(十)濁流

 宿から出たソウは、細い外部階段を下った。カンカンカン、と硬い音が響く。それは反響する重機の駆動音にぶつかって、そのうちに消えた。路地の縞鋼板もあいかわらず、鈍くふるえているものの、人の往来はなく、しんと冷えきっている。

 すこし歩いて、枯れた谷をつなぐ橋梁きょうりょうへ出ると、夜空がいくぶんか広く見えたが、月も星も見えない空だ。そのくせ、ギラギラと鉄骨の角を叩く光が、やけにまぶしい。それは、上流にある鉱山区域が夜もたえず稼働しているからだ。その光や音が、枯れた谷にはじけ響いて、この街中にそそがれている。

 すぐ脇の錆びたハシゴを降りると、中空にはねだした鉄骨に架けられた縞鋼板があった。落下防止柵はなく、なんのためにはね出しているのかはわからないが……ふと下を覗くと、暗い谷底が夜を一身に吸いこむように広がっていた。枯れた谷底は貧民街という話だが、灯りはひとつも見られない。

 向こうの鉱山区画から貧民街までを一直線につなぐ谷は、まるで狭量とした社会を表しているようだ。

 そのときだ。

 ドン、と大きな音とともに大地がふるえた。

(地震⁉)

 とっさにハシゴをつかんで備える。が、大きかったのはその一度だけだった。

 状況を確認するように見渡すと、鉱山区域の一画から、黒い煙が立ち上っている。

(爆発でもあったのかな)

 ソウは数歩身をのり出すように、周囲の変化を観察した。

 いくつかの連続した鈍い重低音と、細かい振動。もくもくと立ちあがった煙で鉱山区域の灯りはさえぎられ、ソウが立っている橋梁の下も薄暗い夜が垂れこめる。

 低く、夜がふるえている。

 細かく、細かく。

 だんだんと大きくなって。

 来る。

「ソウ!」

 裂帛を孕んだ低い声に、ソウはふりむいた。橋梁の上からのぞきこむように黒影が叫んでいる。

「黒影、どうして」

「なにをしている。いいから早く上がれ!」

 黒影は矢継早に叫んだ。

「呑まれるぞ!」

 黒い。

 視界が黒い。

 ついさきほどまで鋭い輪郭を帯びていた鉄骨のふちも、縞鋼板の錆びた表面も、黒くぼやけて見えにくく――、

(ちがう、暗いんだ)

 ソウはふりむいた。吹き抜ける風。上流の鉱山区域は、黒くさえぎられている。

 鉱山区域の灯りをさえぎっているのは、壁のようにたちあがった真っ黒な濁流だ。


 だから、暗い。


「ソウ!」


 黒い。


 ハシゴに足を掛けた黒影の手が、こちらへ伸びている。せいをつかめと急かしている。

 ソウはとっさにその手を――、


――あの細い腕で、濁流が襲う前にもちあげられるだろうか?

――もし途中で俺が濁流に呑まれたら、黒影もまきこまれてしまうんじゃないだろうか?

――だめだ。それは、ダメだ。正しくない。

――まちがっちゃ、いけない。


 黒影の手をつかもうとして、しかし、ソウはそれをやめた。


――死ぬときは、正しく死ななきゃいけない。

――か。

――もしくは、ような。


 濁流の壁が、ソウをおおうように影を落とす。

 むせかえるようなにおい。轟々とうねる濁流。

 呑みこまれる――刹那、ソウは目を見ひらいた。


 耳をふさぐ、鼓動。


(なんで)

 この傷だらけの汚い手のひらを、黒影の細い手がつかんでいた。

(アンタは、ただ殺しあいをしたいだけなんだろ?)

 細すぎるその腕に、抱きよせられていた。

(そしてそれは、俺じゃなくてもいいはずだ)

 疑問を声にする間もなく、

(なのにどうして)

 見上げた一瞬。

 黒影の鋭い瞳は、濁流を睨んでいた。


(君は俺を助けようとするの?)


 訪れたのは、衝撃。

 そして、暗転。

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