(七)重圧

 十八歳になってからすぐの寒い日に、母は殺された。

 そこからのソウの行動は迅速だった。

 使命感につき動かされるように荷物をまとめ、魔狩協会支部に転属願いを出し――その間に、寄るとしてまず連絡をとったのは、父が祖父母との縁を切ってからも、ゆいいつ手紙をやりとりしていたという、妹のカルロッタ――ロッタ叔母さんだった。

 それまで真面目に働いていたのが功を奏したのか、協会はソウの要望に応え、ロッタ叔母さんとの音声通信をとりはからってくれた。

 ロッタ叔母さんに事情を話すと、彼女は、農地の倉庫を改築した小さな家があり、それを貸してくれると言った。いわく、その家を貸していた住人が、ずいぶん前に瘴気症で亡くなってしまったせいで、体裁も悪く、次の住人が入らないまま空き家になっていたらしい。いい加減、それをどうするかと悩んでいたところだったという。

 ソウはそれまで暮らしていた北方の家を売り払い、必要最低限の荷物をまとめて、早々に地元を出た。

 まだ六歳の、弟とともに。


 たしか。あれは母が殺されてから、半月――いや、一ヶ月が経ったころだっただろうか。

 南方の田舎に越してすぐのことだった、とソウは記憶している。

 新しい家――とはいえ、親戚が倉庫を改築したもので、以前使っていた住人もいたものだから、ずいぶん年季が入っている――に運び入れた荷物の整理が、まだ終わっていなかったから、ライが寝入ってから、独り黙々と作業をこなしていた。

 昼間は春のきざしがみられるようになったものの、夜はまだ冷えこみ、薄着でいると風邪をひいてしまうような、そんな季節だった。

 家にはライと二人。

 父は亡くなった。母は殺された。だから、二人きり。

(明日は叔母さんにあらためてお礼を言って、それと挨拶まわりに行かなきゃ)

(とりあえず服を出して――えっと、あいさつ用のおみやげ、どこに置いたっけ)

 これからの生活を、ソウは考えていた。

(しばらくは貯金をくずして、家事をこなせるようにならなきゃ。そうだ、仕事……仕事も再開しないと。当面の暮らしは問題ないけど、ライを学校に行かせるなら話はちがう。ああ、けど仕事が始まったら……)

 ふと手を止める。

(ライを独り家に残すことになる)


――母さんが目の前で殺されて、毎日、怯えて泣いているのに?


 服を出して整理しながら、ソウは自問した。

(じゃあ、誰かに預ける? 誰に? ロッタ叔母さんに?)


――信頼できる人かどうかも、わからないのに?


(誰が敵になるのかわからないのに、どうやって信じて頼ればいいんだろう)

 ソウは考えつづけていた。

(けど、なんにしたって、仕事はしなきゃならない。いくら事情があったところで、休暇が長期におよべば職を失ってしまう。これからの生活費も、社会的な信用も、必要だ。でもそれだけじゃ生きていけない。周りとも上手くやっていかなきゃ。失敗したら終わる。俺しかいない。俺しか、護れない)


 奥歯を噛む。畳んでいた服にシワが寄る。


――ライを、お願い。


 母の言葉が、聞こえる。


(絶対に、護る)


 そうして、明瞭としない夜の部屋を睨みすえたとき。

 ふと、おぼつかない小さな足音が聞こえて、ソウは、はっと我に返った。服のしわを伸ばして、畳みなおす。

「ライ、どうした? 目が覚めちゃったかな」

「おかあさん」

 ソウは、肩をふるわせた。

 ぎこちなく、ふりかえる。

 腫れぼったい目を、小さな手でこすりながら、ライがぼんやりとこちらを見上げていた。

「ライ、母さんはもう……」

 いないよ。

 言いかけたとき、ライの顔が、布を手のひらで勢いよくつかんだ時のように、くしゃりと歪んだ。

 耳にかけていた自分の髪が、するりと垂れ落ちて、そこでソウは気がついた。最近忙しく、髪を切る暇もなかったから、いつのまにかずいぶん伸びていた。そのせいで、ライはソウの後ろ姿を、母と見まちがえたのだろう。

「おかあ、さん、」

 今度は細い声だった。それは、ひどく震えていた。

「おかあさん」

 幼い口から、次々と声が溢れて、波のようにどんどん大きくなっていく。

「おかあさん、おかあさん! おかあさん!」

「ライ、大丈夫だ」

 ソウはとっさに、幼い弟を抱きしめた。

「大丈夫だよ」

 重ねて、言いきかせる。

「俺がいる。俺がいるから。護るから。殺させたりなんてしないから。だから、大丈夫。俺だけは、ライの味方だから。絶対、絶対に……!」

「いやだあああああああぁぁぁあああああ! おかあさんがいいおかあさんじゃなきゃイヤだおかあさんおかあさんおかあさんあああああああああああああああああああああ!」

 ライは大きくのけぞって泣き狂った。

(なにが、)

