幽霊が科学で証明された世界
海牛トロロ(烏川さいか)
第1話 観測者
2044年。
幽霊の存在が科学によって証明された。
生物は皆、微弱な磁力を帯びている。生物の死後、その磁力が肉体から抜け出し、地球やその土地の磁場によって拘束され、時折観測される。
それが幽霊である。
①
レバーを引き、電力の値を徐々に上げていく。
すると装置が激しく唸り、フラスコの中に光がほとばしった。
フラスコといっても、どんな大男でも優に入れるほど大きい。ガラスは特別製の強化ガラスで、何重にも重ねられているため、中で多少の爆発が起きたとしても割れるような心配はない。
フラスコの中の光がみるみる激しくなり、そして中央にぼんやりとした像が見えてきた。
それは人のような形をとっているが、性別や表情までは窺えない。
もっと電圧を上げなければ。
そう思ってレバーを引いた瞬間、破裂音とともにフラスコの中に雷が落ちたかのような閃光が走り、一瞬にしてすべての光が消失してしまった。
「また、失敗か……」
私は装置の停止ボタンを押し、深いため息をついた。ひどく喉が渇いている。冷たい空気が喉を通るとずきずき痛んだ。
部屋を埋め尽くさんばかりの装置が一斉に沈黙する。
テニスコート一面分ほどの広さの研究室が、急に静寂に包まれた。
この研究室に籠ってもう何日になるだろうか。ずっとここで幽霊を観測する実験を行っているが、まるで成功しない。
三年前、アメリカとインドと日本の共同チームによって、幽霊の存在が科学で証明された。
幽霊の正体は生物から抜け出した磁気であるため、霊磁場(れいじば)という特殊な磁場を作り出すことによって幽霊を観測することができる。
けれどもこの通り、まだその技術の安定性は確立していない。
デスクの上のコーヒーが入ったマグカップを手に取りつつ、ふとパソコン画面の横に立てかけられた写真が目に入った。
還暦ほどの夫婦が仲睦まじい様子で写っている。
片方は私で、もう片方は私の妻だ。
私には何としてもこの実験を成功させなければいけない理由がある。
そのため、この研究を絶対にやめるわけにはいかないのだ。
私は三年前まで、幽霊を科学で証明したチームに参加していた。
妻と子どもを日本に残して単身赴任し、長年アメリカで研究に没頭する毎日を送っていたのだ。
離れていた時間が長く、家族にはひどく苦労をかけたと思う。特に妻には。
だからずっと家族とともに穏やかに暮らしつつ恩返しがしたいと、そう願っていた。
そして還暦と同じ年に目的を達成したため、私はすぐさま仕事を退職し日本へ帰り、今までできなかった家族との時間を過ごし始めた。
けれども、運命はそう優しくもなかった。
妻との旅行中、高速道路を走っていた時だ。
私が運転し、妻が助手席に座り、今夜泊まる旅館の話や先ほど食べた昼食の話で盛り上がっていた。
しかし突如、反対車線の車がこちらへ飛び出してきた。
慌ててハンドルを切ったが間に合わず激突。強い衝撃を感じたと思った瞬間、意識が飛んだ。
目が覚めると、病室の真っ白の天井が見えるだけだった。
体は固定され、首も動かせない状態だった。
その後、医師と警察からすべて聞かされた。
飛び出してきた車を運転していたのはてんかん持ちで、急に意識を失って反対車線へ飛び出したようだと。
そして妻は、亡くなったのだと。
②
悲しみの受容には、五段階のプロセスがあると誰かが言った。
否認、怒り、取引、抑うつ、受容。
多くの人はそうした段階を経て、受け入れがたい事実を飲み込んでいくのだと。
だが私は、第一の否認の段階で止まった。
妻が亡くなっていいはずがない。何かの間違いだ。
そもそも、人の死とは何だろう。
肉体の死か、魂の死か。
私は、その両方が死んだ時、人が本当に死んだということなのだと思う。
妻の魂は生きている。ただ今は見ることができないだけで。
きっと妻は、私のそばにいるはずなのだ。
幸いにして私は、霊磁(れいじ)研究が専門分野である。
妻を見るための手段はここにあるのだ。
無論、霊磁場の中の幽霊が意思を持たず、対話も不可能なことは分かっている。
これまでに観測された幽霊たちは、虚ろな表情でただぼぅっと突っ立っていたり、生前にしていたであろう行動をただ繰り返し行ったりするばかりだった。
だが、生前の行動を見せたということは、その人の魂の一部であることには間違いない。
つまり、状態のいい魂をフラスコの中に収めることができれば、対話だって可能なのではないか。そう私は仮説を立てたのだ。
だから私はここで、これまでのどの研究よりも丁寧に、霊磁の実験に励んでいるのである。
過去のことを思い出していたら、随分と長い休憩になってしまった。
研究に戻らなくては。
