スケルトン・ナイトホークス
木古おうみ
上
俺とケヴィンはコインランドリーで靴下を盗むときも、深夜の宝石店に忍び込むときもずっと一緒なのに、他人からは独りに見える。
緑色の闇がどろりと垂れ込める店内で、俺は金庫の鍵と悪戦苦闘していた。
目元と指先以外肌を一切露出していないせいで、服に染み込む汗と熱気の逃げ場がない。何も着ていないケヴィンが羨ましくなったが、そうなりたいとは思わなかった。
「ヘアピン」
俺が背後に手を差し出すと、幽霊でもいるかのようにヘアピンがふわりと浮いて俺の手の平に落ちた。書類が積み上がる机の上から声がする。
「危なかったな、ロウ」
「今も危ねえよ。空き巣の真っ最中だぞ」
「あと二センチ手を後ろに出してたらおれのタマに触れてた」
俺はヘアピンを握り込んだ右手を闇雲に振るう。ケヴィンの悲鳴が聞こえて、机上の紙束がバラバラと落ちた。
やるべきことを終え、俺たちは宝石店を出る。目出し帽とサングラスを外し、盗んだものを詰めた青いビニール袋を持てば、路地裏にゴミを捨てに来たノマドのふりができる。
「楽な仕事だったな」
俺はケヴィンの声を無視して破れたビール瓶が散らばる路地裏を進む。新聞紙をかけて眠り込む浮浪者を跨ぐと「こんなんでもまだ生きてるぞ」と怒鳴られた。
ケヴィンの声だけが耳元で聞こえる。
「無視しないでくれよ」
俺は仕方なく声を潜めて言った。
「まだ話しかけるなよ。俺がひとりで喋ってるみたいだろ」
「大丈夫だって。みんなシャブ中だと思ってくれる。痩せてるし、顔色が悪いし……」
最近、見えなくても的確にケヴィンの脇腹に肘を打ち込む術を覚えた。硬い腹筋と肋骨の感触と、くぐもった呻き声が正解の合図だ。
俺は足早に路地を出て、車が行き来する夜の通りへと踏み出す。俺の隣の左隣に、スタンプを押したように足跡が次々と並んだ。
「おい、ケヴィン。水溜りに足を突っ込んだだろ。足跡がついてるぞ」
「やっと答えてくれたな?」
「馬鹿か!」
客引きの女が俺たちを怪訝に睨んだ。しまったと思い、俺は走り出す。間隔が短くなった足跡と笑い声が俺を追いかける。幽霊に取り憑かれてるみたいだ。
007のリバイバル上映を喧伝する映画館や、ホッパーの絵のようなコーヒーショップを横切って、停めておいたキャンピングカーに飛び込んだ。隣に滑り込んだケヴィンの白い呼気だけが存在を示していた。
「寒かったな。冬に全裸は堪える」
隣の席で毛布がくるくると虚無に巻きついた。ケヴィンは戦利品を見て満足げに頷く。見えなくても頷いたとわかった。
「透明人間と鍵開けの天才、最高のコンビだ」
「警察にとっては最悪だろうな」
ガラクタだらけのキャンピングカーにケヴィンの笑い声がこだました。
映画館から盗んだチラシでダイヤモンドを包みながら、冬の新作に目を通す。映画がなければケヴィンとコンビを組むこともなかった。
透明病。本当はもっと小難しい病名がついている、数年前から流行し出した奇病だ。
ウェルズの小説のように、急に人体が透明になり、誰からも視認できなくなる。見えないのをいいことに犯罪を繰り返したり、強盗集団に雇われに行く患者も増えた。今じゃ罹患イコール犯罪者レッテルを貼られる。まだ何もしていない奴ですらも。
俺が来る日も来る日も老人ホームから大量にリネンが送られてくるクリーニング工場で、食べ物の汁や吐瀉物がシーツを選り分けていた頃だった。
休憩時間に外の喫煙所に行ったら、火のついた煙草が浮いていた。間抜けな奴だ。
俺に気づいた透明人間が殴りかかってくる前に咄嗟に洗剤をかぶせた。スケルトンは緑のヘドロモンスターになった。
フローラルの匂いを漂わせる透明人間は奇襲を諦めたらしく、たまに口から洗剤を吐きながら身の上話を語った。
少し前までこの工場に努めていたが、透明病に罹ってクビにされたこと。工場長の帳簿の誤魔化しの罪をなすりつけられて逃亡するしかなくなくなったこと。いっそ本当の犯罪者になってやろうと復讐に訪れたこと。
