日本酒杜氏:佐藤みゆきさん
◆初心者の覚悟 - 杜氏1年目の冬
目覚ましの音で目を覚ます。時計は午前4時を指している。窓の外はまだ真っ暗だ。私、佐藤みゆきは、この寒村で日本酒造りの修行を始めてまだ2ヶ月。杜氏(*1)見習いとして、毎日が新しい発見と挑戦の連続だ。
ベッドから這い出し、急いで作業着に着替える。鏡を見ると、すっぴんの顔に疲れが見える。化粧どころじゃない。髪をざっとまとめて、帽子を被る。
「よし、今日も頑張ろう」
自分に言い聞かせるように呟く。
宿舎を出ると、冷たい空気が頬を刺す。蔵(*2)まではほんの数分だが、歩くたびに靴が雪を踏みしめる音が静寂を破る。
蔵に到着すると、先輩たちがすでに準備を始めていた。
「おはようございます」
私が挨拶すると、ベテランの山田さんが振り返る。
「ああ、みゆきちゃん。今日は麹(*3)の状態を見てもらうから、準備しといてね」
「はい、わかりました!」
返事をしながら、内心では緊張が走る。麹は日本酒造りの要。その管理を任されるのは大きな責任だ。
蔵の中は湿度が高く、甘酸っぱい香りが漂う。私は手早く作業着を整え、消毒を済ませてから麹室(*4)に向かう。
麹室に入ると、温度計とメモを手に取る。麹の温度を測り、湿度をチェックする。数値を見ながら、心の中でつぶやく。
(うーん、ちょっと温度が高いかな……でも、湿度は問題なさそう)
慎重に観察を続けていると、背後から声がかかる。
「どうだ? 状態はええか?」
振り返ると、杜氏長の田中さんだった。60代の男性で、厳しいが公平な人だ。
「はい、温度がやや高めですが、許容範囲内だと思います。湿度は問題ありません」
「そうか。よく見とるな。でも、なぁ……」
田中さんは麹に近づき、手で触れる。
「触ってみりゃわかる。今のうちに温度下げんと、後で苦労するぞ」
「あ、はい! すみません、気をつけます」
顔が熱くなる。まだまだ経験が足りないと痛感する。
その後、麹の温度調整に取り組む。汗をかきながら、慎重に作業を進める。
昼食時、先輩の鈴木さんが話しかけてきた。
「みゆきちゃん、大丈夫? 疲れてない?」
「ええ、なんとか……でも、まだまだですね」
「そりゃそうさ。杜氏になるのに10年はかかるんだから。でも、あんたの目つきは真剣だよ。きっとやれる」
鈴木さんの言葉に、少し勇気をもらう。
午後は酒母(*5)の管理だ。酵母の状態を確認し、必要に応じて調整する。集中力が途切れそうになるたび、なぜここに来たのかを思い出す。
(日本の伝統を守りたい。そして、女性でも一流の杜氏になれることを証明したい)
夕方になり、やっと一日の作業が終わる。体は疲れているが、充実感もある。
宿舎に戻り、風呂に入る。温かい湯に浸かりながら、今日一日を振り返る。
(まだまだ未熟だけど、少しずつ成長している気がする。明日はもっと頑張ろう)
夜9時。明日に備えて早めに就寝する。枕に頭をつけた瞬間、深い眠りに落ちた。
◆経験を重ねて - 杜氏5年目の秋
早朝5時、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。窓の外はまだ暗いが、空気が少し冷たくなってきている。秋の訪れを感じる。私、佐藤みゆきは今年で杜氏5年目。まだまだ若手だが、少しずつ責任ある仕事を任されるようになってきた。
ベッドから起き上がり、鏡の前に立つ。5年前よりも少し引き締まった顔つきになった気がする。髪をまとめながら、今日の予定を頭の中で整理する。
(今日は新しい酒米(*6)の精米(*7)が始まる日だ。しっかりチェックしないと)
化粧は最小限に抑え、作業着に着替える。蔵に向かう途中、紅葉し始めた木々を見上げる。
「綺麗だな……」
つい声に出してしまう。美しい自然に囲まれた環境で働けることに、改めて感謝の気持ちが湧く。
蔵に到着すると、もう数人の同僚が準備を始めていた。
「おはようございます」
挨拶をしながら、精米機のある部屋に向かう。新人の山下くんが不安そうな顔で立っている。
「山下くん、どうしたの?」
「あ、佐藤さん。この精米機の調整がうまくいかなくて……」
私は優しく微笑む。
「大丈夫、一緒に見てみましょう」
精米機(*8)を確認しながら、山下くんに説明する。
「ほら、ここの圧力が少し強すぎるのよ。米が砕けちゃう可能性があるから、もう少し緩めてみて」
