第2話 タイムリープ

「タイムトラベル」

 というものを考えた時、

「タイムスリップ」

 と、

「タイムリープ」

 という二つが考えられるということを知ったのは、最近のことだった。

「タイムスリップ」

 というのは、結構昔から、小説やSFドラマなどでよく使われるものである。

 というのも、

「タイムマシン」

 あるいは、

「ワームホール」

 などと言った、

「各種アイテム」

 があるからである。

「タイムマシン」

 というのが、人間の手によって、あるいは、人間以外の生物によって、タイムトラベルを目的として製造されたものであり、

「ワームホール」

 というのは、伝説上のもので、そこには、人間の手は介入しておらず、言われることとして、

「月や天体」

 の影響により、不定期に現れる、一種の、

「タイムトンネル」

 ということである。

 どちらにしても、その用途は、

「時を超える」

 というもので、時代を超越するものということで、存在しているものである。

 そのどちらも、人間を巻き込んで、

「他の時代に誘う」

 という、

「タイムトラベル」

 というものである。

 そこに、本人の意思が入るかどうかで、変わってくるといってもいいだろう。

 ただ、そのどちらも、

「過去に行く」

 ということを危険視している。

 だから、

「なるべく過去に行きたくない」

 と思っているのだが、小説やSF映画というのは、

「そうは問屋が卸さない」

 何かの事件が起こらなければ、タイムマシンにしても、ワームホールにしても、その存在価値というものは、ないに等しいといってもいいだろう。

 そんなことを考えていると、

「未来への思いを馳せるのはいいが、その過程がどうなっているのか?」

 ということが、一番の問題のはずなのに、

「結果だけ」

 を見に行ったとして、それが自分のどんな教訓になるのか?

 ということである。

「過程をすべて見ようものなら、何もタイムマシンは必要ないわけだが、その過程を見ずに結果だけを見て、じゃあ、どうすればいいのか? ということが分からないのであれば、未来を見るということは、危険でしかない」

 ということになる、

 そういう意味でも、タイムトラベルというのは、

「過去も未来も、危険しかない」

 といえるのではないだろうか?

 実際に、

「未来が安全だ」

 ということで、未来に行ったとして、未来の自分を見た後で、過去に帰ってきたとすると、過去はまったく以前と同じだといってもいいのだろうか?

 一つ気になるのだが、

「未来に行っていた時間を気にしなくてもいいのだろうか?」

 ということである。

 というのは、例えば、

「未来にいた期間を、まる一日いたとしようか? 飛び出した過去を、4月1日の午前0時だとすると、戻る時間は、4月1日の午前0時でいいのだろうか?」

 ということである。

「4月2日の午前0時では?」

 と考えるのだ。

 というのは、どういうことなのか? 

 というと、

「未来にいた日にちの1日間というのは、ある意味、自分の寿命を一日費やしたことになるのではないか?」

 ということである。

 つまりは、本来であれば、1日先を生きていなければいけないのではないかということで、本来なら、

「1日遅く死ぬはずの寿命が、1日短く死ぬことになる」

 といってもいい。

 ということは、

「未来にいけば、過去を変えたことにはならない」

 というが、少なくとも、自分は、その1日がなかったことになる。

 その1日の間に何かがあれば、

「過去を変えた」

 ということにならないのだろうか?

 ただ、これは考え方の問題で、

「確かに過去を変えたかも知れないが、現代に生きていた自分たちは、知らないことだ。あくまでも、4月1日の午前0時以降というのは、その時点を現代だと思っている人には、未来でしかない」

