第35話 サイコロを振って同じ目が何度も出るようなことよりもずっと
運ばれてきた夕食は二人分であった。
どうやらホセ氏が城内で色々と調整してくれたらしい。
ロベルト王子の従者であるホセ氏は、王宮の使用人居住階を住処としている。
味方が近くにいるというのは、思った以上に心強いな。
「……ミヤ。俺の部屋に来る前、茶屋でホセとなんか話してたけど。ホセの言うこととか、気にしなくていいから」
食事中、ポツリとライナス王子が呟く。
ライナス王子の手元のスプーンは、先ほどからほとんど口に運ばれていない。食べが悪いな。
さすが王宮といった、豪勢な食事であるというのに。
「今日はホセに、ミヤの食事の用意とかやってもらっちゃったけど。何とでもなるからさ。それにホセがミヤの居場所を密告したところで、兄貴を俺の部屋に入れなければいいだけの話なんだから」
ぐるぐるとスープをかき混ぜながらライナス王子が話を続ける。
既に生ぬるい温度であるというのに、これ以上冷ましてどうしようというのか。
「なんならさ、兄貴の新婚約者が決まるまでなんて言わないで、ずーっとずーっと俺の部屋で暮らせばいいよ。好きなことだけしていればいい。何でもしてあげるし、何でもさせてあげる」
ライナス王子が笑う。しかしその顔はどこかぎこちない。
優しさを示そうと緩められた眉が、しかし笑顔に添えられるような形ではなく。
困り顔によく似合う、下がり眉になっている。
「前、ミヤ言ってたよね。数学をやるために大学に入ったって」
――言ったというか、吐かされたと言うか。
ライナス王子と交流を始めた直後のことだ。
図書館で声を掛けられて、平民でありながら国立大学に入学した経緯を根掘り葉掘り喋らされたんだったな。
今となっては懐かしくすら感じる。
「数学、いくらでもやればいいよ。国中の本を集めさせるし、教授の特別授業をこの部屋で開催してもいい」
「……それは、魅力的な提案ですね」
「でしょ!? だからさあ、」
「けれども、ライナス王子、私は――」
――ああ、そんな顔をさせたいわけでは、ないんだけれどな。
「……なんで今回に限って、流されてくれないの」
ライナス王子がスプーンを手放した。カラン、と皿とぶつかり音が響く。
「兄貴の命令には毎回、流されて言いなりになってたのに。それとも、俺もミヤに命令すれば、流されてくれる?」
「ライナス王子、」
「ねえミヤ、なんで? なんで俺だけ駄目なの」
「駄目ではないのです、ライナス王子。私は、ライナス王子だからこそ……」
ライナス王子が顔を伏せた。黒と紫色の前髪に隠され、表情が分からなくなる。
言葉が届いていかない。
何を言うべきだろうか。
少なくとも今の話を続けたところで、ライナス王子が私の声に耳を傾けてくれることはなさそうだ。
……何も聞きたくない、という状況。
私も覚えがある。
「私の母は……、私を産んだ際に、亡くなったんですけれど」
母親の死因。
幼い子どもであった私にとって、それは受け入れ難いものであった。
他の子どもには当たり前に存在する『ママ』が、我が家にいないのは。私を産んだせいだなんて。
そう考えるだけで、なんだかイヤな気持ちになった。父親の言葉も耳に入らなくなった。
何も聞きたくなかった。
ライナス王子は変わらず顔を下へ向けていた。
食事に添えられたコップに手を伸ばす。冷えた水は喉を潤し、脳味噌をクリアにしてくれた。
うん、これならまだ、話を続けられる。
「分別のつく年齢になったころ、こう思うようになったんです。母親が死んだのは私のせいだ……と」
「……そんなの、ミヤのせいじゃないじゃん……」
ライナス王子から返信があるとは。聞いてくれているんだな。
「ふふ、それ、同じことを言われたことがあります。幼い頃、公園で誰とも遊ばず隅でボンヤリしていたら、知らない少年に声を掛けられて」
あの少年のことは、今でもよく覚えている。
だって、とてもおかしなことを言っていたから。
「……私の母が亡くなったのは、自分のせいだ――って、言ったんですよ。その少年。変なことを言いますよね」
その少年のせいで私の母が死ぬなんて、当然あり得るわけがない。
だってその少年と私の母親は、無関係の他人なのだから。
「意味が分からなくて、苛ついてしまって。そんなわけないって証明してやると思って、でもやり方が分からなくて。図書館に行けば何か分かるはずだと思って、色々な本を読んで――それで、妊産婦死亡率を知りました」
我が国は国立大学内に医学部を有し、医者の育成に力を入れている。
その影響もあってだろう、我が国の医療水準は近隣諸国の中でも割と高い方に類する。
故に妊産婦死亡率――妊娠と関連した原因により死亡してしまった妊婦の割合も、諸外国と比べて明確に低い。
それでも死んでしまったのだ。私の母は。
1%を優に下回る確率を引き当てて、母体死亡例のひとつになってしまった。
「最初は、母の死を『確率』なんてもので語らないでほしいって思ったんですけれど。でも調べれば調べるほど、妊産婦死亡率をゼロにすることは不可能で、そして確率というものは『そういうもの』なのだと、分かるようになりました」
