フォートグレイシア

井ノ上ダイチ

プロローグ

あこがれ

 一枚の紙に描かれているオオカミのような生物のスケッチ。その体表は灰色の鋭いトゲで覆われていて、丸太のように太い四本の脚を雪の大地に広げながら眠っていた。別の紙には似たような見た目の生物が描かれているが、こちらは額に黒い角が生えている。

 その少女は、二枚の紙を見比べながら不思議そうに口を開いた。


「お父さん、これは何?」

「それは魔獣だ。俺の友人が描いたものだ」

「まじゅう?」

「ああ、人間を襲ってくる危ない動物だ」


 父親の言葉に少女は目を丸くする。


「……そんな動物、いるの?」

「いるさ。この街の外、外界フォリスの森や山には危険な動物がいっぱいだ」

「お父さんも会ったことあるの?」

「ああ、父さんは『探索者』だからな」


 少女は黙ってその絵を見つめている。その目に映るのは「恐怖」よりも「興味」の方が近かった。

 

「ねえお父さん、その『たんさくしゃ』になったら、こんな動物に会えるの?」

「お? もしかして興味があるのか? 昔の父さんとそっくりだな」

 

 彼はそう言うと立ち上がり、部屋の奥から大きな麻袋を引っ張り出してきた。その口を開け、中身を取り出す。

 

「お父さんが探索者だったころに使っていた道具だ。ちょっと触ってみるかい?」

「うん!」

 

 麻袋から現れたのは一本のピッケル。柄には大量の傷がついていて、金属部分は赤茶色に変色していた。

 少女はそれを手に取り、物珍しそうに見つめる。

 

「こんなので動物をやっつけるの?」

「はっはっは、こんなので動物と戦えるわけがないだろ? このピッケルは大きな氷を掘ったり登ったりするのに必要なんだ」

「へえ……」

 

 その後も、父親は様々な道具や探索先で見つけた鉱石や植物などを取り出し、外界の様子を語ってみせた。

 

「ねえ、お父さん」

 

 一通り話を聞いた後で、娘は何かを思いついたように口を開いた。

 

「わたし、大きくなったら探索者になりたい!」

 

 その目には隠しきれない好奇心の光が輝いている。

 その様子を見た父親も嬉しそうに笑った。

 

「そうか、それは楽しみだ。でもな……」

 

 彼は娘の頭に手を置くと優しくなでる。

 

「……探索者は命がけの仕事だ。父さんみたいに運良く帰ってこられるとは限らないし、大けがをしたり、命を落とすことだってある。だから……その選択をするなら父さんは止めない。だが、よく考えて決めなさい」

「……うん」

 

 少女は真剣な表情でうなずく。その様子を見た父親は再び彼女の頭を優しくなでた。


「そうだ、これも見せてやろう」

 

 そう言うと彼は袋から筒状の物体を取り出した。その先端には蓋が付いていて、中には丸められた紙が入っていた。

 広げられたそれを見た少女は、思わず目を見開いた。

 彼女を包み込めそうなほどに大きな紙の上には、手描きの木々や雪の大地、そしてそこに立つ多くの魔獣の姿が描かれていた。

 

「……すごい!」

「だろう? 父さんが探索者だったころに作った地図だ。この都市の外、外界の様子が細かく描かれている」

「これが、外の世界?」

 

 少女は目を輝かせながら地図に見入っている。その様子を見た父親は、再び彼女の頭に手を置いた。

 

「そうだ。いつかお前が大きくなったら、この地図に描かれている場所に行って、その目で確かめると良い。父さんが見つけたものや、そこで見た景色をな」

「うん! わたし絶対探索者になる! それでね、お母さんにも色んなものを見せてあげるの!」

「ああ、たくさん冒険しよう! そして母さんにいろんなものを見せてあげような!」

「うん! 約束だよ!」


 父娘は互いの小指を結び合った。二人の顔には、抑えきれない笑みが浮かんでいた。


 

 ◇


 

 安全な居住圏の外――外界、エドルキア凍原。延々と続く凍った大地には生命の欠片すら見えず、まるで時が止まったかのように沈黙を貫いている。

 凍原にそびえる山々、その内の小高い丘の上にひとつの人影があった。

 赤を基調とした防寒具を身にまとい、眼下に広がる、沢山のテントが張られた野営地を眺める少女――ティルア・ナンガ。その片側にまとめられた緋色の髪が風にあおられ揺らいでいる。

 やがて、周囲が明るくなり始めた。視線を遠くへ向けると、眼前にそびえる山々と空の隙間から、ゆっくりと日が昇るところであった。オレンジ色の光が山々の輪郭を染め、空がほんのり色付く。その光景が彼女のエメラルドグリーンの目に焼き付いた。

 

「きれい……」

 