マグカップをデスクに置き、パソコン画面を操作し始めると、メールのアイコンに新着のマークが付いているのが見えた。
――新着21件。
霊磁装置の電源が入っている間は電波が入らないようになっているから、実験終わりにこうして一気に通知が出てくることはしょっちゅうだ。
ひとまずこのメールに目を通してしまおう。
恐らくは息子たちからの連絡だろうし。
案の定、メールはほとんどが息子と娘のものだった。
二人とももう随分と前に結婚をしたが、こうして私の身を案じる連絡を頻繁に送ってきてくれる。
息子は妻が一人にならないようにと実家の近くに家を建て、私たちのことを健気にずっと支えてきてくれたし、娘は妻に楽しいイベントを作ろうと、よく妻と一緒に旅行に出かけてくれた。
二人とも本当にいい子どもに育ってくれた。
これもすべて、ほとんど育児に貢献できなかった私に代わって息子たちを育ててくれた妻のおかげだ。
息子たちに返事を返しつつメールを確認していったが、不意に私の手が止まった。
「これはいったい…」
メールの送り名は、島村詩織。
私の妻の名前だ。
鼓動が早まるのを感じる。急にまた喉が渇いてきた。
私は震える手でメール開く。
――研究の方は順調ですか?ご飯、ちゃんと食べてくださいね
それは、妻が私の単身赴任中によく送ってきてくれた文面だった。
ひょっとしたら、ずっと昔のメールが間違って今届いたのだろうか。
いや、違う。単身赴任中は、もし返信がなければ、離れた地で大きな機械に囲まれて研究をしていた私の身に何かがあったのではないかと、すぐさま妻が着信を何本も入れてきた。
そんなことは二度ほどしかなく、どちらもメールが届いていないということではなかった。
メールの受信時間を確認する。
1時間ほど前だ……。
つまりこのメールは、ついさっき妻によって送られてきたものだということである。
普通であれば、多少は背筋に寒気が走るものなのかもしれない。
だが、私はただただ嬉しかった。ずっと離れていた温もりに触れたような気分だ。
自然と口角が上がるのを感じる。
「間違っていなかった……私の考えは間違っていなかったんだ」
妻は、生きている。
すぐそこにいるのである。
③
妻の存在を近くに感じてから、これまでが嘘のように研究は順調に成果を出し始めた。
もしかしたら妻が私のことを見守り、研究の手助けをしてくれているのかもしれない。
妻も私に会いたいと思ってくれているのかも。
私は食事も睡眠も忘れ、一心不乱に研究に勤しんだ。
そしてついに、研究は完成した。
「これで……これでいけるはずだ。これで完璧に詩織の魂を採集することができるぞ…っ!」
この成果は、もし発表すれば世界が驚愕のあまりひっくり返るかもしれない。
何せ、死者の魂を完璧に復元――つまり、蘇りの技術といっても過言ではないからだ。
だが、今の私にはそんなことどうだっていい。
早く妻に、詩織に会いたい。
逸る思いのあまり震える手に力を込めて落ち着かせ、装置の電源を入れた。
すると、部屋中の装置が一斉に唸りだす。
微調整は済んでいる。あとは電圧をゆっくりと上げていくだけだ。
レバーに手を添え、ゆっくりと引いていった。
その動きに合わせ、装置の唸り声がどんどんと大きくなっていく。
部屋の中央で明らかな存在感を誇る巨大フラスコ。その床と天井には、磁気を発生させるためのコイルのような板がある。霊磁を発生させるために規則的に巻き付けられたそれは、仏教の曼陀羅か、あるいは魔法陣のように見えなくもない。
死者を復活させる様々な創作物は、この研究を予見していたのかもしれないとも思わせてくれる。絶対にそんなことはあり得ないが。
電圧を上げていくと、その板から霊磁が発生してきた。
普段肉眼では見えるはずのないものが見えてくる。
きらきらと蛍のように舞う無数の光。
まだ研究中だが、一説にはこれも微生物や虫などの霊なのではないかという説もある。
さらに電圧を上げていくと、フラスコの中にひと際大きな光の塊が見えてきた。
徐々にそれは大きくなっていき、人の形のように広がっていく。
――いよいよだ。
いよいよ妻に会えるのだ。
光はついに成人の人間ほどの大きさにまでなった。
まぶしくてその表情までは窺えないが、きっと妻に違いない。
なんだって彼女は、ずっと私のそばについていてくれたのだから。
しかし――
「そんな……っ! 待ってくれ!」
――光は一度大きく発光したかと思った次の瞬間、弾けるようにして消えてしまった。
一発の花火かのように、どこか美しく、儚く。
「また、失敗か……」
理論は合っていたはずなのに。
なぜか、どこを改善すればいいのかすら思いつきもしない。
けれど、一つだけ確かなことがある。きっと今のは妻だ。
長年一緒にいた私だからわかる。
やはり妻は、すぐそばにいてくれているのである。
