第三章

(一)死んで、くれるなよ

 ソイツは心底気色の悪いヤツだった。

 いや、言いかたを変えよう。

 心底気色悪いヤツだ。


 ソウという男は、およそ誰もが美形と言い、およそ誰もが善良と感じ、およそ誰もが優秀で堅実だと評価するだろう。

 ごく自然に笑い、ごく自然に驚愕し、ときに隙をみせ、当然のように悲しみ、怒ってみせる。そしてあたりまえに憂い、あたりまえに優しくする。

 それはまるで、、とでもいうように。 


 戦場にあってもなお澄んだ蒼穹の瞳に、特定の誰かが映っていることは一度もなかった。ソウという男は、人間を、人間として見ていない部類の人間だ。おそらく、自分のことすらも。それは、傷だらけの手のひらを見れば明白で、彼は徹底的に駒であろうとしている――が、ただ目的もなく動いている、というわけではないらしい。

 そのどこまでもイカれた行動が、彼自身の本来の目的のためだとすれば。条件次第で、ワタシはヤツと

 強ければいい。

 ワタシに、渇望するほどの生を叩きつけてくるヤツであれば、どのような者でもかまうものか。

 湿気た生などいらない。ワタシの飢えた欲望を満たしてくれるモノなら、それがなんであろうと、かまわない。


――約束だ。


 それはおそらく、生まれて初めて自分から他人と交わした約束だった。


***


 背中を打ったのは、おそらく瓦礫かなにかだろう。濁流の中でもみくちゃに振られて、上も下もわからなくなり、息がつまり、身体の感覚が消えせる。

 吐く息もなくなった。死が迫る。意識が混濁する。

 途切れ途切れになって、そのうちに細く、消えて――。

 手放しそうになって、しかしすぐに、腕のなかのソウをまた強く抱く。

 まだだ、まだ死ねない。

 生き足掻あがく。

 死ぬことは、ひどく恐ろしい。


 ――……。



 いつも、深く眠らないのは、寝ることが嫌いだったからだ。ひとたび、あの安息としたまどろみに身体を横たえてしまえば、自分が自分でなくなってしまうようなあの感覚が必ず訪れる。

 まるで、燭台しょくだいに灯る炎の揺らぎのように、ふ、と思考が消えてしまう。

 自分がなくなってしまうのではないか。

 もうこれきり戻ってこないのではないか。

 なにもわからないうちに、いつのまにか、死んでしまうような気がして、そのことが、ひどく恐ろしい。


 だから、眠ることが嫌いだ。



 ――……。

 ざぷ、と重い音がうちよせた。身体はなまりのように重い。まるで動かない。自由が利かない。寒い。もしかすると、このまま動けずに凍えて死んでしまうのではないだろうか。

 動けずに、死んで――、

「!」

 目を見開く。

(呼吸が)

 とっさに身体を返す。濡れた地面に這いずり、咳きこむように泥臭い水を吐きだした。生きすがるように指先で地面を掻く。何回も吐き出してはあえぐように息を吸う。うまく呼吸ができずにまた咳きこんで、こびりついたような泥のにおいをしきりに吐き出す。

「ぐっ……げほっ…ぇ、」

 ひたいを地面にあてこすりながら、肩を大きく上下させてどうにか息をする。また激しくむせては、喘ぐように息を吸って……そんなことを、肺が痛むほど執拗しつようにくりかえした。

(くそ、状況がわからん)

 混乱する思考と状況をかき集めて、つなぎ合わせる。

 ぜぇぜぇとうるさい呼吸をしながら、黒影はあたりを見回した。

(どこだ。だいぶ流されたか? 気を失っていたのはどれくらいだ)

 暗い。暗くてよく見えない。まだ夜だ。風に揺れるこずえの音が幾層にも揺れて聴こえてくる。ここは森だろうか。土のにおいもするが、錆びた鉄のにおいも、すえたようなにおいもまざっていて、ひどく嫌なかんじがする。

 濡れて重くまとわりつく髪も服も不快だ。

 身体が重い。動きが鈍い。冷たい。寒い。

 大太刀を背負ったまま、冷たい岸辺で、這いずるように手を伸ばした。そのとき、ぐに、とただれたような弾力のある、なにかやわらかなモノをつかむ。これはなんだ。泥でもない。岩石のように硬くもない。だが、ひどく冷たい。


 既視感。


「!」

 死肉だ。それは死んだ人間の上腕だった。あたりを見まわすと、同じようにいくつも死体がモノのようにうちあがっていて、瓦礫と同じように折り重なっている。人のカタチをとどめているものもあるが、身体の一部、あるいは半分以上が潰れているものもあった。おかしくねじれ折れているものも、瓦礫に食い破られているありさまの死体も、あたりまえに転がっている。

 子ども、大人、老人。女。男。いずれも、人間としての尊厳が護られることはなく、有り体に、ただ転がって、無為に死んでいる。

 ただの、死体として。

 そしてその中に――、

「ソウ!」

 その中に、力なくだらりと腕を下げて倒れているソウの姿を見つけ、すぐさまかけ寄った。足場が悪く、身体も冷えきってろくに動かない。足をとられながらも、どうにか折り重なった死体からソウを引きずり出す。見るかぎり即死ではなさそうだが――。滴る水を気にとめるひまもなく、冷たい肩を何度も叩く。

「おい起きろ。この愚図。自己犠牲馬鹿。あんぽんたん!」

 反応がない。

 呼吸がない。

(水を飲んだか)

 即座にソウの気道を確保し、そのまま片手で彼の鼻をつまむ。口を大きく開いて、ソウの口をふさぐように重ね合わせた。五秒間にまず二回、息をゆっくりと吹きこんだ。それに合わせて胸元が上下するさまを確認する。

(死んで、くれるなよ)

 まだなにも、成しえていないのだから。


 ――……。

 ほどなくして、ソウは意識をとりもどした。激しく咳きこみながら、冷たい岩場の上で水を吐きもどした彼は、身体を起こしてすぐに周囲を見まわした。

「げほっ……っなに、これ……ここ、どこ」

 感情を削いだような、怪訝な表情を浮かべるさまは、めずらしい。まだ、うまく頭が回っていないらしかった。

 ややあって、死体の群れを一瞥したときに、彼はわずかに目を見ひらいた。

「運が良かった」視線をふせてつぶやく。金色の髪からつぶになって落ちた一滴は、足もとの死体に音もなくぶつかって、そのままなじんでしまった。

「怪我は?」

「問題ない」端的に言葉をかえす。「濁流に呑まれてから、だいぶ流されたらしい。まだ夜中で、そう時間はたっていないが、このまま街に戻るのには無理がある」

「ナギさんは大丈夫かな」

 低い声で疑問を口にしたソウは、ここからでは見えないマヌーゲルを遠く見つめている。

「宿は比較的高い位置にある。倒壊していなければ、おそらく無事だ」

 答えてやると、ソウは肩の力をゆるめた。

 と、思いだしたかのように、彼はふたたび口をひらいた。

「でもなんであんな無茶したのさ。死ぬかもしれなかったんだよ」

「立て。移動する」

 それだけ伝えて歩きだすと、あわてて立ちあがったソウがうしろからついてきた。

「ちょっと待ってって、もう」

「先日、マヌーゲル周辺の地図を見た。あの谷を流されたのなら、この近くに避難用の小屋があるはずだ」

「それは俺も見たけど」

「話はそれからだ」

 なかば強引に話をうち切る。獣の気配をふりきるように、さらに足を速めた。


 暗く、濁った夜だ。

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