ウルフの食卓

teo

古城の狼

第1話

 喉奥が締まり、耳の後ろが冷たく痛む。

 本能的な恐怖を感じ、ミハルは右手の親指と小指以外の三本の指先で自らのうなじを撫でて息を吐いた。

 この行為はミハルが西の魔女から与えられた幾つかの慈悲の一つであるまじないだ。気休め程度だと聞いていたが、ミハルには案外効果があるようだ。

 喉が緩み後頭部の痛みは消えて、ミハルは薄い唇から静かな息を吐き出した。

 体が震えるほどの恐怖は薄れても、どこか理性的な頭の中に「怖いな」と明確な文字が浮かぶ。

 今、目の前にいるその男はミハルの顔を見たとたん眉を顰め、その漆黒の瞳に明らかな不快感を浮かべた。

 男は歴戦の英雄だ。

 昼間だと言うのに薄暗い石造りの室内で、英雄の羽織った黒いガウンに施された金のパイピングが幅の広い外形を浮き彫りにさせていた。

 英雄の身丈はミハルが爪先で立ち、手を伸ばしてやっと頭に届くほどだ。ミハルがやや小柄であるという事実もあるが、加えてその英雄が大きいのだ。

 先ほど睨み付けられて以降、ミハルが未だ直視できない英雄の口元が犬歯をのぞかせ、もう一度低く唸るように言葉を発した。

「さっさとそいつを連れ帰れ」

 その覇気はまるで風を巻き起こしそうなほどだった。

 実際には起こっていないその事象から身を守るかのように、ミハルは英雄と自分の間に立つもう一人の男の背中にさりげなく身を隠した。

「まあまあまあまあ! ご冗談はさておいてっ! そ、それで、説明の続きですが……頃合いを見て頸をカブっとやっちゃってくださいね? そうしたら簡単には逃げ出せなくなりますんで。あ、でも間違って食べちゃダメですよ? きっとそんなに美味しくないでしょうしっ……なぁんてっ、あははは……ははっ……」

 この場をやり過ごそうと必死に言葉を繋ぎ、ミハルの前に立つのはレネという男だ。

 ミハルはついひと月ほど前に初めてレネに会った。レネは癖のあるブラウンの頭髪を後ろへ流し、それと同じ色の瞳で軽薄に微笑む掴みどころのない男だ。

「あ? 冗談じゃねぇ、さっさと連れ帰れって言ってんだ」

 凍てつくような英雄の声が、ミハルとレネに降り注いだ。

「えっと……い、いやいや! ライニール様! 事前にお話しはしてあったでしょう? 男だと言うことも説明してあったはずで」

 レネは常に愛想の良い笑顔を浮かべているが、それは彼が穏やかな人柄であるというわけではなく、おそらくもともとそういう顔なのだ。だからレネは言葉と表情が整合しないことが多かった。

 今もレネは声を震わせ、自らの正当性を主張しているが、おそらくその顔は笑っているのだろう。

「うるせぇ! 男だとか、そう言う問題じゃねぇ!」

 英雄は語調を強め、奥歯をぎりりと鳴らした。

 英雄の名はライニール。

 ミハルはレネから聞かされ、英雄の名を知っていた。

「とにかくそいつはダメだ、失せろ」

 とライニール。英雄というのに、ライニールはまるでならず者のような口振りだ。

「いや、しかしライニール様! このならわしは西の魔女のご意向でもありますので、そう易々と……」

「だったら他のやつにしろ! チェンジだ!」

「チェンジって、あなた……いったい彼の何がダメなんです?」

 言葉を途中で遮られても、レネは食い下がった。

 正直なところ、ミハル自身は早くライニールの元を立ち去りたかった。そんなに嫌だと言うなら無理に受け入れてもらわなくてもいいと、そう思った。

「何がダメかって?」

「はい、可愛いうさちゃんですよ? うさちゃんは人気がありますからね、希望を出す方だっているんです。まあ、ほとんどは魔女が気まぐれで決めるので、希望は通りにはいかないこともありますけど」

「チッ」

 ライニールは聞こえよがしに、大きく舌打ちをした。

 恐る恐るレネの背中からミハルが目元を覗かせ見上げると、ライニールの苛立ちに満ちた瞳がこちらを睨み付けている。

「ダメだ、顔がダメだ」

「え? か、顔……? 傷もないし、可愛いと思いますけど、趣味じゃないとかそういう……」

「とにかくダメだ! 帰れ、去れ、失せろ、殺すぞ」

「ひっ!」

 レネの肩がびくりと震え、つられてミハルも体を丸める。

 そこから数分言い合って、ライニールが三度目の舌打ちをしたあたりで、ミハルはレネに「外で待っていてください」と言いつけられた。

 ミハルは言われるがまま一人その場を離れ、古城の大きな二枚扉をその体で押し開けた。先にある繋ぎ目に苔を蓄えた石階段を下まで下り、少し湿った最下段に腰を下ろす。

 城内ではまだ、ライニールとレネの押し問答が続いていた。


 城の前には開けた野原が広がり、午後になったばかりの今は、穏やかな日差しを集めて黄金の草木が輝いている。

 しかし、なぜか灰色の石造りのこの城は、湿気をはらんで苔むしていて、どこか陰鬱な雰囲気を放っていた。

 長閑のどかな気候のこの地は魔女の住まうセントラルから、馬車で十日もかかる距離だ。

 魔法が使えればそれほどでもない距離らしいが、ミハルもレネもただ地道に地を踏むしか移動の術を持たない身だった。

 レネがあんなに必死に食い下がるのは、この長い道のりを無意味なものにしたくないのだろう。それはミハルとて同じことだ。十日も馬車に揺られて尻は痛むし、腰は軋む。同じ時間またあの乗り心地の悪いシートに座って過ごすことは、ミハルの望むところではない。