山下くんは真剣な表情で聞いている。
「わかりました! ありがとうございます」
彼の目の輝きを見ていると、5年前の自分を思い出す。
(私も、こんな風に先輩たちに教えてもらったんだよな)
午前中は精米の監督と、麹室の管理で過ぎていく。昼食時、田中杜氏長が私に声をかけてきた。
「みゆき、ちょっといいか」
「はい、何でしょうか」
「今年の新酒(*9)の仕込み、お前にメインで担当してもらおうと思うんだ」
驚きで言葉が出ない。新酒の仕込みは蔵にとって最も重要な仕事の一つだ。
「私に……ですか?」
「ああ。お前なら大丈夫だ。女性ならではの繊細さと、今まで積み重ねてきた経験を生かしてくれ」
胸が熱くなる。信頼されているという喜びと、責任の重さを同時に感じる。
「ありがとうございます。精一杯頑張ります」
午後からは、醪(*10)の管理に取り掛かる。発酵の状態を確認しながら、新酒の仕込みについてのアイデアが次々と浮かんでくる。
(今年は少し冒険してみようかな。華やかさと深みのバランスを追求して……)
夕方、作業を終えて帰り支度をしていると、先輩の鈴木さんが近づいてきた。
「みゆき、今夜飲みに行かない? 新酒の話、聞いたよ」
普段なら断るところだが、今日は特別な日。心が躍る。
「はい、お願いします!」
地元の居酒屋で、数人の同僚と杜氏の世界について熱く語り合う。日本酒を味わいながら、それぞれの夢や抱負を語り合う時間は貴重だ。
帰宅後、お風呂に浸かりながら今日一日を振り返る。新しい責任への不安もあるが、それ以上にワクワクした気持ちでいっぱいだ。
(もっともっと良い酒を造りたい。日本の伝統を守りながら、新しい味わいも追求していきたい)
明日への期待を胸に、眠りについた。
◆職人の誇り - 杜氏10年目の春
朝日が昇る前、午前4時半に目覚める。窓の外では、かすかに鳥のさえずりが聞こえ始めている。私、佐藤みゆきは今年で杜氏10年目。今では副杜氏(*11)として、蔵全体の製造工程を管理する重要な立場にある。
起き上がり、鏡を見る。30代半ばになった顔には、経験と自信が刻まれている。髪をまとめながら、今日の予定を頭に描く。
(今日は新酒の出荷日だ。最後の確認をしっかりしないと)
化粧は控えめに、でも凛とした印象になるよう心がける。作業着に袖を通しながら、ふと指輪が目に入る。去年、同じ蔵で働く杜氏と結婚した。理解しあえる相手と出会えたことに、改めて感謝の気持ちがわく。
蔵に向かう道すがら、桜の花びらが舞い散るのを眺める。
「日本酒に桜の風味を……なんて、面白いかもしれないわね」
アイデアを携帯のメモに素早く書き留める。
蔵に到着すると、すでに数人のスタッフが準備を始めていた。
「おはようございます。今日も頑張りましょう」
全員に声をかけてから、まず新酒の最終チェックに向かう。
瓶詰め(*12)された新酒を一本取り、慎重に開封する。グラスに注ぎ、色、香り、味をじっくりと確認していく。
(香りは華やか、でも奥に深みがある。味わいはスッキリとしながらも、しっかりとした旨味が感じられる。うん、いい仕上がりだわ)
満足げに頷きながら、出荷の許可を出す。そこへ、新人の田村さんが駆け寄ってくる。
「佐藤さん! 瓶詰めの機械がちょっと調子悪くて……」
「わかったわ、すぐに見に行くわ」
機械のトラブルに対処しながら、新人たちに的確な指示を出す。以前の自分なら焦っていたかもしれないが、今では冷静に対応できる。
午前中は出荷準備で忙しく過ぎていく。昼食時、田中杜氏長が私を呼んだ。
「みゆき、ちょっといいか」
「はい、何でしょうか」
「実はな、来年から杜氏を引退しようと思ってる。後任は、お前に任せたい」
驚きで言葉を失う。杜氏になることは夢だったが、まさか今……。
「私に……できるでしょうか」
「もちろんだ。お前の技術は確かだし、何より蔵全体を見る目がある。女性杜氏はまだ少ないが、それがむしろ新しい風を吹き込むはずだ」
目頭が熱くなるのを感じる。10年間の努力が報われる瞬間だった。
「ありがとうございます。精進を重ねて、必ず期待に応えます」
午後からは、来年の仕込み計画の策定に取り掛かる。これまでの経験と、新しいアイデアを織り交ぜながら、未来の酒造りのビジョンを描いていく。
(伝統は大切に守りつつ、新しい挑戦も。若い世代にも魅力的な日本酒を造っていきたい)