 ということになるのである。

 つまりは、

「未来というものをいかに変えたとしても、それは、誰にも分かっていることではない」

 ということだ。

 それは、本人にしてもそうだ。

 だから、ひょっとすると。

「過去の戻ってから、前にいった未来のその時にいった時、その未来はまったく変わってしまっているかも知れない」

 ということになるのだ。

 だから、

「過去は変えられないが。未来は変えられる」

 という言葉になるのだろう。

 もっとも、この言葉の意味は、別にこのような、

「タイムトラベル」

 を意識してではなく。

「今までひどい人生だったかも知れないが、未来は努力によって変えられる」

 ということを口にして、相手を慰めるという。

「一種の、気休めに過ぎない」

 ということになるのだろう。

 しかし、この言葉は、

「タイムトラベル」

 という意味でもいえる言葉であるという発想から、

「気休めも、事実になるのだ」

 といえるのではないだろうか。

「タイムトラベルというものが、過去も未来も変えてしまうことができる」

 ということであれば、

「過去に帰ることで、タイムパラドックスさえ引き起こさなければ、やり直すことができるのではないか?」

 と考えると、一つの発想が生まれてくるのであった。

 それが、

「タイムリープ」

 というものである。

 この発想は、よくいう言葉として、

「昔に戻ってやり直すことができればいいな」

 ということから派生している。

 というのも、

「その時代に、今のまま、アイテムを使って飛び出すわけではなく、意識と記憶だけをもって、魂が、その時の自分に、憑依する」

 という発想である。

 だから、同じ時代の同じ時間に、同じ人間が存在するという、

「タイムパラドックス」

 であったり、

「もう一人の自分」

 というドッペルゲンガーでもないということになるのだ。

 しかも、自分の中の記憶に入り込み意識も乗り移った自分が支配するということになるので、

「時代と身体は、その時代の自分だが、意識と記憶は、未来の自分」

 ということになる。

「未来に起こることを知っているので、その時々のターニングポイントを乗り越えることができる」

 と考えるであろう。

 しかし、

「そううまくいくだろうか?」

 というのは、

「過去に戻って、自分に憑依した時点で、タイムパラドックスなのではないか?」

 ということである。

 というのは、例えば自分が戻った過去において、記憶にしたがって生きている時、最初のターニングポイントに差し掛かったとしよう。

 すると、その時の危機を乗り越えたとしてだが、それが、たとえば、

「交通事故に遭う」

 ということであれば、どうだろう?

 自分の記憶の中で、

「その道を通ってしまうと、飲酒運転の車に引っ掛けられる」

 ということが分かっているのだから、別の道を通ろうとするのは、当たり前のことである。

 するとどうなるかというと、

「確かに自分は、その車に轢かれることはないだろう。ただ、自分の代わりに轢かれる人はいたかも知れない。それどころか、違う道を通ったおかげで、別の災難に巻き込まれるかも知れない」

 とも言えなくもない。

 逆に、難を逃れたとすればどうなるだろう。

「ああ、よかったよかった」

 ということで、済まされるだろうか?

 というよりも、ここで交通事故に遭わなかったことで、その瞬間から、自分の運命というものは、劇的に変わることになる。

 ということは、

「最初から分かっているはずの、自分の歴史」

 というものが、ここで終わってしまうということになるだろう。

 ということは、

「せっかくタイムリープしてきたとしても、ここから先は知らない人生だ」

 ということで、もう過去の記憶は、まったく通用しないよいうことになるのではないだろうか?

 だから、

「過去にタイムリープしたとしても、その効果は、一度だけしか通用しない」

 ということになるのだ。

「過去のあの時点からやり直したい」

 という意識であれば、いいのだが、

「未来からきたのだから、その時々の危険から、すべて逃れられる」

 という考えを起こすと、それはまったく違うということになるのだ。

 これが、小説などの、

「物語のネタ」

 ということになれば、どう考えればいいというのか、

「実際に生きてきた人生と、タイムリープによって引き起こされた人生というものは、まったく違った人生を歩めるかどうか、それは分からない」

 といえるだろう。

 ただ、タイムスリップのように、

「過去や未来に行った自分が、アイテムを使って元いた時代に戻る」

 という発想は、

「タイムリープ」

 にはないのだ。

「自分のいた時代の自分に憑依する」

 ということで、

「タイムパラドックスの解決にもなるし、やり直したいと考えたことを実行できる」

 ということで、実に都合のいいことのように思えるのだが、果たしてそうなのだろうか?