 かれこれ二十分ほど経つが、まだレネは古城から出てこない。

 ミハルは手持ち無沙汰で周囲を見渡し、階段脇の植え込みに落ちた木の枝を一本摘んでみる。それで地面を引っ掻くが、ガリガリと音がするだけで何一つ楽しくはないのだ。

 立ち上がって古城を振り返る。

 ライニールはこの城にたったひとりで住んでいるとミハルは聞いていたが、それにしては持て余す広さの城だ。使用人が少なくとも三十人はいないと管理できないように思われた。

 案の定、あまり手入れが行き届いていないのか、ここから見える窓は埃で黄ばみ、石壁にはあらゆるところに雨垂れが跡を残している。城の周囲の植え込みには、とっくに枯れたいくつかの低木以外は何も植っておらず、ただ苔を帯びた土が敷き詰められていた。

 目の前の草原と城を隔てるように施された馬車がかろうじて通れるほどの石畳は、ところどころひび割れて陥没しており、そこここに水たまりを作っている。

 ミハルは地面を枝で擦りながら、その水たまりの前でしゃがみ込んだ。

 水たまりに映り込むのは晴天の空を背景にした自らの退屈そうな表情だった。

 耳が隠れるほどの長さのミルクティー色の柔らかい髪は、対輪の辺りでくるりと弧を描いた癖毛だ。栗色の瞳、白い肌に、ご機嫌に上がった口角と先端がツンと上がった慎ましい鼻筋と薄い唇。華奢だが骨格はきちんと男のものだ。その顔の作りがどこか愛らしさを感じさせるのは、おそらくミハルが「兎」の獣人に属するからだろう。

 太古の昔の魔女の気まぐれで、この世界には獣の属性を持つものが存在することとなり、今もなお、遺伝によって引き継がれている。

 獣の属性を持つ獣人たちは、三角の耳や尻尾が生えているわけではなく、外形的には何の属性も持ち合わせないただの人と同じである。しかし、彼らはどこかにその獣を彷彿とさせる体質や雰囲気を持ち合わせていて、何故か言わずとも、誰がどの獣の獣人なのかを何となく感じ取ることができるのだ。


 穏やかに吹いていた風がちょうど束の間凪いだ時、ミハルの背後で重たい二枚扉が軋んだ音を鳴らした。

 振り返ると開いた隙間からレネが這い出すように身を捩っていた。

 ミハルは立ち上がり、石階段の上のレネを見上げる。レネはミハルを見つけると跳ねるような足取りで階段を降りてきた。

「いやいや、よかったよかった。ライニール様は快くお引き受けくださったよ」

「こころ……よく?」

 レネの言葉に、ミハルは眉根を寄せて首を傾げた。少し唇を持ち上げたミハルのその仕草をみて、レネは「兎が草を喰む時に似ている」などと言って笑った。

「殺すぞって言ってませんでした?」

 ミハルのその言葉を掻き消すように、レネはカラカラと笑い声を上げ、ミハルの肩を大袈裟な仕草で二度叩いた。

「まあ、あれだ。英雄ライニール・クライグ様は貴方の身を案じたようですね。その……ほら……」

 言いながら、レネは足元からミハルの姿を確かめるように視線を上げていく。

 ミハルは安皮のブーツに、ゴワゴワとした素材のベージュの下履き、皺がよって所々ほつれて黄ばんだシャツを着ている。上着がわりに肩にかけて胸元で手繰り寄せているのは、馬車のシートのカバーとして掛けられていてたモスグリーンの布切れだ。

「いたいけなうさちゃんのことを……」

 そこでレネは言葉を濁す。「いたいけ」などと言っているが、おそらくライニールは「貧相だ」とでも言ったのだろうとミハルは思った。

「俺が兎だから、あんなに嫌がったんです?」

 ミハルが問うと、レネには一度左上に視線を滑らせた後、肩を持ち上げながら答えた。

「まあほら、彼、狼だから。食べちゃわないかって心配なんじゃないですかね」

「食べっ……え、それ、は、物理的に?」

「……ええ」

 先ほど薄闇でチラついたライニールの犬歯が頭に浮かび、背後が冷たく粟立ったミハルは、また指を三本頸にあてがい、ゆっくりと息を吐いた。

「……まあ、それは冗談として」

「冗談なんですか」

「そうですよ、ほんとに食べるわけないじゃないですか」

「はぁ……」

 レネはいつも飄々とした笑顔を作っているせいで、ミハルには彼の言葉が冗談なのか本気なのかいまいち判断がつかなかった。

 からかわれたと気づいたミハルは、少しばかり不機嫌にまた眉をよせて口を尖らせた。

「まあ、しかし、注意してくださいね」

 そう言って、レネはミハルの肩に腕を回し引き寄せるとその耳元に口を近づけ左手を添えた。

「英雄ライニールは爵位を断りこんな片田舎のカビ臭い城を貰って引き篭ってる変人です」

「はぁ……」

「噂じゃ、恋人を失ってからめっきり心を閉ざして人を寄せ付けないらしい。気難しすぎて使用人すら逃げ出すほどだそうですよ」

「うーん……」

 ミハルはまた屋敷を見上げる。雨垂れの窓の向こうの埃まみれの部屋を想像して憂鬱な気分になった。

「レネさん」

「うん?」

「それ、道中で教えてくれなかったですね?」

「え、だって、ほら、先に聞いちゃったら、憂鬱になっちゃうでしょ?」

 また飄々とした様子で言ったレネに、ミハルは「まあ、確かに……」とその目を細めて項垂れた。

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