(六)胎動

 黒影と別れたあと、ソウは貧民街もふくめて逃げ遅れた人がいないかを捜しまわっていた。子どもや老人――一人見つけるたびに、憂慮ゆうりょと励ましの声をかけ、容態を確認し、怪我をしていれば手当てをして、安全な建物に誘導する。それを何度もくりかえした。瘴気症も心配だが、まずは魔種の直接的な被害から守らなければならなかった。


 他の冒険者や街の衛兵たちもかなり動いているらしかった。そのおかげだろう。この辺りにはもう、魔種も人の気配もないように思えた。――無事に、避難できただろうか。

 と、ソウは、鉄骨階段の影にうずくまる女性を見つけた。

「大丈夫?」

 ソウは駆け寄って、声をかけた。ずいぶんと大きいお腹を抱えるようにしてしゃがみこんでいる。見たところ外傷はなさそうだが……妊婦だろうかと考えたところで、視界を悠々と移動する影があることに気がつく。高い壁に遮られた隙間の上空を器用に移動しているのは、パラサイトモスだ。

 ようすを見るかぎり、まだこちらは認識されていないようだが――、

(まずい。ここだと鱗粉の影響が……)

 ソウはあたりを見回した。

「立てる? ここは危険だから、とりあえず屋内に入ろう」

 パラサイトモスの動向を注意深く観察しながら、その手をとる。


 ぷつ、とごく小さな違和感。


 ぷつ、ぷつ。ぷつぷつ。小さい泡が割れるような音がする。

 と、痛いぐらいに手が握りこまれ、ソウは少しだけ目元をゆがめた。握りかえしてくれた女性の手はしっとりと汗ばんでいるのに、ひどく冷えきっている。

「どうしたの」訊ねようとしたとき、女の顎がガクンと外れた。壊れた人形のように大きく開いた。眼前でねっとりと引いた銀色の唾液に、背筋がひやりと凍る。女の咽喉のどの奥で左右にぞろりとうごめいたのは、鋸のようにギザギザとした、頑丈な歯列だ。

「!」

 手をはらう。

 ソウはとっさに身を退いた。

 腐ったトマトを踏み潰してしまったときのような、ぐちゅりと湿気た音とともに、ぶちぶちと異様な音が路地裏に反響する。ふっくらと、そしてみちみちと張りつめた女の腹からつき出たのは、口の中で蠢いていたものと同じ、鋸状の咀嚼顎そしゃくあごだ。一匹が顔をのぞかせた瞬間、水袋の底を破ったときのように、次から次へと地面に吐きだされ、いくつもの白くぷるりとした塊が、もったりと頭を持ちあげて、それぞれに首を振ってはもの欲しそうに口もとをひくひくと脈動させた。

「なんだ……これ……」

 どちゃ。

 音をたてて女はくずおれた。

 残った女の死骸を喰う幼虫もいれば、もたもたと収縮しながら移動して、鉄の手すりや配線にかじりつくもの、壁をよじ登って、ぶら下げられた壁付の魔鉱照明器具ブラケットライトへ貪欲にすがりつくものと、三々五々に散っていく。

 白色が、街を喰っていく。

(金属や魔鉱石だけじゃなく、人間まで喰うのか……)

 ソウはぐっと固唾かたずを呑み下して、背中の片刃曲刀へ手を伸ばした。

 触れた。

 みち、とやわくぬめりのある感触が、確かに、手のひらへ触れた。

「――――ッ!」

 とっさにソレを振りはらう。片刃曲刀をひと息に抜き去る。視認するより早く、起動を口にするよりも早く放電し、無声の雷撃で一帯のなにもかもを焼き切った。

「っは……はぁ、はぁ……くそ、気持ち悪いな……」

 焦げた虫を睨み下げる。武器の柄を手拭いでていねいにぬぐい落としながら、周辺に生き残った幼虫がいないことを確認する。先ほどまでソウの手のひらほどの長さしかなかったはずの幼虫のほとんどは、上腕ほどに膨れてから焦げ死んでいる。周辺の金属製品や魔鉱灯の多くは食いちぎられてすでにボロボロだ。