確率が低ければ、起こらない――なんてことはない。
どれだけ医療が発達しても、出産を理由に大量出血する事例をゼロにすることはできない。
そして大量出血する妊婦が何人もいれば、そのうちの何人かが亡くなるのは、どうしようもない。
……それはとても、悲しい話だけれど。
「――例え話ですが。サイコロを十万回振ると、それぞれの値が出る確率は、均等に近い数値となります。けれど、それは……サイコロを十万回振っている最中に、一の目が十回、百回、千回続けて出ることはない、ということを保証しません」
勿論、サイコロを振って十回連続で同じ値が出る確率なんて、妊産婦死亡率よりも遥かに低いけれど。
あり得ない、ではないのだ。
そう、だから。
ライナス王子の女装姿を手籠めにしようと下心満載で近付いた、どこぞの騎士家次男が。
デートを引きこもりの婚約者に見られ、大学退学となるようなことも。
ライナス王子の白紙レポートを、職権乱用し『可』としようとした教授が、狙いすましたかのようなタイミングで逮捕されるようなことも。
ライナス王子を殺そうとした人が、殺意を振りかざした瞬間に聖母アリア像の下敷きになられるようなことも。
ライナス王子の行く手を遮る土砂崩れが、何かしらの超自然的理由により一晩で全てなかったことに、なってしまうようなことも。
全て、確率上、あり得ないことではない。
「――そう分かったとき、少しだけ救われたんです。私の母親が死ぬことは、サイコロを振って同じ目が何度も出るようなことよりもずっと、確率上『あり得ること』でしかなかったんだな、って思って。私のせいでも、ましてあの少年のせいでもないのかもって、数字が教えてくれた気がして」
ライナス王子が少しだけ顔を上げた。
前髪の隙間から見える瞳がぼんやりと光っている。
その瞳を見ただけでは、何を考えているかは分からなかったけれど。
少なくともライナス王子が私の話を聞いてくれたことだけは、確かだと確信できた。
「……でも。数学に救われたからって、それに甘え過ぎていたかもしれません」
確率上、起こり得ないことはないのだから、と。
故に起こってしまった全ての事実を、どこかで『仕方がない』と思っていた、かもしれない。
――その考え方が、幼い私を救ったからと言って。救われたから、その他も全て『仕方ない』だなんて。
そんな風に考えるのは安易であったのだと。今にして思う。
もう私は、子どもではないのだから。
「確率上、あり得ない話ではないから、といって。ロベルト王子との婚約話を、そしてライナス王子の思いに応えることを――『仕方ない』と言いたくはないな、って。思ったんです。だから、」
気付けばライナス王子の頭は元の位置に戻っていた。
表情が全て露になっている。
ライナス王子は私をジッと見つめた後、少しだけ息を吐いた。何かを喋ろうとしているようだった。
言葉が投げかけられるまで待つ。
ほんの数秒、ライナス王子と無言で見つめあう形になる。
「……ね、さっきの話で出てきた少年ってさ。その後、もう一回、会話したりした?」
少年。私の母の死因を、自分のせいだと言った変な子。
「あの後、一回だけ会いましたよ。お礼を言った覚えがあります。あなたのおかげで助かった、って」
「……そっか。そういう意味だったんだ……」
ライナス王子の視線が私から外れ、宙へ浮く。
遠い場所を見ているようだった。
「俺はさ、あの時『あなたのおかげ』って言われて驚いて、でもなんか……嬉しくってさ」
……うん?
「まさか俺の『呪い』が、誰かのためになるなんて、あの頃は思ってもなくて。でもあの後――変な女の子にお礼を言われた後も、実際に俺の呪いで隣国スパイを排除できたわけで。だから、俺の『呪い』は役に立つんだなって思って――」
……ううううん?
「……え、まさか……え、あの子って、」
「うん、俺だよ。周囲の人間やら歴代の従者たちに、お前のせいで『不幸』が訪れたって蔑まれて。この世の不幸はぜーんぶ俺のせいなんだって安易にも思っていた、当時の俺だ」
えええ……!?
「だって、庶民が遊ぶような何の変哲もない公園でしたよ、王子殿下がそんな場所にいるなんて」
「当時の従者が全員辞めて、隣国スパイもまだ俺の従者として手を挙げてない、狭間の時期だったんだよ。王宮を抜け出すなんて簡単だった。鍵のかかった部屋に閉じ込められたこともあったけど、まあだからこそ鍵開けスキルを身につけられたんだよね」
あはは、とライナス王子が笑う。なんだか声色が軽快だ。
「――そっかあ。俺の『呪い』が役に立てば、あの子と同じように、また喜んでもらえると思ってたけど。そうじゃなかったのか……」
ははは、と乾いた笑い声が続く。
ライナス王子の瞳は、何かを悟ったような、或いは諦めたような。
鮮烈さや苛烈さが一切含まれない、緩く柔らかな鈍い光を伴っていた。
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