第二章

(一)雨宿りの樹

 湿気しっけた空気が、肩肌に触れている。

 黒影は、黒い刀身に付着した血をはらって鞘へおさめた。

 今しがた殺したワニを固い靴底で河へ蹴りもどす。それはどぷん、というくぐもった音とともに水面へ重くすいこまれたかと思うと、次の瞬間、飛沫がせわしなく立ちあがった。――これはなにごとか。見つめると、どうやらワニの死体へ、無数の魚が我先にと食らいついているらしかった。

 あの男が言っていた「怪我をしたら河に入るな」というのは、なるほどこういうことかと理解する。血のにおいにつられて、獰猛どうもうな魚がこうも食らいつくとは。

 すこしのあいだ、そのようすをしげしげと眺めていた。


 すんと鼻を鳴らす。土のにおいがわき立っている。じきに雨が降るだろう。

 おもむろに立ちあがって、ワニに襲われる前に釣りあげていた魚をいくつかぶら提げる。来た道をもどりながら、ふと考えた。いましがた、ワニの死体を喰いあさっていたあの魚も食べられるのだろうか。だとすれば――。

 そこまで考えて、空を見上げる。雨のにおいがいっそう強くなってきた。

 すこしばかり足を速める。

 雨そのものが嫌いというわけではないが、湿気た空気は嫌いだ。濡れるのもわずらわしい。

 決まって夕方に驟雨しゅううが訪れるこの森は、樹が高く密接にしげっているせいで、陽光はそれほど地面に届かない。日差しの暑さにこまることはない。だが、湿気ている。

 朝も、昼も、夜も。

 鬱屈うっくつとしていて、気にくわない。


***


 いうなれば、それは大きな竹箒たけほうきのなりをしていた。あるいは、タコの脚のような、とでも例えるべきか。ふつうは土に埋まっているはずの樹の根が、地面から太く、長く立ちあがり、人や動物が難なくその下をくぐることができる。その途中で足を止め、下から幹を見上げると、枝があみのように絡まって天井をつくっている。暗いせいで、枝の奥に何があるのかは見えない。増水すると、これらの支柱根は水に沈み、そこへ逃げこんだ魚が、ひらかれた樹の内部に迷いこむ。

 この〈雨宿りの樹テンパットティンガル〉は、食虫植物のように、昆虫や動物――とりわけ、魚などをとらえ、消化吸収して栄養をとるのだと、ナギが得意げに話していた。高木がいくつもならぶ生存競争の激しい密林で生きてゆく手段としては、興味深い。

 外側から、支柱根のひとつに足を掛けた。手で引くだけではびくともしない蔓を頼りに、樹の外周をまわりこむように登っていく。樹皮というよりも、枝が幾層いくそうにも巻いているようだ。そしてその隙間に割りいるように、蔓が繁茂はんもしている。


 少しのぼると、ある一定のところから突然、枝に葉がつき始める。これより上に登れば、増水しても水に呑まれることはないというのは、ここ数日の河の氾濫をまのあたりにして理解した。

 さらにのぼってゆくと、樹皮に割れ目のようなものが見られるようになる。ぽっかりと口をあけたそれは人間がひとり通れるくらいの大きさで、一定の間隔をもって、いくつもならんでいる。

 そのうちのひとつに入る。内側も、びっしりと這うように枝ばかり。人が三人ほど雑魚寝できるほら穴だが存外風通しはよく、しかし雨は降りこんでこない。

 とりわけその空間を印象づけるのは、頭上にぶら下がる翡翠色の花房の群れだ。藤の花のようにも見えるが、可憐で楚々そそとしたものかといえば、それはちがう。

 鉤爪かぎづめのように優美なはりのある曲線を描く花のひとつひとつは、親指ていどの大きさで、それらが房となって垂れさがり、こちらから奥まで鮮やかに埋めつくしているものだから、奇抜な華やかさがある。

「ああ、黒影」

 奥の方で座りこんでいたソウが、おもむろに顔をあげた。この異様に美しい空間の中でも、彼の金糸の髪はよく目立つ。まるで絹糸のような髪がさらりとひとつ揺れたと思うと、その怜悧な表情はとたんにほころんだ。

「おかえりなさい」

 どうやら、夕食の準備をしていたらしい。ソウは果実の種を取ったところで一度手を止めると、ナイフを置き、黒影を出迎えるように立ちあがった。りんと鳴ったのは、腰元にさげた猫の面だ。

「ナギさんもすぐもどると思うよ」

 ごく自然なその笑みを無視して、釣ってきた魚をおしつける。すると彼は目を丸くして高い声をあげた。

「わ、すごい。いっぱいだ」

 彼はしげしげと魚を見つめる。

「ありがとう。これならみんなでお腹いっぱい食べられるね」

 凛としなやかな目じりが甘く垂れて、青い瞳がいっそう微笑んだ。端正な身のこなしで隙がないように見えるが、彼の幼い顔立ちもあいまって、親しみやすい印象をつくっているのだろう。

「魚なら俺もさばけるから、ナギさんの負担も減らせるよね。雨も来るだろうし、先に内臓だけ落としてくるよ」

 ソウは一度もどって、置いていたナイフをていねいにぬぐい、右の太腿の武器携帯用革鞘サイホルスターへ差しこんだ。あらためて魚を手に提げ、ほら穴から出てゆく。街を出て一週間ほど過ぎるが、いつ見ても身綺麗な男だ。

 彼の背中を見送って、黒影は奥へ入った。むきかけの果実が、そのままに残されている。ひとつ拾ってみると、断面はみずみずしく艶やかで、甘い匂いがかぐわしい。腹がさほど減っているわけではないが、どんな味がするのかと、すこし興味をそそられた。

 ためしにひとくち。舌先を濡らしてみる。

「……存外、シブ味がつよいものだな」

 ほんのひとかけらを口にふくんだまま、黒影は眉間にシワを寄せた。

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