「すごい食欲と成長速度……」

 そうして、袖で額の汗をぬぐったときだ。

 ふと平衡感覚が崩れた。

 次の瞬間には、なぜか膝をついていた。

 手のひらから武器がこぼれて、かたい金属音が耳をつんざく。

(動けなくなるくらいの雷撃を放ったわけじゃない)

 なのに、どうして。

 声を上げることもかなわず、ソウは背中から、あおむけに倒れこんだ。

 そうして気づく。

 空を悠々と羽ばたく、白い色彩に。

(鱗粉……麻痺毒、か!)

 見開いた視界。パラサイトモスの前翅に並んだ眼状紋が、まるで人間の目玉のごとくソウを睨み下げている。

 ぐる、ぐるり。見定めるかのように、何回も上空をいったりきたり。やがてパラサイトモスは、ソウが動けないことを理解したらしい。白いソレが、暗く大きな影を落として、羽音をたてながらゆっくりと下ってきた。

 くしの歯状の触覚が、ゆらり、ゆら。

 パラサイトモスの前脚の棘が、ソウの左肩を、ぐぅ、と踏んだ。

「うぐ……っアアア!」

 浅い呼吸をくりかえしながら、色のないパラサイトモスの丸まるとした複眼を細く睨む。視界がかすむ。じくじくと肩口が痛んでは、生物のわずかな脈動に内側をえぐられる。

(成虫でも雑食だって、言ってたな)

 奥歯を強く噛んで、ソウは魔導武具へ右手を伸ばした。

(簡単に、餌になってなんかやらないからな……)

 指先が触れればそれでいい。雷撃さえ放てれば、どうにか活路はひらける。

 どうにか。

「――――ッああああああああああああああああああああ!」

 ずぐり。肩口を潰す鋭利な前脚が、もうひとつ。

 太ももを踏む中脚もまた、ひとつ、ふたつ。ゆっくりさしこまれ、半分だけ混ぜ返すように、ナカで浮く。

「ッあ……ぐ、うア、ァ……ッ!」

 息が、壊れる。

(くそが……ッ、麻痺毒なら、痛みもどうにかしろよ……ッ!)

 視界が暗くなる。明るくなって、遠くなって、また暗く淀む。耳鳴りがする。痛みに叫び散らす自分の声さえ、遠い。

(喰われるのか?)

 白く豊かな体毛の隙間で、ゼンマイのようにくるりと巻いたままの口はしかし、ピクリとも動かない。

 動かない。

 ひとつとして、動く気配を見せない。

 否、動いているのは、パラサイトモスの腹だ。最初は呼吸と同じように、自然な生命活動によって脈動しているものと思っていた。ひどくやわらかそうな虫の腹は、波のように収縮しては、まるでナカから何かを押し出すような気味の悪い蠕動ぜんどう運動を見せている。

 パラサイトモスの腹部の末端から、プツリとなにかが覗いた。それはフォークの尖端を一本だけ切り取ったように、硬く尖っている。徐々に、徐々にそれは長くなる。ふと、ゆるやかに垂れたのは、細い糸のようなものだった。ひげのようなそれは、ソウの大腿をたどり、やがて腹部へ。服のうえから執拗しつようになにかを探っているらしかった。触覚、だろうか。

 ぴたり、と静止する。

 腹部がぐんと丸まって、末端の突起が、みずみずしく光った。かと思うと、その先端を覆っていた硬い弁が左右に開く。細い筒の中には、幼虫と同じようなぷるりとした小さな球体が、顔を覗かせている。

 ゆるやかな曲線を描いたソレは、まるで生物が生殖活動を行うときのような――否、

(産卵管による、接触産卵!)