夕方、作業を終えて帰宅準備をしていると、先輩の鈴木さんが寄ってきた。
「みゆき、聞いたぞ。おめでとう! 女性初の杜氏だ。誇りに思うよ」
「ありがとうございます。皆さんの支えがあってこそです」
帰宅後、夫と一緒に夕食をとりながら、今日のことを報告する。夫は心から喜んでくれた。
お風呂に浸かりながら、これまでの10年を振り返る。苦労も多かったが、それ以上に得たものは大きい。
(これからも日本の伝統を守り、そして新しい可能性を切り開いていく。それが私の使命だ)
明日への決意を胸に、穏やかな気持ちで眠りについた。
注釈:
(*1) 杜氏:日本酒造りの責任者で、製造工程全体を統括する職人
(*2) 蔵:日本酒を製造する建物や施設
(*3) 麹:蒸した米に麹菌を繁殖させたもので、日本酒造りに欠かせない
(*4) 麹室:麹を製造する専用の部屋
(*5) 酒母:日本酒醸造の最初の工程で、酵母を育てる
(*6) 酒米:日本酒造りに適した特殊な米
(*7) 精米:酒造りのために米の外側を削ること
(*8) 精米機:米を削るための機械
(*9) 新酒:その年に新しく造られた日本酒
(*10) 醪:米、麹、水、酵母を混ぜて発酵させている状態のもの
(*11) 副杜氏:杜氏を補佐し、製造工程の管理を行う役職
(*12) 瓶詰め:完成した日本酒を瓶に詰める工程
◆杜氏の師匠である山田権蔵氏からのお言葉
みゆき、あんたとワシが出会ってからもう10年か。時の流れは早いもんだ。あの頃のあんたを思い出すと、今でも笑ってしまうよ。初めて蔵に来た日、緊張しすぎて麹室の前で転んでしまったあの姿が、まるで昨日のことのようだ。
でもな、みゆき。あんたの目の輝きは、あの時から少しも変わっちゃいない。むしろ、年々増してきているように思える。その情熱と向上心こそが、あんたを今日まで導いてきたんだろう。
最初の頃は、正直言って心配だったよ。この世界はまだまだ男社会だ。女性が杜氏になるなんて、夢物語だと思っていた。でも、あんたは私の予想を見事に裏切ってくれた。いや、裏切ってくれて本当に良かった。
あんたの繊細さと大胆さのバランスは、まさに天性のものだ。麹の香りを嗅ぎ分ける鋭い感覚、酒母の状態を見極める冷静な判断力、そして何より、酒に対する深い愛情。それらが、あんたの造る酒を特別なものにしている。
3年目の冬のことを覚えているかい? あの時、あんたが提案した新しい酒造りの方法を、俺は頑として聞き入れなかった。伝統を重んじるあまり、新しいアイデアを受け入れられなかったんだ。でも、あんたは諦めなかった。粘り強く説得し続け、最終的に俺を動かした。あの新酒は、今では蔵の看板商品になっている。あの時の決断が、俺たちの蔵を変えたんだ。
5年目には、あんたは業界でも注目の存在になっていた。女性杜氏としての先駆者として、多くの若い女性たちの憧れの的だった。でも、あんたは決して驕ることなく、むしろより一層謙虚に、そして真摯に酒造りと向き合っていた。その姿勢が、周りの職人たちの尊敬を集めたんだよ。
そして今、10年目。あんたはもう立派な杜氏だ。いや、単なる杜氏じゃない。日本酒業界に新しい風を吹き込む革新者だ。あんたの造る酒は、伝統の味わいを大切にしながらも、現代の食文化に合わせた新しさがある。それは、あんたが女性であるがゆえの視点から生まれたものだ。
みゆき、あんたはワシの誇りだ。弟子として、そして一人の人間として、あんたの成長を見守ってこられたことを本当に幸せに思う。これからの日本酒界を担っていくのは、間違いなくあんたたち若い世代だ。特に、あんたのような女性杜氏たちの活躍が、この伝統ある業界に新たな生命を吹き込んでいくんだろう。
最後に一つ、言っておきたいことがある。どんなに成功しても、どんなに有名になっても、決して初心を忘れるなよ。酒造りの基本は、米と水と人の心だ。その心を大切にし続ける限り、あんたの造る酒は必ず人々の心に響くはずだ。
さあ、みゆき。これからもその情熱を胸に、日本酒の新たな歴史を築いていってくれ。俺たち古い世代は、あんたたちを誇りに思いながら、酒を酌み交わし見守っていくとしよう。これからの100年、いや1000年の日本酒の未来は、あんたたちの手の中にあるんだ。頑張れよ、佐藤みゆき!
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