乱れる。
何を。
何を迷っているのだ、私は。
見ず知らずの乞食風情が、ただ当て推量でものを言っただけだ。
「話にならん」
つい、と首を振り切って、
「土のついたものを御仏に供えるわけにはいかん。それは貴殿にくれてやる」
言い捨てる。
「へぇ」
と。再び。それは笑う。
「良いのかい。貰っちまったら、返さなきゃいけねぇ」
オレはそういう決まりで生きてんだぜ。
何を。
何を言っているのだ、この男は。
そのような決まりなど無い。恩を仇で返すのなら人道に悖ると言えよう。しかし、男の言い方はそうではない。まるで、そうしないといけないと言わんばかりだ。
それではまるで、物語から出てきた何かではないか。
幽霊は祟る。生前の自分を殺した者に恨みをぶつける。
鬼は斬られる。登場したからには斬られなければならないのが鬼の役割だ。
鶴は恩を返す。動物が命や食べ物の礼に何かを人へ返すのはよくある物語だ。
変化妖異の類なら、概ね正体を看破され人に打倒される。英雄譚の敵役だ。
だが。琵琶法師に、そんな逸話は無い。
では。この男は。この琵琶法師は。
「話に、ならん」
二度目の捨て台詞を吐いて、私はその場を後にした。
「しかし、袴の裾を踏んづけただけで無礼討ちとはねぇ」
懇意にしている八百屋の親父殿が、剥げた頭をぼりぼりと掻く。
「致し方ありません。武士としてあってはならぬ行いですから」
そうは言ってもよぉと呟きながら、大根、胡瓜、茄子を笊に置いていく。
「殿様の前ですっ転んだってのが恥っつぅなら、裾を踏まれてぎゅっと踏み留まれなかったのもどうなんだっつぅ話にもならねぇか」
まぁ、そういうものではないのです、と曖昧に笑う。
「お侍ってのは剣をやるんだろう? 刀を振り回すんなら足腰が大事だって言うじゃあねぇか」
気の良い旦那と明るい奥さん、かわいい娘さんに頭の良い御子息と、俺に取っちゃあ珍しく家に行くのが楽しみなお得意さんだったてぇのによ。八百屋の親父がぼやくが、致し方あるまい。
「申し訳ない。暫し支払いはお待ちいただくことに」
いいってことよ、と明るく笑う親父。
「稼いだ銭に詳しく帳面つけてるわけじゃあ無ぇんだ。それになんだ、うちの爺様の頃からのお得意さんを放っておいたら江戸っ子が廃らぁ」
「いずれ必ずお返し致します。ですから、きちんと帳面にはつけていますよ」
破いちまえよそんなもん、と八百屋は笑いながら去っていく。
彼の親切も、正味どこまで保つか判らない。畢竟、浮世は金次第だ。地獄の沙汰よりも遥かに厳しい損得勘定が世の常である。
溜息が出る。
これも、仇討ちが終わり、私が元服すれば元通りだ。家禄が完全に戻るかどうかはさておき、私が内職をしながらなら親子三人で食べていける程度にはなるだろう。
す、と襖が開く。
「母上」
私の視線の先に、げっそりと痩せこけ、暗い瞳を揺蕩わせる母が現れる。
「お体は」
いえ、心配ありません、と母は言う。夕焼けを背負った私からは、まるで絵に描いた幽霊にも見える。この姿で一体どう安心しろというのか。問うた私が愚かだった。
「お咲は……」
「そろそろ日も暮れます。帰って来ましょう。今、夕餉の支度を致します。出来上がったらお呼びいたします故、床でお休みになってください」
すみません、と謝る母に、お気になさらず静養を、と念を押す。
仮に、否、十中八九だが。仇討ちで私が死ねば。そうすれば、跡継ぎのいない武家はお取り潰しだ。だが、心中はどうあれ、母と妹は自由になる。母娘二人なら生きようがあろう。家という枷から解き放たれれば生き易くなろう。武士という檻から外れれば、いくらでも選択肢はあるのだ。生家に帰るという手もある。
家というものは、形というものは、しきたりというものは、恥というものは、全て枷なのだ。凡そ檻なのだ。
あの男の言いようが脳裏をよぎる。
オレはそういう決まりで生きてんだぜ。
思えば、私と違う決まりで生きているだけだ。武家という決まりに生きている私。それとは違う決まりで生きているあの男。
思い返せば、異様でもなんでもない。普通の、人間だ。
