第2話

 レネはミハルと少しばかりの荷物を城の二枚扉の中に押し込み、適当な仕草で手を振ると「さあ仕事は終わり」と言わんばかりにあっさり馬車に乗って去っていった。

 ここから一番近い街には今から向かって夕暮れ時には到着する。酒好きのあの男は、きっと今夜はそこで酒盛りでもするのだろうと想像しながら、ミハルは鼻をひくつかせた。

 堅牢な二枚扉から中に入ると目の前に広がるこの城の玄関は、壁にいくつかの燭台と何だか憂鬱な色味の絵画があしらわれ、床はダークカラーのカーペットが敷き詰められている。それが黒いのかと思ったのは石造りのこの城自体が冷たく薄暗いからのようで、ミハルが屈んで触れてみると思いの外ゴワゴワとした感触で青みがかっているのがわかる。

 この玄関だけで昨日の宿屋の受付の倍近くの広さがあるなとミハルは思った。

 宿屋を連想したのは、玄関の両サイドに、二階に上がる階段が壁に沿うようにして弧を描いていたからだ。吹き抜けを見上げるとその先には廊下といくつかの扉があり、その作りが少しその宿屋に似ていた。もちろんこの城の方が圧倒的に堅牢で広さがある。

 ミハルは足元に置かれたほつれた頭陀袋を肩にかけ、使い古された皮の鞄を抱えた。ミハルの荷物はそれだけだ。

 また顔を上げ正面をむくと、玄関の扉と向かい合うような位置に、これまた大きな二枚の扉が立ちはだかっている。

 僅かに開いたその扉に、ミハルは静かな足取りでカーペットを踏み締め近づいた。

 ゆっくりと片側の戸を押すと、蝶番が甲高く呻くような音を鳴らした。

 室内はやはり薄暗い。正面にあるいくつかの窓から陽の光は入っているが、部屋の灯は灯されていないようだ。

 左手には立派な暖炉(まだ季節柄火は灯っていないようだ)と、その前に凝った柄の絨毯が敷かれていて、一人がけの椅子と大きなカウチが並んでいる。

 壁に飾られたどこか山間の風景や動物を描いた絵画、タペストリーが埃をかぶってくすんでいた。チェストや棚などの上には雑然と物が置かれていて、決して片付いているとは言えないが、散らかっていると言うよりは生活感が感じられると表現する方がしっくり来るだろう。

 右手にある慎ましやかな丸テーブルの脇には椅子が二脚並べられていて、一脚は使っていないのか、座面に本が積み上げられていた。そしてテーブルの上にはこの部屋の主人が食事をとっている途中だったのか、硬そうなパンとナイフの刺さったハムの塊が木製のプレートの上に豪快に置かれている。

 こんなに広い城だと言うのに、まるでこの部屋だけに主人の生活が集約されているかのようだとミハルは思った。

 そして、ふと窓前の大きな影が揺らめき、ミハルははっと息を止めた。

 逆光でその表情は伺えないが、そこにいるのはこの城のあるじであるライニール・クライグだろう。

 ミハルは足元に荷物を置き、両足を揃えると腹の前で両手を重ねた。

「ライニール様。受け入れていただきありがとうございます。西の魔女の命により、本日よりこちらにて奉公させていただきます。名はミハ……」

「うるせぇ」

「……はい?」

「名乗るな。うるせぇ。どうせ、俺がお前の名など呼ぶことはない」

 窓辺の逆光の中から低い声がミハルに届く。喉を震わせて唸るような気配の後で、声の主は一歩前に歩み出てその姿をミハルの前に晒した。

 やはり、でかい。とミハルは息を飲んだ。また無意識にその手は頸を抑えている。

 目の前に現れた歴戦の英雄ライニール・クライグは、広い肩と衣服の上からでもわかる隆々とした筋肉を持ち合わせた、まさに戦士たる体型だ。

 暗闇に紛れそうな黒髪は前髪が長く鬱陶しいのか豪快に掻き上げられ、長髪ではないが後ろ髪が逞しい首筋を這っている。雄々しい鼻筋と漆黒の瞳をはらんだ眼差しをさらに印象付ける形のいい眉は今は中心に寄せられて眉間に皺を作っており、口角は真横に結ばれ、不機嫌に歪んでいた。

 獣人は年齢がわかりにくい。その多くは死の直前まで若々しい姿を保っているからだ。多分に漏れず、ライニールも、そしてミハル自身も人で言えばおおよそ成人を迎えた年頃の見た目をしている。

 名など呼ばぬと言われたミハルは少し考え、そして頷いた。

「承知しました。問題ありません」

「チッ」

 ライニールの口元が歪み、音を鳴らす。

 その眼はいっそう細まって、睨みつけるようにミハルを見下ろした。

 ライニールが進んだのはたった数歩だったのだが、それでも歩幅の広い彼はミハルとの距離をかなり詰めていたようだ。加えて体が大きいせいで必要以上に威圧感を放っている。ミハルは浮かび上がる脂汗を拭いながら、表情は必死に平静を装っていた。

「一通りのことはできますので、何でもお申し付けください。掃除、洗濯、それから……料理」

 言った後で、ミハルはテーブルの上の硬そうなパンとナイフの刺さったハムを見た。しかしまた舌打ちが聞こえ、慌てて首を正面に戻す。ミハルの視線はライニールの顔を直視することはできず、ちょうど彼の胸元あたりに置かれている。

 唐突にゆらりと目の前の大きな躯体が動き、ミハルは咄嗟に身構えた。しかし、兎が狼の眼前で如何に身構えようとも、それはほとんど意味をなさない。ライニールの大きな手がミハルの左の二の腕を掴みその動きを制すると、もう一方の手がミハルの皺のよったシャツの裾を掴み乱暴に引き上げた。

 ミハルは悲鳴すらもあげられないまま、その体は呼吸を忘れて硬直する。

 ライニールは引き上げたシャツの隙間から覗くミハルの腰骨のあたりを一瞥すると、心底不快だと言うようにさらに表情を歪ませた。

 ミハルの白い肌のその部分には烙印が押されている。

「卑しい罪人が、俺に施しをしようなど、気に食わない。反吐が出る」

「しかし、これは魔女に命ぜられた懲罰ですので」

「チッ」

 また舌打ちが聞こえ、その後投げ捨てるようにライニールはミハルの体を手放した。

 危うく崩れそうになった体をミハルは半歩後ろに足を下げ、転ばぬようにとバランスをとる。

「これは誰への罰だ? 俺ではなくお前の罪に対する物だろう?」

「はい、おっしゃる通り。ライニール様は先の戦でお心を痛め、今も当時の記憶に苦しんでいらっしゃるとお聞きしました。卑しき咎人の身でありますが、こちらに支え、そのお心を癒すようにと仰せつかっております」 

 ミハルの言葉をライニールは鼻で笑った。

「俺に支えることが、懲罰とはな」

「……はい」

「あの、クソババア」

 クソババアとは西の魔女のことだろう。ライニールは戦争の英雄だ。口ぶりからして魔女と直接の面識があるようだった。

「英雄にはαアルファの勲章、罪人にはΩオメガの烙印。そして、罪人は英雄の元へあてがわれ、主の赴くままに奉公するのが慣わしです。それは、ライニール様もご存知かと思いますが」

「うるせぇ」

「はい」

 ミハル頷きながら唾を飲んだ。表情は変えず、恐怖は奥底に押し留めた。

「その顔で喋るな。イライラする」

「わかりました。ですが、最初にいくつか確認し……」

「黙れ!」

「……」

 ミハルは慌ててパクリと音を鳴らしながら下唇を噛み締めた。



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