透明人間はこの工場の奴らは全員クズだと泣いた。涙が流れるたび洗剤がドロドロ落ちた。俺は社用車を洗うホースで洗剤を落としてやりながらわかるよと答えた。
俺もちょうどどこかの馬鹿と付き合って腹を膨らませた工場長の娘に、こいつにやられたと嘘をつかれたばかりだった。
一緒にやろうかと持ちかけたのは俺の方からだった。さっきまで泣いていた透明人間は急に元気に喋り出し、復讐を終えた後の逃避行や、銀行強盗をして溜めた金で逃げる場所の算段まで始めた。
「相棒、おれのことはケヴィンと呼んでくれ!」
そう言って、透明人間は見えない手を差し出した。
「インビジブルのケヴィン・ベーコン?」
「知ってるのか? おれたち最高のコンビになれるぜ!」
抱きつかれて、見えなくても体温があることを知った。俺たちはお互いの相手を交換してやるべきことを終えてから街を出た。
狭いキャンピングカーを走らせながら、車窓に映る流線形の夜闇とモーテルの灯りを眺める。
隣に座るケヴィンはホットチョコレートを啜っていた。さっき食べたばかりのベーグルと混ざり合って、座席の中央にどろどろした塊が蠢いていた。
「飯食うときは何か羽織ってくれよ。気色悪い」
「人体の神秘展が無料で見られるんだぞ。感謝してほしいね」
「お前の血液、赤血球も透明なのにどうやって酸素を運んでるんだ」
「そういうのは学芸員に聞いてくれて」
ケヴィンがホットチョコレートを啜ると、顔の横で白いカップが上下する。対向車の運転手に見られる前に、俺は空の紙コップをひったくった。
俺はコーヒーを一口飲んで煙草を咥えた。
「宝石は一度に売れないな。足がつく」
「こんなにあれば大金持ちなのに、またバイト生活か」
「働くのは俺だけだろ」
俺たちは昼間は別々に行動していた。俺は退職後、キャンピングカーで各地を巡る高齢労働者のノマドたちに混じって日雇いの仕事をする。ケヴィンは盗みに入る場所の下見をするか、車内で漫画を読んでいるか。
仕事の量としては俺の方が割に合わない気がするが、ケヴィンは昼間は外を歩けないから仕方ない。
俺は煙草の灰を紙コップに落とす。
「クリスマスが近いからAmazonの工場で働き手を大量に募集してるはずだ。去年と同じところには行けないな。面が割れると厄介だ」
「身体があるって大変だな。一緒に盗みに入っても監視カメラに映るのはロウだけだ」
盗みに入るとき、目出し帽やサングラスで完全に皮膚を覆い隠すのはケヴィンの案だ。アメリカ中で身を隠している透明病の患者の誰かの仕業だと思い込ませれば、警察が俺に辿り着くのが遅くなる。
ケヴィンが俺のスマートフォンをこちらに向けているのに気づいて、おれはブレーキ代わりにケヴィンの足を踏んだ。
「何してんだ」
「ロウ、動画の投稿ってどうやる?」
「何考えてんだよ」
「足を洗ったらYouTuberで食っていこうかと思ってさ。透明人間がマクドナルドを完食して腹の中でどうなるのか見せるの、受けそうだろ」
「もうやってる奴がいる」
ケヴィンは見えない肩を落としてスマートフォンを置いた。
夜は俺たちの時間だ。
ケヴィンは無人の通りを見回して嬉しそうに呟く。
「夜はいいな。アスファルトが冷えてる。夏に裸足で歩くと火傷するんだよ」
「冬なら昼でも外を歩けるだろ」
「人通りが多いと駄目だ。肩がぶつかってすぐバレる。せっかく透明なのに美人の乳を揉むこともできない」
俺たちは他に客がいないことと監視カメラがないことを確かめてからコインランドリーに入った。
洗濯機の駆動音と懐かしい音楽だけが響いている。何処かのスーパーマーケットから持ってきたらしきショッピングカートに作業着が積まれていた。
俺は洗い終わった洗濯物から盗んでもバレなさそうなシャツを取り出した。
ランドリーは古く、何処かの洗濯機のパイプが漏れているのか、床は泡だらけだった。近くのモップで泡を避けてから俺はラズベリー色のスツールに座った。
ケヴィンは隅の本棚から漫画本を取り出して読み始める。濡れて蛇腹状になった本が宙に浮いた。
