(三)一秒の隙間

――ね、してみよっか。


 耳元でささやかれたその声は、いつも聞いている得意げな先輩の声とはちがった。


――ソウくん。


 二言目で、耳を濡らす声が溶けた。ききかえす前に息はふさがれた。だがすぐに離れた。

 紅茶に蜂蜜を垂らすときのような、とてもなまめかしい仕草をまじえて、先輩は指先を伸ばしてくる。そのしなやかな指先が、まだ目立たないこの喉仏へつきたって、爪がわずかに食いこんだ。息を呑む。すると、形の整った指先が、ねっとりと首筋をなぞり、鎖骨の右側で一度留まった。


――ソウくんのココ、ほくろあるんだね。


 線を描くように胸元をなぞって、先輩の指先はじっとりと下がっていく。腰元にたどりつくと、上着の裾にやわらかな手が差しこまれ、ソウの脇腹に触れた。身体の輪郭をするりとなぞられるのがくすぐったくて、こらえるようにわずかに身じろぎをすると、先輩はどうしてか、とても嬉しそうに笑った。くちもとをほんのすこし舌先で濡らした笑いかたは、今までに見たこともないくらいに、艶めいていて、同時にただならぬ熱を帯びていた。


――くすぐったい? 可愛いね。もっと見せて?


 艶然と耳元に声が触れる。音が耳の奥で反響する。濡れた音が奥を支配して、耐え切れず身体が震える。そのことが恥ずかしくて顔をそむけると、先輩はわざとゆっくり手を絡ませて、寝台に押し倒しながら、柔らかな唇をおしあててきた。

 今度は長かった。

 息の仕方がわからなくて、そのうちに思考は熱をおびたようにぼんやりとかすんでいった。先輩の内側は、思っていたよりも、ずっとずっと熱かった。肉々しい厚みは、まるでそれ自体が、ひとつの独立した生き物のように思えた。それがすこしだけ怖くて腰を引いたら、先輩はムッと口をとがらせて、次の瞬間、こちらの恐怖すら意に介さずに、ひといきに呑みこんだ。

 嬌声。

 先輩は大人の香りがした。

 いつもは、南国の果物のような瑞々しい香りで、華やかで、それがあたりまえだった。なのに、同じ人なのに、まるでちがう香りがする。

 触れあった肌からは潮の香りがしたたって、ソウの太ももに触れ、それでもとめどなく溢れて、やがて寝台に擦れた。それがにじんでなじむころには、ソウ自身も、もうよくわからなくなっていた。

 三つ年上の先輩。けれど、重ねた手のひらは、細くしなやかで、小さい。自分とはちがう。母ともちがう。たしかに女性の手だった。その指の腹が、唇に触れてくる。ねだるように頬を包んでくる。うながされるままに、む。先輩は短く息を切りながら、何度も名前を呼んでくれた。


――ソウくん、大好き。愛してる。大好き。大好き大好き。


 熱に浮かされていた。

 熱情に蝕まれていた。

 快楽におぼれていた。


――俺も、先輩が好き。ふりかえったときの笑顔も、いつもの声も、

――やさしくて、強くて、ときどき抜けてるところだって、好きだ。それから……、

 

 だから、まちがえた。


――白くて綺麗な、その肌も。


 一秒の、隙間。

 おたがいに目を見ひらいたまま、無言のまま見つめあった。それは理解できなかったからだ。

 ソウは、自分がなにを口走ってしまったのか理解できなかった。

 そして先輩は、なにを言われたのか理解しかねたのだろう。

 白は死の色。

 魔に連なるモノの色。

 白は決して、奇麗な色じゃない。

 白は美しいと褒めそやされるような色じゃない。

 それは世界を脅かす色だ。

 恐れられ、忌み嫌われ、侮蔑される色だ。

 先に壊れたのは、先輩だった。


――私の肌は白くなんかない。やめてよ。なんでそんなこと言うの。おかしいよ。


 先輩は何度もくりかえして、否定した。その瞳が濡れて、次から次へと心が零れていく。それをぬぐいながら、そして同じようにくりかえして、謝り続けた。


――ごめん、ごめんなさい。まちがえた。ちがうんだ。ごめん、ごめんなさい。


 とりかえしがつかないとわかっていながら、ずっとずっと、その涙をぬぐって、抱きしめた。


――触らないで。


 次に聞こえたのは、鋭く低い声だった。


――ソウくん、あなた気持ちわるい。


 二言目で、理解した。それは怒りだ。憎悪だ。

 軽蔑だ。


――ソウくん、あなたおかしい。おかしいよ。


 やさしかった唇の赤色が、妙に目立って見えた。唾液に濡れたくちもとが言葉を紡ぐたびに、ぬらりとうごめいて歪む。つい先ほどまで、熱をわけあっていた唇の感触が、這いずっているような気がした。

 先輩はいなくなった。



――ごめん。恐ろしいくらいに奇麗だって、言いたかったんだ。


 ひとり残された部屋で、ぽつりといいわけをする。 

 本心でもなければ、彼女にも届かず、自分に対しても、意味をなさない薄っぺらい言葉。

 わかっていたのに、まちがえた。

 失敗した。

 傷つけた。


 ふつうの〈自分〉は、ふつうの〈社会〉からずれている。

 白色を奇麗だと、美しいと思う自分は、おかしいのだと知っていたのに。


 ひどく冷めた、味気のない絶望だった。

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