 その一言が思わず口をつく。探索者となってから二年以上の月日が流れ、何度となく見続けてきた光景のはずなのに、それでもなおその光景に彼女は見とれていた。


「相変わらず早起きだな。ティルア」


 不意に後ろから声をかけられる。振り返ると、そこには長身の男の姿があった。


「ブロード教官……」


 ティルアが所属する見習い探索者パーティの教官を務めるブロード・マカル。革と金属を組み合わせた軽鎧を身にまとい、その肩の上には愛用の槍を背負っている。


「今朝も日の出を見てたのか?」

「はい」

「飽きないねぇ……。まぁ、うちの探索隊じゃ一番早く起きてるし、俺としては助かるけど」

「日課のようなものなので……」


 ティルアは小さく笑いながら言った。

 ブロードはティルアの傍の岩に腰を下ろすと、タバコに火をつけた。独特の香ばしい匂いが辺りに広がり、その香りは彼女の敏感な鼻腔をくすぐった。

 

「……教官も、こうして日の出を見ることがあるのですか?」

 

 タバコの煙を口から吐き出しながら、ブロードは首を傾げた。

 

「ああ……。まぁな」

 

 そう言って彼は再度タバコを口にくわえる。

 

「都市じゃこんな奇麗な朝日は見られないから、最初の頃はすごい興奮してたよ。だが、何度も探索で外界に出れば、そんなもんは慣れちまうんだ」

「そういうものなのですか……?」

「直にわかるさ。……ところで、今日の予定は覚えているな?」

「はい。今日はエドルキア地方北部の旧文明遺跡の調査です」


 旧文明――かつてこのリウィア大陸で栄華を極めたというその文明は、数百年前に起きた大厄災「凍災」によって雪と氷の下に消えた。いまや当時のことを知る者は少なく、詳しい資料もほとんど残っていない。そのために「探索者」はさまざまな土地に赴き、調査を行っている。

 

「ああ、そうだ。先遣偵察班がある程度調査しているが、大まかな構造と魔獣の分布くらいしか判明していない。何が出てきても油断するなよ」

「……はい」

 

 しばらくの間沈黙する二人。肌寒い風が陽光にさらされて心地よい風へと変わっていく。そしてブロードはタバコをそこらの岩でもみ消し、立ち上がった。

 

「さ、そろそろ準備しよう。朝食を取らんとな……」

「……そうですね」

 

 ティルアは小さくうなずいた。それと共に、起床を告げる笛の音が野営地に鳴り響いた。


 

 ◇



 数十人の探索者たちが二列になって雪に包まれた森の中を進んでいく。

 

「……うぅ」

 

 ぶるり、とティルアは体を震わせた。防寒着を着込み、フードもかぶっているが、それでも気温は低い。吐く息は白く、手足の感覚も次第になくなっていく。気晴らしに辺りを見回しても、目に映るのは白い雪と黒々とした木々の影ばかり。気が滅入るような光景だった。

 

「止まれ」

 

 しばらく歩いていると、先頭を進むブロードが手を挙げて後続に止まるよう指示する。

 全員が止まると、周囲の空気がピンと張り詰めた。視界の先から光が差し込む。それは森林の終点であることを示していた。

 眼前に飛び込んできた景色にティルアは思わず息を吞む。

 

「ここが、旧文明の遺跡……」

 

 エドルキア凍原北部、小規模の森林を抜けた先に広がる真っ白な氷床の上。そこには石造り、レンガ造りの廃墟群が外壁の半分以上を氷に侵食された状態で、ひっそりと佇んでいた。生命など一切なく、生活感すらも漂ってはいない。ただ無機質な白と黒の静寂だけが場を満たしていた。

 彼女が旧文明の遺跡を訪れるのはこれが初めてではない。しかし何度見ても、その言葉では表すことのできない美しさと不気味さに圧倒される。彼女はしばらくの間、呼吸すら忘れて見入ってしまっていた。

 

「よし、これより調査を開始する。各自準備を始めておけ」

 

 ブロードの指示と共に、集められた探索者たちはてきぱきと作業を始める。ティルアも自身の装備を点検し始めた。

 荷物を降ろし、フードを脱ぐと、彼女の髪が風になびいた。その前髪の間からは、同世代の少女と比べてやや幼さを残した顔立ちがのぞく。しかし、その瞳には強い意志と決意の光が宿っていた。

 彼女は荷物の中から細長い物体を取り出した。それは鞘に納められた一本の短剣だった。柄は滑らかな木製、少し刃渡りの長い刀身は薄く青みがかった銀色。そして柄尻には澄んだ水色の宝石が埋め込まれている。


「……使うことにならないといいんだけど」


 ティルアは短剣の柄をぎゅっと握りしめた。

 外界は過酷な雪と氷の環境であり、大陸に生息する凶暴な生物「魔獣」もそこら中に闊歩している。そのため、探索者は採掘や登はん用の道具だけでなく、戦闘用の武器や防具を身に着ける必要がある。

 

「それではこれより遺跡内に入る! 各自慎重に行動し、定期的に連絡を入れろ。先遣隊の観測では複数体の魔獣の存在が確認されている、決して油断するな。では、行くぞ!」

 

 ブロードの声が響き渡り、それに全員が呼応する。そして一行は隊列を整え、雪を踏み分けながら遺跡へと足を踏み入れていった。

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フォートグレイシア 井ノ上ダイチ @Land_inoue

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