――大丈夫なんだろう。

 そこでようやく、ソウは自分が発した慰めの言葉の、その場しのぎの無意味さに気がついた。

「ごめん、ごめんな」

 ソウはいっそう強く、ライを抱きしめる。

「ちがうよな。怖いだけじゃないよな。さびしいよな。お兄ちゃんじゃなくて、母さんじゃなきゃ、嫌だよな。ごめん、ごめんな……」

「いやあああああああああああああああああああああああああ!」

 ライは、腕をめちゃくちゃに振り回した。子どもとは思えないほどの力でソウを突っぱねて、床に転がり、畳んだばかりの服を投げ散らす。

「ライ……」

 近づくと、ライの薄い爪が、ソウの頬にぶつかった。ほんの一瞬だけ熱いと感じたが、そんなことよりも、目の前で泣き続けるライに、どう言葉をかけたらいいのか、なにをしてやればいいのかばかりを考えていた。

「俺、頑張るから。ライがさびしくないように、できるだけ早く帰ってくるし、そうだ。休みの日は一緒にでかけよう。綺麗な景色を見に行ったり、かけっこだって、兄ちゃん一緒にできるよ。おいしいご飯だって、作れるようになるから、だからさ……」

「そんなのいらない!」


 正解が、わからない。


「帰りたい帰りたい帰りたいおかあさんに会いたいおかあさんじゃなきゃイヤだなんでお兄ちゃんしかいないのなんでなんでどうして」

 ライは何度もくりかえし、同じことを言った。そして――、

「なんでお兄ちゃんは、おかあさんをたすけなかったの!」

 ソウは、ただ息を呑んだ。



 やがて泣き疲れて眠ったライを、ソファに寝かせ、毛布をかけた。毎日いっぱい泣くから、まぶたはぷっくりと腫れて、何回も擦るから、頬はカサカサに割れて、見ているだけでも痛々しい。涙のあとが白い筋になって残っている。

 湿らせた布を、手の温度ですこし温めて、ライの目元と頬をぬぐう。そこで、ふと思い出したように、ソウは、まだ手をつけていなかった箱を開いた。その中をごそごそと探して、割れないようにと巻いていた緩衝材を破って、軟膏の瓶をとりだす。ふたを開けて、指先ですくって手の甲に伸ばし、それから、ライの頬にそっとなじませた。

 瓶をしまって、それからソウは洗面所へ向かった。

 軟膏を伸ばした手を洗い流して、湿らせた布は固くしぼって干した。そのときに、ふと、頬がじくじくと痛むことに気がつく。

(子どもの爪は薄いから)

 濡れた指先で触れると、水気が刺すように染みた。

 おもむろに、鏡の中の自分と目が合う。澄んだ青色の瞳には、暗い夜の色が垂れこめていた。

 茫漠と、それを眺める。

「ああ、本当だ」

 ぽつり。色のない声で呟いた。

「髪、いつの間に伸びてたんだろう。最近、ずっと家のこととか、手続きとかでいっぱいいっぱいだったからなぁ。時勢が時勢だから、けっこう引っ越しも大変だったし」

 苦笑。

「これは、見まちがってもしょうがないや」

 伸びた髪の毛先を軽くすくったが、それはするりとほどけて、零れ落ちた。

 鏡に映る自分の顔は、母とよく似ている。けれど、母とはちがう。くちもとに笑みをたずさえただけの、疲れて情感の失せた自分の白い顔が、そこにあるだけで。

 すぅ、とくちもとの笑みも、すぐ消えた。

 ソウは、はさみをとり出してきた。

 幼いころは、父がこれで髪を切ってくれていた。ライが二歳の時に亡くなったから、ライは父のことを覚えていないだろう。父が亡くなってからは、母が切りそろえてくれた。


――母さんとはちがって癖っ毛で、短くするとすぐ跳ねちゃうから、すこし長めに切ってもらうようにしたんだっけ。いつだったかな。忘れちゃった。


「せめて俺が、父さんに似てればよかったのかなぁ」

 ははは、と乾いた笑いだけが、虚しく残る。


――なんて、そんな話じゃないよな。


 母がいいと泣き叫ぶ、弟の姿を思い出しながら。

 はさみを入れて、伸び落ちた髪を切る。


――知らなかった。俺、髪が伸びてくると毛先にまた癖がでるんだな。


 手で髪をすくって、刃をあてがう。


――母さんの代わりにはなれないけど、頑張らなきゃ。


 髪を、切る。


――大丈夫。

――だって、父さんは言ってくれた。自慢の息子だって。

――だって、母さんは言ってくれた。優しいあなたが誇らしいって。

――温かい思い出がたくさんある。愛された記憶がある。だから、俺はやっていける。


「けど、ライはそうじゃない」


 これからたくさん受けるはずだった、あたりまえの愛情さえ、奪われてしまった。


――だから、せめて。

――せめて、俺が。


 切る。

 切る。切って、また切る。

 考えなければいけない。

 このまま生きているだけでは、だれもライを守ってはくれない。

 このまま生きているだけでは、母と同じようにライは殺されてしまうかもしれない。

 安全に生きられる場所が必要だ。それには味方が必要だ。味方になってもらうには、信頼が必要だ。そして信頼してもらうためには――。

 ソウは床に散らばった金色の髪を無感動に見下ろした。

「これでもう」

 鏡を見上げる。目を見開いたまま、そこに映る自分モノを凝視する。

「ライを無駄に泣かせたりなんて、しないよな」



――もう、大丈夫。 


 ライを泣かせたりなんて、しない。

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