風は谷を渡る雲を追う

和之

第1話 父の店

 藤波啓一朗ふじなみけいいちろうのやる居酒屋「どん底」は川端三条通りを西に少し行った所にある。三条通から花見小路に抜ける途中に暖簾の掛かった間口一間ばかりの、狭い入り口だが奥行きがあるカウンター席だけの居酒屋だ。引き戸を開けると鰻の寝床のように八席のカウンター席があり、その後ろに人一人が通れる通路がある。店は大きな通りに面して駅に近くて帰りに一杯やるには良い場所だ。父は此れ以外に近くに十台駐められる月締めガレージも遺していた。お陰で仕入れに使う軽四輪も駐めている。此のガレージも五年前に亡くなった親父おやじの所有する店と一緒に相続した。お袋は六年前に亡くなっていた。

 それまで藤波は社会人として十年以上、自分を騙しながら会社勤めをしたが、性に合わないのが分かり、親父の調子も悪くなり、彼は実家に戻ることにした。

 その前から人に使われるのが性に合わず、何とかこれなら人から文句を言われずに適当に客あしらいもすればそこそこ一人でやっていける。

 藤波は個性が強すぎて自我が激しいがそれが表に出ない処が、彼の社会生活では欠点として目立った。そんな彼が親父が急に悪くなったのもあるが、亡くなる前の一年半ほどの特訓で、何とか食材を工夫して親父が出していた半分ぐらいは作れるようになった。後は出来合い物で何とか賄いながら、以前のメニューの復活に取り組んでいた。

 今日も先代からの常連に教えを請うて、段々おやっさんの味に近づいてきたと言われるようになった。しかしまだ大半は冷凍物を解凍して、市販の調味料を隠し味と偽って出していた。それでも客は残さず食べてくれた。この場合は手頃な料金も受けているが、親父が遺した人徳のありがたさも身にしみた。

 数百メートル南西方向には祇園花見小路で、その辺りは深夜の一時でも人通りは多く、タクシーも頻繁に流している。此処は祇園の場末になり、接待や待ち合わせで祇園花見小路へ行く通り道で、夜遅く十一時を過ぎると客足が遠退き、いつも十二時には店を閉めて暖簾を下げる。翌日は午後の三時頃から仕込みを始める。独身で借家でなければ贅沢をしなければそれでやっていける。常連客も十数人居て、日曜の定休日以外は毎日四、五人は来て売り上げに貢献してくれる。常連客に言わすと、なんぼ辺鄙へんぴでも祇園の近くでこんな料金で呑める店はなかった。接待には向いていないが呑むだけなら、要するにそこそこの客で毎日埋まっていた。親父が手放さずに息子に託したのもその辺にあった。

 この日の常連客は四人だが、やっさんと呼ばれる人は近所でなく、帰りの電車をいつも気にしながら呑んでいた。後の三人は還暦を超えて、その内の長老は八十手前だが、それをやっさんが言うと、バイデン大統領もあれでちゃんとやっている。といつも歳を言われるとやり返していた。

「そうは言うてもやっさん、近いのは歳だけで後は雲泥の差やでえ」

 と源さんと呼ばれるじいさんがいつもやっさんの味方をしていた。

 それを言うたらみんな一緒と笑った。残りも七十前後だから彼らに言わすと三十二歳の藤波は孫のようなもんだ。彼らにはもう歳より、残った人生をいかに有意義に過ごすか、その為に此処へ酒を呑みに来ている。

「毎日ここに来られるのは年金があるさかいや、週に二回しか来やへんあの山崎じいさんは年金ではやっていけへんさかい工事現場の警備員もやっとる」

「エッ、あのじいさんもう七十とちゃうんか、わしらと変わらん掛け金やさかい支給額もわしらと一緒やのに」

「しゃないがなあ、足らんにゃ年金が」

「同じ支給額なのに、ならどうして山崎のじいさんはまだ働かなアカンのんや」

「毎日此処へ呑みに来られるのはあの山崎のじいさんとわしらとは借家と持ち家の違いや。あのじいさんは若い頃に住宅ローンせんと遊んでいたんや。その報いがきてるんや」

「大半のもんはあの年金で家賃払えば生活費が足らなくなる。借家のもんは定年後の生活を丁度ここの藤波はんぐらいの歳からやっとかなあかん」

「わしらみたいに毎日此処で呑んで寝るだけの生活を若いときから考えておかなあかんちゅうこっちゃ」

「そやけど、そっちの三人は此処の藤波はんと一緒で親の家を相続しただけや」

「そやなあ。やっさんは郊外に苦労してやっと定年前に家のローンを払い終ったんやなあ」

 一見いちげんさんが居なければ呑み慣れた常連客同士、羽目を外して藤波は傍観者に徹していられる。雇われ会社員だとそうはいかない。上司には逆らえず同僚には愛想をつかされないように付き合わないといけない。此処ではその場の雰囲気を壊さなければ、それで今日も彼らは店に来る。早い人で夕暮れの六時だが、大体八時前にはほぼその日の常連客の顔が出そろう。今日は彼奴あいつは来ないな婆さんに掴まったか。オッ、珍しいな最近顔みせんやつが来よった。とこれでこの日は盛り上がる。これも全てが亡くなった親父の置き土産みたいのもんだ。それでも一週間も顔を見なければ、彼奴とうとうお迎えが来よったなあ、と老い先短い連中にはひと言で終わる。

 親父が良いなじみ客ばかり遺してくれたお陰で、小言を頂戴することもなく、味付けの指導までして貰っていた。そうしてくれるのは、連中にしてみれば五十代でぽっくりは 余りにも早い若い死で、遺された藤波をその分可愛がっていた。サラリーマン時代は付き合いで居酒屋にも行ったが、客が店のあるじを持ち上げてくれる店を知ったのは此処が初めてだ。おそらく他店は一人客なら無愛想で呑むが、贔屓筋が多い此の店は違った。

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