金髪で筋骨隆々の男が快活に微笑んでいる表紙が歪んでいた。マーベルヒーローのようだが、日本の漫画らしい。
ケヴィンはページを捲って呟いた。
「やっぱり逃げるなら日本がいいよな。ヘンタイとオタクの国だ。透明人間が好きな女の子もきっといる」
「そんな都合のいい奴がいるかよ」
「夢のないこと言うなよ。世界は広いんだぜ」
ケヴィンは漫画本で顔を覆った。
「絶対どこかにいる。いなきゃ困る。このまま一生美人にキスもできずに死ぬのは嫌だ」
「透明人間ならいくらでもできるだろ」
「おれがほしいのは身体じゃなく心なんだよ」
「自分の身体もないくせに」
「見えないだけであるさ!」
大声に応えるように洗濯機が唸った。ケヴィンは勝手に俺の胸ポケットから煙草を取り出して咥えた。
「ロウがいてよかった。おれなんかと一緒にいてくれるのはお前だけだ。お前がいなきゃ寂しさでイカれてた」
「とっくにイカれてるよ、お前は」
俺は自分の煙草に火をつけてからケヴィンの煙草に火をつける。二人分の煙が流れた。
「……おれはさ、透明病になった頃、これで何かいいことができないかって思ったんだ」
「いいことって?」
「わかったらとっくにやってる。とにかく、普通の人間と違うんだぜ。ヒーローみたいなことができるかもしれないだろ」
「今の俺たちはどう見たってヴィランだろ」
ケヴィンは声をあげて笑った後、急に静かな声で言った。
「ヒーローでも、ヴィランでも、誰かがそう決めてくれるならいいよ。何処にも存在できない透明人間よりずっといい」
俺は返す言葉が見つからなくてフィルターを噛む。
「……お前は俺の相棒だ。俺たちでそう決めただろ」
俺の背中を叩く手は影も形もなかったが温かさだけはあった。
ラジオから流れる緩慢な音楽が途切れ、ちょうど一斉に洗濯機が回転を終える。
時間が止まったような静寂の中、ガチャリとドアを開く音だけが鮮明に響いた。傾きかけたトイレの扉から学生らしいニキビ面の青年が顔を覗かせていた。視点は俺の隣で宙に浮く煙草に注がれていた。
まずいと、咄嗟にケヴィンの煙草を叩き落としたがもう遅かった。
「透明病だ!」
青年が甲高い声で叫び、スマートフォンを耳に当てる。ケヴィンの表情は勿論見えないが、喉から絞り出した細い息で焦りが伝わった。
青年はスマートフォンに叫び続ける。
「警察ですか? 早く来てください! 犯罪者が……」
俺は洗濯物が積まれたショッピングカートを蹴り飛ばす。真正面からカートの突撃を食らった青年はスマートフォンを落として転がった。俺は錆びついた鉄の洗濯カゴを振り上げる。
「犯罪者ってのはこういう奴のことを言うんだよ」
青年の丸めた背中にカゴを振り下ろそうとしたとき、真横から腕を払われた。手元が狂い、泡だらけの床に落ちた洗濯カゴは青年の顔の横を掠めただけだった。
俺は襟首を掴まれ、パントマイムのように店内から引きずり出された。店内の明かりと微かな駆動音が遠のいた。
コインランドリーが見えなくなるところまで逃げてから、俺はケヴィンの手を振り払った。
「何で邪魔しやがった」
「何でだろうな」
俺は目測を定めてスニーカーの爪先を上げる。ケヴィンがぎゃっと叫んだ。
俺たちは無言でキャンピングカーまで移動し、藍色の空を映す駐車場を眺めながら煙草を吸い直した。等間隔に並ぶ電灯の光が路面に反射して、オレンジの河が流れているように見えた。
ケヴィンが吐き出す煙が歪んだ。
「誰にも見えないなら、何処で何をしたって見えないふりをしてほしいなあ……」
俺は何も言わずに盗んだジャケットの襟を硬く閉めた。
キャンピングカーの座席を倒して並んで眠る。狭くて物だらけの車内にケヴィンのいびきが反響した。
見えなくても毛布の膨らみから、俺と同じで朝日から逃げるように背を丸めているのがわかった。
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