第42話 高嶋弁護士4
高嶋弁護士は藤波に対して何を望んでいたのか。最後に彼は人間って面倒な生き物だと言った。みんな穏やかに暮らしたいと望みながら冒険心が目覚めてくる。働かなくっちゃ。もっとよい話し相手を見付けなくっちゃ。それでいて仕事が見つかれば何で働くんだ。良い相手が見つかれば何で
「下村は妻を亡くした、しかも自らの手で」
「一人で死のう
「無理だろうなあ」
今まで色んな事件を見てきたが、あれほど順調な男はいなかった。みんな多かれ少なかれ挫折感を味わって来た連中ばかりだ。それだけに先行き不透明になれば自分の行き場を完全に見失う。
「それでも、どうして深詠子に相談しなかったんですか」
「それも聞いてみたが、
深詠子は冗談も言うし、人を茶化しても此処一番の肝心なときには気高かく振る舞った。それが藤波には安心感と世間に対して奮い立たせるものを感じさせてくれた。それが下村には通じないどころか逆効果になってる。
「究極の時に見せる深詠子の気高さには、降り注がれた愛情の裏付けがあってこそ勇気が湧く、でも下村にはそれがないでしょう」
「なるほど、そんな時に不安がって、どうしょうと一緒になって騒いでしまえば、益々落ち込む。私は深詠子さんを知りませんが、多分普段は鷹揚に構えていても、いざとなればでんとしかも気品高く構える風格の持ち主だったんでしょう。そんな妻を見てオロオロする下村には扱えない人なんでしょう」
「深詠子はお飾りに徹する女性じゃないですよ。いざとなれば言いたい放題言って叱責したあとで、ケロッとして、さあ今夜は何食べるって微笑んでくれる人ですから、真面に愛情を受けてない下村には、その笑顔が希少価値になって、失いたくないと思い詰めた結果なんですよ」
ほう〜、と珈琲カップを手にして、空に気付いた高嶋は慌てて二つ追加した。
「深詠子さんは自分の価値を知っているのは多分、藤波さん、あなただけだと思ってる。下村はそれでも腫れ物にさわるように一緒に暮らした。此処までの話を聞いて、おそらくそのまま何事もなければ後十年、真苗ちゃんが歳頃になれば、深詠子さんは離婚したでしょう。その頃には下村の二人の子供も大きくなって少しは気持ちも変わったでしょうが、今は奥さんを絶対に手放したくはないでしょう」
妻と謂う希少価値を亡くして途方に暮れている処へ、空白の八年を乗り越えて藤波と謂う男が下村の所へやって来た。
「しかも、わざわざこんな所まで面会に来てくれた。これには途方に暮れた下村も閉ざされた心の隙間に光が差し込んだのじゃあないですか」
「何度も言うように、下村とはまだ会ったばかりなんですよ。勝手にそんなん決めつけないで下さいよ」
深詠子は彼との愛が真実だと知らせるために真苗を通じて伝えたかった。それほどまで心を寄せる藤波を、何かにつけて此の八年は畏怖して来た。その男が監獄まで会いに来る。この感激に浸った下村はその男に懺悔したい。
「だから藤波さんは、深詠子さんに代わって崇める存在だと思っているんですよ。あの閉ざされた世界では」
「ぼくにそんな霊力なんてありませんよ!」
と強く否定した。
高嶋弁護士と比べて、下村とはまだ二回しか接見してない藤波には、何処までが真実かは定かでない。
独り軽トラを走らせながら出た結論は、もっと下村との面会が必要だった。店に帰り着くと、可奈子は真苗に包丁を持たせて野菜をみじん切りにさせていた。可奈子は今日の骨切りした鱧を湯通ししている。
「弁護士さんとのお話、
藤波の冴えない顔色を見てそう悟ったようだ。真苗は届きにくいまな板にビールのケース箱を反対にして、それを踏み台にして野菜の下ごしらえをしていた。
「上手いもんだなあ」
「あたしも鱧の骨切りには驚いたけど、丁度真苗ちゃんが骨切りした部分の湯通しが出来たけど試食してみる」
と小皿に箸を添えてカウンターに置いた。見た目は良く切れているが、これだけは食べてみないと判らない。どれどれと一口食べてみた。
「どう?」
「悪くないなあ、これなら常連客には俺がやったように見えるが、問題はあの年季の入った長老の酒巻の御大将だ。あの人がええ歯応えやと言うてくれればええんやがなあ」
「でも啓ちゃんが手を付けたもんを、お客さんに出すわけにはいかないわね」
「そうだなあ。仲買のおやっさんが骨切りした物だけ今日は出すか」
それでも今日の真苗の出来栄えを十分に褒めて、元気をつけさせて二階へ上がらせた。
真苗が居なくなると可奈子に弁護士との話を一通り説明した。
「あの弁護士は俺を
「それでどうすんの?」
「どうもこうもない。ただひとつの真実を知りたいだけだ」
憎しみ、金、出世、名誉、世間体、殺人には様々に、当人に取ってはもっともな動機が存在するが、心中事件の動機って
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