「人生をやり直すといっても、そこから先の未来が分かっていることで、すべての危険を回避できるわけではなく、それができるのは、最初だけだ」

 ということと、同じ発想ではあるが、

「タイムパラドックスの解消ということであるとしても、一度危機を回避してしまったことで、歴史を変えてしまうということになるわけなので、この時点で、タイムパラドックスを自らで起こさせたということになり、その意識が、タイムリープであるということから欠如しているだけだとすれば、その罪はさらに思いといえるのではないだろうか?」

「タイムリープというものが、どんなにいいものなのか?」

 と考えている人がいるとすれば、

「冷静に考えれば、これくらいの発想は出てくるのではないだろうか?」

 と感じるのだ。

 というのは、

「タイムリープ」

 という考えは、

「タイムスリップの派生型」

 であり、

「タイムパラドックスの解消」

 という考え方なのだから、

「タイムリープを創造するということは、タイムパラドックスとは、切っても切り離せない関係ということになり、タイムスリップのような考え方は、容易にできるのではないだろうか?」

 といえるだろう。

 それを考えると、

「タイムパラドックスというものをいかに考えるか?」

 ということを考えると、

「ドラマや小説で使う分には、害はない」

 ということであろうか。

 タイムスリップものの、小説やマンガというのも、結構昔からあり、似たようなものでも、それぞれに気を遣って描かれていて、なるべく、

「二番煎じ」

 にならないように描かれている。

「二番煎じ」

 であったり、

「盗作まがい」

 のものであったりすれば、その小説やドラマは、

「面白くない」

 というレッテルを貼られることだろう。

「どこかで見たことがあるような話」

 と少しでも思われると、興味をそがれるといってもいいのではないだろうか。

 ミステリーのトリックなどは、

「大体のトリックは出尽くしていて、あとは、バリエーションの問題だ」

 ということになるのは必至だ。 

 といってもいいだろう。

 だから、SF小説というものも、テーマやドラマの根幹になりそうなことは、

「ある程度出尽くしている」

 といってもいいかも知れない。

 しかし、すべてが出尽くしているというわけではなく、

「新しい発想はまだまだある」

 といって、新しいものを、創造しようとする人もいれば、

「これからはバリエーション」

 ということで、似たような話になってもいいから、バリエーションを利かせることで、量産体制に入る人もいるだろう。

「もし、俺が、小説家だったら、量産体制に入るだろうな」

 と朝倉青年は感じた。

 しかし、読者としては、

「あくまでも、新しいネタを求める」

 と思うに違いない。

 下手をすれば、

「バリエーションは、二番煎じだ」

 と考えるかも知れないと思うと、そう思った自分を否定したくなるというのも、自分の性格であった。

 その時、

「俺って、二重人格なんだろうか?」

 と感じたりしたが、もっと別の考えが浮かんできた。

「未来のどこかの自分が、タイムリープして、乗り移っているのかも知れない」

 と思うのだった。

 確かに、

「タイムリープ」

 というものを思い浮かべた時、

「元からいた俺の魂はどこに行ってしまったのだろうか?」

 と、タイムリープを考えた時に、感じたことだった。

 というのも、

「タイムリープ」

 というのは、

「過去の自分に憑依する」

 ということなので、その中の自分に憑依するということは、元からいた自分の中の魂のことを、どうして考えなかったのか?

 と感じるのであった。

 過去の自分がはじき出されるのであれば、過去に戻ったとしても、気分のいいものではない。

 だから、意識して、考えないようにしていたということであろうか?

 まるで夢を見ているような感覚ではないだろうか?