それが再認識できただけでも、今回の実験は意義のあるものだったといえるだろう。
私は装置の電源を切り、深いため息をついた。
ひどく喉が渇いている。呼吸のたびに喉が痛む。
パソコンの横に置かれたコーヒーが入ったマグカップを手に取った。
④
「また、ルーティンに入りましたね」
そう声をかけてきたのは、初老くらいの白衣を着た男性。
髪は短くとも若干ぼさぼさとしており、髭は意図的に伸ばしているわけでもなく一週間は剃ってなさそうだ。
声をかけられた還暦過ぎの着物姿の女性――島村詩織は、軽く会釈をして口を開いた。
「研究の方、あまりうまくいってないんですか?」
「あ、いえ」
初老の男は快活に笑って、顎髭をさすりながら答える。
「その逆で、研究が楽しくなっちゃいましてね。食事も睡眠も、家に帰るのも忘れてこんなザマなわけです」
「そうですか、それはよかった。ですが、食事や休憩はきちんととるようにしてくださいね」
「はい、それはまあ追々……」
ばつが悪そうにそう言う男を見て、詩織はくすりと笑った。
「なんだかあの人を思い出します。あの人も、何もかも忘れてしまうくらい研究が大好きで。ですのでアメリカに単身赴任って言われた時は、すぐに飢え死んじゃうではないかと心配でした」
「先生――島村博士の研究好きはチームでも随一でしたからね。みんなでどう休ませるかが第二の研究課題で、ふざけてその論文を書いた研究員もいたほどです」
詩織が口に手を当てて目を細めた。
「ですので、こうして今も研究を続けられて、あの人は嬉しいと思います」
詩織がそう言って目を向けた先には、巨大なフラスコがあった。
テニスコート一面分ほどの広さの研究室。その床や壁を覆いつくさんばかりに置かれた複雑な装置たち。
その中でもとりわけ目立っていたのがそのフラスコだった。
そのフラスコに中では、薄っすらと光を纏った白衣姿の男性が動いていた。
年齢は詩織と同じくらい。散らかり放題の白髪交じりの髪、数週間は剃っていないであろう髭。
それは詩織の夫――島村誠司の姿だった。
二年前、誠司は妻との旅行中に事故で亡くなった。
詩織はひどく落ち込み、自らの死すら考えるほどになってしまった。
そんな彼女に声をかけたのが、誠司の弟子のこの白衣の男だった。
――現在の技術では会話ができませんし、生前によく行っていた行動を繰り返すだけかもしれませんが、島村博士を蘇らせることができます
男のその言葉に、詩織は希望を抱いた。
たとえ意思疎通ができなくとも、あの人がそこにいるだけでいい。
そうして装置を起動し、詩織は夫の霊に再開することができた。
「こんな無理を通していただき、改めて感謝いたします」
詩織は男に対して深々と頭を下げた。
「そんなっ、やめてください! 先生には生前、本当にお世話になったんですから、生きているうちにできなかった恩返しですよ」
男は悔しそうに眉をひそめた。
「むしろ、もっと我々の技術が確かなものであれば、意思疎通とまではいかなくても、せめて何をしているのかくらいは分かったかもしれないのですが……」
「何をしているのかはわかりますよ」
「え?」
「あの人、ずっと研究をして失敗してるみたいです。ずっと根詰めてて、時々ひどく寂しそうな顔をするものだから、私毎日メッセージ送っちゃってるんです」
そう言って詩織が掲げた紙のように薄い透明の板のような携帯端末には、”研究の方は順調ですか? ご飯、ちゃんと食べてくださいね”と書いてあった。
「それで、このメッセージを送って間もなくすると、あの人はすごく嬉しそうな顔を崩すんです」
「それは……」
「科学的に証明できないし、偶然だろう。そう言いたい顔ですね。私があなたでもそう思うでしょう」
詩織は穏やかな笑みを浮かべた。
「この霊磁という分野は、まだまだ未知がたくさんあるようですね。だからもしかしたら、私がこうして近くにいることが、あの人にも伝わっているのではないか。意思疎通ができないのであれば、確かめようがありませんがね」
男は感嘆の息を漏らすように唸ってから言う。
「ほんの数年前まで、幽霊はただの幻とするのが世界の常識でした。けれど、それが今ではびっくりするほど綺麗にひっくり返った。詩織さん、もしかしたらあなたの理論が数年後には当然の事実となっているかもしれませんね」
真剣な面持ちの男とは反対に、詩織はころころと笑った。
「回りくどい言い方も師匠譲りですね。ですが、ありがとうございます」
思わぬ理由で笑われたことで、男は気恥ずかしくなり苦笑した。
そして二人は改めて大きなフラスコに目を遣った。
大切な人との記憶に想いを馳せながら。
第1話 観測者 ―了―
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