その、はずだ。
「頼もう」
橋木殿はいらっしゃるか。
第一声が震えていなかったかと問われれば、まるでその自信はない。
腰の大小は父の遺したもので、染み一つない。父も私も、刀を振るよりそろばんを弾くほうが得意なたちだ。恐らく代々そうなのであろう。刀は錆びないよう手入れこそされていたが、実際に人を斬れるかどうかまでは判らない。
踏み入って声を上げたのは、江戸の中でもそれなりの広さを誇る剣道場だ。
髷こそ結ってはいるが私と大差無い歳と思われる青年がこちらに気付いて近づく。恐らく門下生だろう。指の付け根には握り胼胝とでも言えばいいのか、ごつごつとした皮膚の塊が見える。
「橋木殿に何か御用で?」
「は。仇討ちに御座います」
仇討ち、と顔を曇らせる青年。
お上の赦しもあります、と書状を広げる。が、
「橋木殿はー……流行り病とかで……そのー……しばらく人前には出られないとの旨を、その……聞いております」
嘘で誤魔化そうとする。
この男は橋木が我が父を斬ったことを知っているのだろう。そして、橋木慎之助がこの道場でも師範代という地位にいること、私がどう見ても刀なぞ振るったことも無さそうなうらなりだと勘案し、咄嗟に慣れない嘘をついた。そんなところだろう。
私のような青瓢箪が、腰の大小の重さに歩くのも難儀するような小坊主が、橋木に勝てる道理も無い、そう思い、そして思い遣ったのだろう。
だが。
「橋木殿の家には今朝がた行きました。今日は道場にて汗を流す、と伺いました」
それは、と呻く青年。悪いことをしている気持ちになる。
なるのだけれど。どうにかして、生死を決めねばならない。そうしなければ、私の母と妹はどうにもならない。
噂をすれば影が差す。橋木がひょいと顔を出す。
「おぉ、何やら物騒な話が聞こえたでな。小童、話は委細承知しておる。入れ」
橋木慎之助。歳は三十半ば。上背は十人並みだが、肩幅は広く、胸板も分厚い。腕も脚も巨木と見紛う程で、あの首に私が刀を当てて切創を作れるかどうかすら定かではない。そんな気持ちになる。
「はい」
だが、やらねばならぬ。
道場の庭には数名の門下生と橋木、そして証人として師範を名乗る五十路程の老人が集められた。
橋木が音頭を取る。
「と、いうわけで、仇討ちに候、と」
「はい」
ふぅむ、と橋木。
「仇討ちならば真剣で行うが常。しかしお主はまだ元服前の子供。故に、この竹の木を束ねた……なんと言ったか。まぁ、これで打ち合うのは如何かな」
さすればいくら痛くとも骨を折る程度で済むだろう。
成程、憐れみと取れなくはない。緊張していた空気にやや弛緩の色が見えた。ここで血は流れぬのだ、しかも元服前の子供の血は、と。
しかし、だ。
「父を斬っておいて、その子は斬れぬ、と?」
そうは問屋が卸さぬだろう。
「もしくは、門下生の前で恥をかかされると冷や汗でもかいてらっしゃるか」
橋木の顔色が変わる。
「童なら手心を加えようものを。あくまで真剣での立ち会いを望まれるのなら致し方なし」
橋木がつかつかと道場の中に入り、抜き身を引っ提げ庭へと戻って来る。
私は咄嗟に脇差しを抜き放とうと手をかけ、
「ちぃっとばかし、待ってくれやしませんかねぇ」
聞き覚えのある声に、その場の全員が虚を突かれた。
庭の端に、男が居る。
黒い男だ。この前、丁字の路で出会い、妙な問答をした琵琶の男だ。
庭の端と言っても入口ではない。長方形の庭の、長辺の真ん中。つまり誰の眼にも見咎められず入って来るのは不可能な位置。門下生は反対側、道場の軒先に集まっている。
「誰だ」
橋木が鋭く言い放つ。門下生ではない、ということか。では、なぜここにいる?
「そりゃあアンタ、決まってんだろう」
何がだ。誰かが思わず声にする問。この場の全員が考えていたことだ。
「仇討ち代打ちってぇやつよ」
何を、言い出すのだ。この男は。
「元服前の餓鬼一匹に大道場の師範代が抜き身じゃあ、ちぃとばかし格好がつかんでしょうよ。だから、思う存分斬れる相手を立ててやろうって話よ」
侍ってぇのは、人斬って生きてんだろ?