 そんなことを考えると、

タイムリープをすることで、時間がさかのぼって、もう一人の自分が消えてしまうということではなく、未来を知っていると思っている自分が、同じ肉体にいることで、

「もう一人の自分」

 を作ってしまう。

 とも考えられないだろうか。

 しかも、未来を知っていることで、

「自分の危機を一度だけ救える」

 という自分が現れたのだ。

 その自分が

「隠れた自分」

 そう、まるで、

「ジキルとハイド」

 のような、薬を使わないと表に出てくることのできない、もう一人の自分。

 そう考えると、

「ジキルとハイド」

 という話は、

「二重人格の話」

 というよりも、

「ドッペルゲンガーの話」

 と言った方が、適格なのかも知れない。

「ドッペルゲンガー」

 というのは、

「世界に3人はいるという、よく似た人間」

 ということではなく、明らかな。

「もう一人の自分だ」

 ということである。

 もう一人の自分ということなので、基本的には、同一次元、同一時間に存在してはいけないということになる。

 しかし、実際には存在していて、しかも、その存在は、

「そもそも周知されている人の行動範囲以外には、現れない」

 ということであった。

 さらに、ドッペルゲンガーの特徴としては、

「一言も喋らない」

 ということであったり、

「ドアの開け閉めができる」

 という具体的な話まで伝わっている。

 しかし、ドッペルゲンガーの何が怖いのかというと、

「ドッペルゲンガーというものを見た人は、近い将来において、必ず死ぬ」

 というような

「都市伝説」

 が、いかにも真実だとして伝わっていることだった。

 ドッペルゲンガーというのは、実際には古代からその存在が認知されていると言われている。

 そして、実際に、

「ドッペルゲンガーを見たことで死んだ」

 という人が、過去の偉人の中にたくさんいることから、その信憑性が、かなり高いものだということで、認識されるようになったのであろう。

「芥川龍之介」

 であったり、

「エイブラハムリンカーン」

 などという著名人の逸話が残っていたりするからだ。

 そんな状況において、ドッペルゲンガーと、二重人格、特に、

「ジキルとハイド:

 の話のように、

「極端な性格の違い」

 特に、

「正反対の性格」

 というのを考えた時、

「ドッペルゲンガーの発想にはいきつくのだろうが、ジキルとハイドの話とは、根本的に違っている」

 といえるのではないだろうか。

「ジキル博士とハイド氏」

 というのは、

「自分の中にある性格を引っ張り出して、今の自分の性格を変えようと考えたのか」

 それとも、

「自分の中にある性格を覚醒させて、もう一人の、いい部分がある自分を表に出したかったのか?」

 ということのどちらかなのだろうが、後者であれば、

「結果が悪かった」

 ということで、言い方はきついが、

「ジキル博士の、自業自得」

 ということになるだろう。

 そもそも、

「薬を使って、人間を覚醒させよう」

 という考え方は、どこまでが許されるというのか?

 と考えてしまう。

 確かに、人間が病気になった時、薬を使って、病気を治したり、楽になるように、薬を使うというのは、当然のことのように考える。

 ただ、考え方として、

「人間を含めた動物には、自分で自分を治すという、治癒能力というものがあり、治すことができなければ、あとは死ぬしかない」

 という考え方もある。

 それを寿命という

 という考え方をするのであれば、

「本来であれば、病気で死ぬはずの人を、人間が開発した薬でしなないようにした」

 ということは、その人の運命を、

「人間が狂わせた」

 というのは、大げさであろうか。

 本来であれば、死ぬ予定の人間が助かるということは、本来であれば、その時に生まれてくる運命出会った人が生まれてこなくなるとも案が得られないだろうか?