 理解した瞬間、かすんでいた視界も、思考さえも、嫌に明瞭としてひらけた。そして同時に、ことに、気がついてしまう。

 麻痺毒は宿主へ確実に卵を産みつけるため。

 そして体内で産まれ、栄養を吸収しながら大きくなった幼虫はやがて、宿主という殻を破る。

 こそ、だ。


 ぷくりと開いた尖端から、透明な粘液がとろりとしたたった。それは、ソウの上着を濡らし、肌着へしみこんで、地肌へ触れる。

 ぬるり。

 全身が総毛立つ。汗がにじんで、呼吸が浅く、早くなる。だが声は出ない。麻痺毒のせいだ。喘ぐように息を吸う。うまくいかない。

(そうだ、雷撃を……魔導武具を――、)


 届か、ない。


 はっ、はっ、はっ、はっ、と、かすれた短い息が無意味に漏れる。

 硬い突起が、腹部に押しつけられる。ぐ、と圧迫感とともに沈む。上着の丈夫な布がつっぱって、ふつ、と嫌な音がして、布地がわずかにゆるんだ。悲鳴にならない悲鳴とともに、肌の皮に尖端が触れ、ついに突き抜けんといっそう押しこまれた。


 その、刹那。


 音もなく、黒い影が立っていた。

 しかし次の瞬間。その姿が見えなくなっていた。都合のいい見間違いかと、心の中で自嘲するや否や、パラサイトモスの針が刈り取られた。次に、頭部と翅が水平に吹き飛んだ。開けた視界で、黒い刀身が大きく振り上げられる。魔鉱灯の光を痛いほどに反射した切っ先が、一息にパラサイトモスのやわい腹を――穿うがつ。


 静寂。


 ソウの首筋から、小指ひとつぶん。ほんのわずかに離れただけの地面に、黒い大太刀の切っ先が、突きたっていた。貫かれた魔物の胴体から、どろりと溢れた赤褐色の液体が刀身を伝って、生臭い水たまりを広げる。

「忘れるな」

 低い、低い声だった。

 艶を忘れたその黒々しい髪のように、鈍く淀んでいながらも、地の底から響くような、そんな声に、ソウは息を呑むことすらできずにいた。

三日月のように細い目の白眼だけが、浮きあがっているように見える。ソウの頬に、魔物の濁った体液がぽつ、と落ちた。

「キサマとワタシの、命より重い〈約束〉を」

 ずるり、と魔物の死体が刀身からすべり落ちて、ソウのすぐ横に潰れた。跳ねた錆色が、ソウの頬を汚す。どろりと広がった生暖かい液体が、襟足を濡らして、地肌に触れた。

 黒影は大太刀を抜いてはらうと、静かに鞘へ収めた。こちらを一瞥することもなく、硬いブーツの底を叩くようにして、沸然と去って行った。


 二度目の静寂。


「――――は、はははっ」

 しびれたままの腕をどうにか動かして、ソウは顔をおおった。痛みが戻ってきたのか、またじくじくと肩口が悲鳴を上げている。

 パラサイトモスを狩るなら、一太刀で良かったはずだ。

 だというのに、黒影はなぜ、わざわざ針を刈り落としてから、二振り目――ましてや、三手まで手間をかけて。大太刀を突きたてて殺したのか。

(俺を殺すつもりで、魔種を刺しやがったな)

 総毛立ったままの身体が、いまさらながら小刻みにふるえはじめる。

 自嘲する。

「わかってるさ。アンタはそういうヤツだ」

 引きつるような笑みがこぼれる。

「だからこそ、あのとき俺はアンタを選んだ」

 乾いた声で、笑う。

 魔幽まゆう大陸に来たあの日、蔦の這いまわる湿気た遺跡であえて協力をしたのは、こちらとしても都合がよかったからだ。

「助かった」

 ぽつり、とつぶやく。

「らしくなく、情をうつすところだった」


 もし黒影が、父のように情に厚く温かい人だったら。

 もし、母のように愛情にあふれた優しい人だったら。

 もし、弟のように臆病で泣き虫だったら。


「……じゃないと、使い潰して死んだら、さすがに良心が痛むだろ?」

 肩の傷口をえぐるように強く握る。

「どうせ、どっちかが死んだら、殺しあいなんて必要ない。そうじゃなきゃ、あんなふざけた約束なんて、誰がするかよ」

 死体だけが転がる路地に、言葉を吐きつけて。

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