第五章

(一)離別

 それは人々にとって恐怖の象徴であり、人間にあるべき尊厳を凌辱りょうじょくする、たいそう馬鹿げた病だ。ときに命を侵し、価値観を冒し、人を殺す。

 その色は、社会のなにもかもから嫌われている。

 白は死の色。

 魔につらなるモノの色。

 しかし、そう――これほどまでに、激しい色だったとは。


 一面の、白。


 強い風になびく髪が、どうにもわずらわしい。視界をさえぎったこの黒色を乱雑にはらって、黒影は一望できる眼下の白を睨みすえた。

 崖先からの眺望は、右から左まで、見わたすかぎりの白色が広がっている。目に痛いほど陽光を反射して輝く白の群れは、雪によるものではない。山も、森も、枝先も草花も、なにもかもが瘴気によっておかされている異色の白だ。

 足元の白を踏み潰す。


(ああ、つくづく瘴気が濃い)


 いらだたしい。視界は晴れ、さえわたっているというのに、感覚は鈍く、肌はもやにおおわれ、重い気配がどんよりと漂い、まとわりついてくる。

「これが白の境界線……」

 固唾かたずを呑むように、ソウがひとりでに小さく声をこぼした。りん、と鈴の音がしたのは、彼が傷痕だらけの指先を、腰にぶら提げた猫の面に触れさせたからだ。

 折々、わずかに猫の面に触れるそのしぐさは彼のくせで、今までにもたびたび見られた。

「本当に、ずっと向こうまで続いてるんだね」

 途方もない白色が、蒼穹の瞳に映る。りん、とまた鈴の音がする。

 白の眺望と、晴れわたる空の色を背景にたたずむ彼は、まるで青色を背負っているようにも思えた。

 視線をさえぎったのは、おもむろにもちあげられた、黒紫の紋様だ。ナギが左手で、白の境界線のなかに点在する、いくつかの集落のうちのひとつを指した。

「あっちの方に、最初の補給地点があります。まずはあそこを目指しましょう」

 うなずいたソウに合わせて、りんと鈴の音が響く。と、ソウはふと気がついたように、言った。 

「ねぇ、ナギさん」

 ソウが視線を向けた先には、白い巨塔に相対するように枝葉を伸ばしている、大きな樹木があった。それは空を渡る雲をつきぬけるほど大きく、そしてことさら白い。

「あれって、もしかして」

「ええ」

 ナギはうなずいた。

 「あれこそ、この現代で最初にしてゆいいつ、完全に〈白樹化はくじゅか〉してしまった〈神樹かみき〉です」


 大地に恵みをもたらす〈神樹〉。

 それが白くなり、一帯に瘴気をふりまく現象こそ〈白樹化〉だ。


「〈白の境界線〉は、白樹化が原因だともいわれています。いったいどうして白樹化が起こるようになったのか、そしてなぜ十年に一度だけ、霧晴という現象が起こるのかは、いまだに解明されていません。そもそも、人族は白樹化した場所へ踏みいることができないので、とうぜんといえばそうなのですが」

 ナギは悩ましそうにうなずいたあと、続けて相対する白い巨塔を示した。

「それから、天へ向かって屹立きつりつしているあの遺跡が、バリアブルです。ここからでもうっすら見えますね。ナギたちは行きませんが、あそこはかつて――……、」

 不意にナギの言葉が途切れる。

 黒影は胡乱うろんげにナギの横顔を見やった。いつもなら、ここから長々と博識に語りはじめるのが定番だからだ。ナギの横顔は、ほんのひと時のあいだ、息を忘れてしまったかのように固まっていた。

 どうした。問う前に、ナギのつま先がひとつ、茫漠と前へ出た。

「いま、なにか」

 漠然とした声色とともに、また一歩。

「ナギは、」

 翡翠色の瞳は大きく見ひらかれ、そしてふるえた。

「どこかでこの光景を……あそこは、魔導都市ヴァリア・ヴルは……」

「ナギさん危ないよ!」

 ナギの腕をとったのは、ソウだった。

 それ以上進めば、この崖から落ちることは明白だ。そして、この高さ。眼下へ遠く広がるのは森の白だが、落ちれば助からないだろうことは誰しも理解できる。


 瞬間。


 金色の毛先がふわりと浮かんだように見えた。それは、彼らの足元が、崩れ落ちたからだ。ソウとナギの身体が、ガクンとずり落ちるように下がった。足が抜け落ちるその瞬間、ソウはナギと入れ替わるようにその腕を力いっぱいに引いて、つきとばす。ナギが地面に転ぶのとほぼ同時に、黒影は手を伸ばした。

 ソウもまた、こちらに手を伸ばす――が、届かない。

 見開いた彼の蒼穹の瞳が、一瞬、森の白を映した。それからわずかな時間。ソウはこちらの瞳を見上げて、「ごめん、約束が」と口にした。最後まで声が届かなかったのは、彼の姿が見る間に遠くなって、眼下に呑まれるように消えてしまったからだ。

「ソウ……!」

 声をかき消すように上空を吹き抜ける風が、この重く黒い髪の先をさらう。くそ、と舌打ちをする。

 まにあわなかった。

 判断をしくじった。

 この大太刀をさしだしていれば――成人男性の体重を支えられたかどうかは別として――ソウの手に届いていたかもしれない。いまさら考えたところで、彼が崖下に落ちた事実は変えられないのだが。

「ナギ、下に降りるぞ」

 立ち上がって、大太刀を担ぎなおす。

「ナギ?」

 返答がないことに、黒影は眉根を寄せた。見れば、ナギはしりもちをついたまま、ひどく青ざめている。

「そ、ソウくんが……」

 歯の根がかみあわないのか、カチカチとしきりに奥歯をふるわせながら、ナギは這いずるように崖下をのぞきこんだ。その首根っこをつかんで引きもどし、てきとうなところに投げ置く。先ほどのようにまた足場が崩れてナギが落ちようものなら、目も当てられない。なんのためにソウが助けたのか、という馬鹿げた問答になってしまう。

「立て。迂回うかいする」

「あ、あの高さじゃ……無事では……」

「無事じゃなくてもだ!」

 ぐいとナギの襟首を引きよせていた。いらだちをぶつけると、ナギは怯えたようにビクリと肩を縮こめる。ひどく怯えたようすに、舌打ちを返して、黒影は乱暴にナギを手放した。

 きびを返す。ソウの背負い袋をひろう。

「き、危険です!」

 ナギが声をあげた。

「いくら瘴気の霧が晴れているとはいえ、他の場所よりも瘴気の濃度が高いことに変わりありません! 生身の身体では……。それに白の境界線は魔種の巣窟そうくつです。いくら黒影さんが強くても……あまりにも、危険がすぎます!」

「なら一生そこでうずくまっていろ!」

「っ……!」

 ナギはびくりと身体をふるわせて、左腕を握りこむように情けなく視線をそらした。そのようすを一瞥いちべつして、黒影は歩きはじめる。ナギに舌打ちをかえすことさえ、ばかばかしく、むだに思えた。

「ま、待ってください。なんで、どうして……」 

「ワタシはソウとの約束を果たしていない」

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