(四)滔々
色がわからない。白がまちがい。そうだ白はまちがっている。白だけが悪い。白が。白色が。白が、ぜんぶ悪い。わからない。色がわからない。どうして。なんで。ちがう。ずれている。なにが。ぜんぶ。どこからまちがった。なにがいけなかった。
うわすべりしてゆく。
たぶんこれは、感情だ。
「おい!」
鼓膜を破りそうなほどの大声に、視界が明滅した。白に、黒に、湾曲して、ねじれて、また白くなって、ちかちか、ちかちかと、痛いぐらいに
「ぇ、あ……?」
「息をしろ馬鹿者!」
――息? 息って、どうするんだっけ。
ききかえそうとしたが、うまく声にならなかった。代わりに、笛の音のようなか細い音が通り抜ける。けれどその音もよくわからない。音が遠い。自分だけ遠い世界に隔離されてしまったみたいに、なにもかもが、わからない。
――あれ、おかしい。うまく、いかない。
――おかしい? ああ、うん。おかしい。おかしいのは俺だ。俺がおかしいから、おかしい。
そのときだ。
ぐいとちから強く引きよせられ、次いでなにかに包まれる。骨ばった肌がソウの頬に触れたとき、それがやわく脈動していることに気がついた。
耳鳴りが淡く沈む。
自分の不可解な呼吸音ばかりがやかましく打ちつけていた聴覚に、ゆるやかな呼吸の音が混ざり、そのうちに規則的な心音で満たされた。
――トン、トン、トン。
背中に温かさが触れるごとに、ソウは身体の境界をとりもどしていく感覚を覚えた。荒波に呑まれるように湾曲していた視界もそのうちに凪いで、やがてほどけるように色がもどってくる。
(息ができる……)
ようやく自分の身体が現実におちついたころ。ふと、頭のてっぺんで、つむじを分けるように黒影の声が響いた。
「おちついたか」
「……ああ、うん、ごめん。いろいろ思いだしちゃって、混乱した」
ソウは薄い肌に額をうずめるように、細く息をこぼした。情けない。こんな醜態を、まだ成人して一年も経っていない子になだめられるなんて。
「俺さ、他人の唇が苦手なんだ」
息とともにぽつりと漏れた自分の言葉にはたと気づいて、ソウは口を閉ざした。
しかし沈黙が長く続くほど、ふれあった肌の温度を生々しく感じてしまう。
再びふるえそうになった指先にするりと手を重ね、それからやわく身体を離したのは黒影だった。
「つまらん話をしてやる。子守歌、というには
キサマの雑多な思考を休めるには十二分だろう、と黒影は言った。彼女はごろりとあおむけになって、暗い天井をつまらなさそうに見あげる。
「ワタシが六歳のころ、両親は流行り病で亡くなった。今となってはろくに両親の顔も思いだせん。もとよりそこまでかかわりなどなかったが……思いだせるとすれば、せいぜい乳母の顔くらいだ。
ただ、可愛がられてはいたのだろうな。まるで着せ替え人形のようだ、といつも思っていた。都合が良ければ褒められる。愛とやらを体現した宝物、とでもいうようなこの命は、気持ちの悪いただの副産物だ」
まるで他人事のように、黒影は
おちついた静かな声色は、夜を満たす海の波間のようだ。女性にしては低く、よどみのある声。冷たい、というほどではないが、温かいわけではない。鋭利ではない黒影の音は心地がいい。
「ワタシは両親が亡くなってから、遠くに住む兄にひきとられた。
兄は蜘蛛の横糸のような、銀色に光る髪をしていたから、うんと赤子のころに捨てられ、そのまま誰に名付けられることもなく育ったらしい。どのように生きてきたのかはワタシも知らん。兄はそういった
ただ、初めて兄の姿をみたとき、これが家族に捨てられ、周囲からうとまれ、愛に飢えた人間の末路か、と、漠然とさとった。それほどに、兄は最初から壊れていた。兄は社会を憎み、周りの人間を矮小なものと決めつけることで、自分を守っているようだった。
さて、兄は初めてできた
兄妹というには些かイビツな、家族ごっこのような関係だ。それでも、寄る
それから、たいした希望も未来もない新しい生活が始まった。
不気味な兄のいる研究室はいつも暗く湿気ていた。その空間で息をするほどに、肺にカビが生えるのではないかと、よく疑ったものだ。研究に没頭する兄はワタシに対してさほど興味もなければ、他にろくな遊び相手もいない。ひどく退屈ではあったが、しかし、ひと時の感情を満たしてくれるものは見つけた。兄の書庫だ。理解しがたいものばかりだったが、知恵がつくうちにそれらも理解できるようになり、楽しみのひとつになったわけだ」
いつになく
どれが本来、ということはない。敵を前に過激に笑う彼女も、侮蔑をにじませる表情もまた、黒影だ。現に彼女は、ライのことを家畜呼ばわりし、
いま目の前で静かに言葉を紡ぐ彼女のようすもまた、ひとつの側面であって、それだけを都合よく見ようものなら、あとで痛い目をみる。
「――ワタシは、名を呼ばれた覚えがない」
おもむろに沈んだ声をきいて、ソウは目をみはった。
言葉を紡いだ薄い唇が、長いまつげの先が、ほんのわずかだけ、寂しそうに見えたからだ。
息をついて、黒影は一度まぶたを閉じた。
それがただの思案なのか、もの思いに
長いまつげの先が、しずかにあがった。ひらかれたまぶたの奥には、依然として変わらない黒色があるだけだ。
「……皮肉なことに、ほどなくしてワタシもまた流行り病に伏せた。
「それってもしかして……」
「ああ、瘴気症だ。そのころにようやく瘴気症に効く薬が開発されたが、実用化にいたるまでにまだ半年ほど必要だったわけだ。瘴気症は早ければ発症して数時間もしないうちに白亜化が始まり、そのうちに死ぬ」
そういう病だ、と黒影は嘆息した。
「ワタシは幾日も生死の境をさまよったが、幸い白亜化にはいたらず、一命をとりとめた。研究のために医術を学んでいた兄の対処も功を
「その身体は、瘴気症の後遺症?」
「ああ。医者の見立てでは、ワタシは二十歳まで生きられないらしい。むしろ、十五の成人をむかえられただけでも奇跡だと」
黒影は肯定した。
「どうして、そんなことを話してくれるの」
「今のキサマなら、いつものような気色の悪い、安い同情などしないだろう、と判断したまでだ。ただの気まぐれにすぎん」
「ひとつ訊いてもいいかな」
なんだ、とわずらわしそうな声が返ってきた。
その調子に安堵を覚えてしまうのは、きっと黒影がこちらになにも期待していないからなのだろう。
「戦いのなかで、君はとても楽しそうに見える。それはどうして?」
「……先ほど、生死の境を
笑いかけられようとも、愛をそそがれようとも、すべてうわすべりして霧散していくような
「……わからないな」
「理解されようなど思わん。……どうせ短い命だ。湿気た世界でのうのうと死にながら生きるより、痛烈で何よりも鮮やかな本能のなかで死にたい。最後までワタシは生きていたい」
「こういうのは失礼かと思うんだけど、ちょっとだけうらやましいな」
ソウはまどろみのなかで、ぽつりと言った。
「そんなふうに強く生きられる君が、ほんのすこしうらやましい」
――ほかに守るモノのない君が。
――自分でいられて、そうあるように進める君が。
ぼんやりとした思考に溶けこむように、声だけが響いた。
「……ワタシはあさましい欲望を、底なしに喰らっているだけだ」
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