 これは、少数派意見といってもいいが、

「人間の輪廻転生というものの考え方」

 として、

「死んだ人間の魂が、誰が他の生まれてくるはずの人間に宿る」

 ということだと考えれば、人間の出生率であったり、生まれるタイミングというものが変わらずに、

「永遠に生き続ける」

 と考えるとすれば、それはおかしなことではないだろう。

 というのも、

「人間が死後の世界にいった場合。人間として生まれ変われる人は限られている」

 ということであった。

 ほとんどの宗教では、

「生まれ変わる」

 ということと、

「地獄で永遠に苦しむ」

 という考え方の違いがあるが、

「地獄で苦しむ人たち」

 というものが、違う宗教においては、

「人間以外のものに生まれ変わる」

 という発想になるのだ。

 一度、人間以外に生まれ変わってしまうと、

「輪廻転生」

 というものを、何度繰り返したとしても、人間に生まれ変われるということはありえない。

 という考えに至るのであった。

 それを考えると、ほとんどの宗教の考え方でいけば、

「人間というのは、どんどん減っていく」

 ということになるだろう。

 しかし、人間は、減るどころか、その人口はどんどん増えている。

 しかも、

「寿命がどんどん長くなっている」

 ということを考えると、

「輪廻転生」

 というものを、再度考え直すという必要があるのではないか?

 といえるのではないだろうか?

 それを考えると、言われている。

「タイムスリップ」

 であったり、

「タイムリープ」

 さらには、

「ドッペルゲンガー」

 というものを、研究することで、その答えがどこかにあるのかも知れない。

 ということになるのではないだろうか?

 人間の寿命であったり、運命というものは、

「本当に変えられるのだろうか?」

 ということであり、変えられるとして、それを果たして、人間の手にゆだねてしまっていいのだろうか?

 ということになるが、その考え方というのは、

「神の存在を肯定する」

 ということを証明するかのようではないだろうか?

 一度、未来に行って、過去に戻ってきた時、見てきた未来が、

「一度、未来というものを見たことで、過去を変えた」

 と言えないだろうか?

 もう一度、過去に戻るのだとすれば、少なくとも、未来にいたことで、本来であれば、現在にいるべき時間を、未来で使ったわけだから、

「自分の存在が、その未来にいた間、ぽっかりと穴となって開いたと考えるべきなのか?」

 それとも、

「未来というのは、現在というものに、まったく影響を及ぼさない」

 ということで、未来に行って戻ってきても、

「歴史を変えたことにならない」

 と考えていいのだろうか?

 そんなことを、どうしても考えてしまう。

 ただ、どうしても、

「未来にいた時間、現在の時間、穴が開いたと思うのか、それとも、飛び出したその時間に、完璧に戻ってくることで、辻褄が合う」

 と考えればいいのか?

 このあたりの問題が大きな影響をはらんでいると思えるのだった。

 未来にいる時間。自分では、

「たとえ一日とはいえ、時間を過ごしているのだ」

 と感じると、過去の飛び出したのと同じ時間に戻ってくることに対して、何かの違和感があると感じることだろう。

 だったら、

「一日先に戻ってくるというのは、ありなのか?」

 と考える。

 そもそも、タイムスリップで未来に行った時。それが、ごく近い未来であり、例えば、5分後だったとすると、タイムマシンで飛び出した時、目の前からその人は、忽然と消えることになるだろう。

 そして、5分経つと、判で押したように、その時間になると、

「忽然と、何もない空間に、いきなり飛び出してくる」

 ということになる。

 見ている方は、確かに、

「5分という時間を飛び越えて、その場所に戻ってきた」

 と思うだろう。

 しかし、タイムトラベルをした人にとって、その5分は一瞬でしかない」

 理論としてはのことであるが、5分を飛び越えて戻ってきた人の時計は、数秒しか過ぎていないということになるのだ。

 ということは、その人だけが、

「その5分というものを経験していない」

 ということになり、それこそ、

「アインシュタインの相対性理論」

 というものの証明をした。

 ということになるのであろう。

 だったら、タイムトラベルで未来に行った人が、過去に戻るとすれば、戻った瞬間、

「時間の経過がない」

 というだけで、意識の辻褄は合っているということになる。

 ただ、それは、辻褄が合っているというのは、自分にだけいえることであり、まわりは、相手が確実に、5分先を歩んでいるということに気づくことになるのではないだろうか?」