そんな古い話を、いつまで引き摺っているのだ、この男は。
「ま、待て、この前の瓜の話は、」
「そうとも。お代はいただいてんだ。だったら斬るしか無ぇだろ」
オレはそういう決まりで生きてんだぜ。
しかし。
「お前、刀は持っていないだろう」
背負っているのは琵琶だけだ。黒い服。黒い髪。黒い瞳。黒い琵琶。
呵々、と男が口を開く。嫌に犬歯が長い。
「あるぜ。あるに決まってんだろう。オレはそういう決まりなんだぜ」
ぞぶりと、左の手のひらに右手を突っ込む男。波打つように左腕から柄が、頭が、目打ちが、縁に鍔に、そして刃がずるりと引きずり出された、ように見える。
「面妖な……」
誰かがぼそりと呟く。
まるで生えてきたかのような刃は男同様、真っ黒だ。
「なぁに、ただの大道芸よ」
で、だ。ハシギさんよ。男は橋木に笑いかける。
「餓鬼を斬りたきゃオレを先に斬りな」
「助太刀、ということだな。相解った。しかし大道芸人が助太刀とはな」
橋木の挑発に、男はにたりと笑う。
「大道芸に見入って踏み込まなかったのはアンタだろう?」
橋木は言葉では応じなかった。代りに、庭から土煙が爆ぜる。橋木が踏み込んだと気付いたのは、ひとしきりことが終わってからだった。
「踏み込んだ橋木さんの眼に、男が何か吹きかけたんです。西瓜の種のような」
橋木の通夜の帰り際、立ち会いの前に声をかけてくれた青年が傘を貸すと申し出てくれた。曇り空も泣き出す前に帰ればよかろうと高を括っていた私は、帰り際に出鼻をくじかれた。既に小雨とはいえ降り出していたのだ。借りた喪服を濡らすのは困ると悩んでいた私に、傘を差し出してくれたのが、あの青年だった。
「それは、恐らく瓜の種でしょう」
何か心当たりが? と言いたげな青年の視線から目を外す。
恐らく、橋木の光りは私の瓜の種で潰されたのだ。
「して、その後は……」
「はい、男はそのまま裸足で橋木さんの向こう脛を横から蹴折りました」
そこは、かろうじて見えてはいた。あの巨木のような脚が、枯れ枝の如くぽきりと折れた様を覚えている。事実、橋木の遺体の左足は見事に脛の半ばで折れていた。
「そのまま態勢を崩した橋木さんを、刀の上から……」
そこで青年は口を噤んだ。無理もない。
刀の上から、あの黒い刀で、一刀両断にしたのだ。
尋常、刀と刀、鉄と鉄がぶつかればどちらか一方だけが折れるということはあまり考えにくい。それが切断ともなれば尚更だ。
それだけではない。橋木の体は綺麗に二つに分かたれていた。鉄を斬り、その勢いのままに人体を、肉を、皮膚を、骨を、脂を、美しいと言って差し支えないまで完璧に、両断していた。
座棺に難儀していたのだろう、橋木の葬儀は私が着いても中々始まらなかった。
「あぁ、それと」
青年は思い出したかのように言う。
「家禄を取り戻した、とか。おめでとうございます」
「えぇ、まぁ」
曖昧に濁す。私は彼の同門を殺したに等しい。多少以上の恨みはあろう。それを、おめでとうなど。よく出来た人だ。
「喧嘩両成敗、仇討ちはお上に認められております。橋木殿も立ち会い前に助っ人を認めた。で、あるのならば、あなたが俯く必要がありましょうや」
そういう、決まりでしょう。
彼はそう言った。
確かに、それは、そうなのだが。
「では、私はここで。傘、ありがとうございました」
私は一礼し、青年にうなじを見せる。
では、と彼も軽く会釈をする。
「雨が強くなって参りましたな。傘が破れぬ内に、失礼」
そういって走り去る彼の背中を見送る私の耳に、べべん、と雑に掻き鳴らした琵琶の音色が飛び込んでくる。
ひとえに風の前の塵に同じ。
男の黒い光りを宿す瞳に覗かれた気がして、私は慌てて家に逃げ込んだ。
あやかし くろかわ @krkw
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