 それを感じた時、

「旅立ったその場所に戻ってきた時は、自分だけが辻褄が合っていると思っているが、まわりは、先に進んだ本人に対して、理由は分からないが、何かおかしいということを感じるに違いない」

 と思うだろう。

 しかし、逆に。

「未来で過ごした分の時間を差し引いて、つまり、最初に未来に飛び立って、着地した時間差を覚えていて、過去に戻る時、その時間差だけ戻るという風にすれば、未来での時間、つまりは、自分の寿命というものの終わりを狂わさないという意味でいけば、果たして、どのような感覚になるのだろう?」

 と考えると、

「自分の中で辻褄が合っていると思うのだが、少なくとも、現代において、過ごすはずの人生が、抜け落ちている」

 ということになる。

 だから、身体や時間ということの辻褄は合っているのかも知れないが、精神的な空洞が存在していることに間違いはなく、身体が分かっているだろうから、精神的にも何かおかしいと思うのだが、その理屈が分からない。

 たぶん、

「記憶が抜け落ちている」

 と感じるのではないだろうか?

 ただ、それは、普段からあり得ることで、

「いつも記憶があいまいに感じられる時がある」

 と思うのは、偶然というわけではなく、時間というものへの歪みを、自分が経験することで、理屈に合わせようとしているのではないか?

 と感じると、

「未来で少しの間、時間を使ってしまった」

 ということで、過去に戻る時、

「同じところに戻ってはいけない」

 と感じるのか、

 それとも、記憶に矛盾が生じるはずなので、

「同じ場所に戻らなければいけない」

 ということになるのか?

 それが問題なのであった。

 そもそもの、タイムパラドックスというものを考えてみることにしよう。

 タイムマシンを作って過去に行き、そこから戻ってくる場所というのは、まず現在に戻るということになるだろう。

 未来に行った時のような、

「未来で過ごした時間」

 というような発想が出てこないだろう。

 理屈でいえば、

「過去に戻ろうが未来に戻ろうが、自分がその世界で過ごす時間ということには変わりはないので、寿命が絶対的に決まっているのだとすれば、寿命を中心に考えると、絶対に、旅立った時間よりも、だいぶ先に戻る必要がある」

 と考えるようになるだろう。

 そこで考えたこととして、

「じゃあ、例えば別の時代で、過ごした荷が1か月だったとしよう。そして戻ってきた場所を、飛び立ってから、一か月後だったとした場合。もし、自分の寿命が、本当は、判隙も無かったとすれば、どうなるのだろう?」

 という考え方だ、

 一つだけいえることとして、

「未来に行って、未来の自分を探しても、どこにもいるはずがない」

 ということである。

 もちろん、それは、

「未来に行って、過去に戻る」

 という発想であるから、少なくとも、最初にいった未来というのは、

「半月以上先でなければいけない」

 ということになる。

 だから、そこで一か月いて、そこから一か月前に戻ってきて、それが、未来でなければいけないということであれば、未来に自分がいないということは当たり前のことであった。

 さらに、もう一つ言えることは、

「自分が旅立つ先というのは、これから行く場所で、その時間差よりも長いということは許されない」

 といえるのではないだろうか?

 それは、飛び立った自分が本当は戻るはずは過去なのに、理屈としては、過去になるはずのものが、未来になってしまったということで、まるで、

「タイムパラドックス」

 というものを描くことになる。

 そんなことを考えると、

「未来へのタイムトラベル」

 というのは、過去にいくよりも、かなり制約が厳しい」

 といえるのではないだろうか?

 過去にいって、タイムパラドックスを起こしてしまえば、取り返しがつかない」

 と言われるが、実際には、

「未来に行く」

 という方が、

「タイムパラドックス」

 というものも存在していて。さらに制約があると考えると、本当に恐ろしいと考えても不思議はないだろう。


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