(九)ライの日記 その二
家が嫌いだった。
いつも、責められているような気がして、息苦しくて、生きづらくて。
兄貴はなんでもできる人だった。おれとちがって愛想が良くて、頭が良くて、運動もできて、器用で、仕事だってできて。でもそのくせ、文句のひとつも言わない。
おれを責めたりしない。なにも言わない。
いつも優しくて、完璧な人で。
だから嫌いだった。
でも、外はもっと、ずっと、たくさん、嫌いだ。
***
台所で、母さんが書き残したレシピを見つけた。
なんとなしにめくってみる。母さんの字は細くて繊細で、レシピには必要な材料と、その手順がざっくりメモていどに書かれている。たまにらくがきみたいな絵が描かれているのは、母さんのお茶目なところ……だと思う。
母さんが死んでから、兄貴は家事をするようになった。仕事が忙しかったこともあったけれど、兄貴はそれまで手伝いくらいしか家のことをやっていなかった。なのに、料理も、洗濯も、掃除も、ぜんぶ、なんてことないふうにこなしていた。
朝ごはんをつくって、昼ごはんをとりおいて、仕事へ出かける兄貴。
おれは起きて、朝ごはんを食べる。友達なんかいなかったから、家の中で、独りで遊んだ。毎日、夜になって兄貴が帰ってきたのを出迎えるのが楽しみだった。兄貴はおれの姿を見ると、びっくりするぐらい優しく笑って、安心したように「ただいま」って、言う。どんなに疲れていても、兄貴は笑った。
それから急いで晩御飯の支度をして、二人で話しながら食べて。
そんな生活があたりまえになった。
大きくなっていくうちに、おれはだんだん、嫌気がさしてきた。
――弟さん、最近どう?
――元気ですよ。僕より絵がうまいんです。
玄関先からそんな声が聞こえてくるたびに、耳を
おれはなにもできないのに、そんなふうにおれを褒めて笑う。おれはそんな人間じゃない。兄貴に認めてもらえるような人じゃない。
誇ってもらえるようなものなんて、なにももってないんだ。
おれは、なによりも自分が大嫌いだ。
母さんが残したレシピだって、きっと兄貴みたいにうまくつくれない。
自嘲ぎみにレシピをめくっていると、あることに気がついた。
レシピに書きくわえられた、母さんの字じゃない誰かの字。
理路整然と並んだ文字列は、手順や工夫を
『湯切りは、湯気による火傷に注意』
『火加減は必ず守ること』
『味付けに失敗した場合は、香辛料を加えて別の料理にすることが可能。その場合は』
説明書か、とつい笑ってしまった。
味気もそっけもないその字は、兄貴の字だ。普段あれだけ愛想がいいくせに、きっとこういうところがあるから恋人だっていやしないんだ。
そのあと、家の中で、母さんのものじゃないメモをいくつも見つけた。皿の洗いかた、調理器具の手入れ。片づけの方法。細かい注意点や失敗したところ、それの解決策を実践してからの改善案。どれも緻密に、ていねいに記している。家のいたるところに、兄貴は書きおきを残している。
おれは知らなかった。兄貴はいつも兄貴で、平然となんでもやってしまうから、そういう人なんだと思っていたんだ。
はじめて知った。
こんなに失敗して、たくさん考えて、重ねてきたんだ。
思えば、おれは兄貴が朝寝坊している姿を見たことがない。
思えば、おれは兄貴が文句をいっているようすを見たことがない。
思えば――……。
おれは、兄貴が泣いているところも、感情的に怒っているところも、見たことがない。
だって、いつも笑っていて、たまにこまった顔をして、危ないことをしたら、真面目な顔で叱って、さとしてくれた。
兄貴はいつだって優しくて、完璧な人で。
蛇口から落ちたしずくが、皿の水に落ちた。小さく跳ねた音がした。
呆然と部屋の中を見まわす。
そういえば、台所が汚れてきた。おれが読んだ本はそのまま置きっぱなしだ。先週ごみを出すのを忘れてしまったんだっけ。洗濯ものを畳むのが面倒くさくて、いつの間にかソファに山ができている。
花瓶の花が枯れていることに、いまさら気づいた。
家の中って、こんなに暗かったっけ。
こんなふうに、広かったっけ。
いつも聞こえていた鈴の音がしない。
兄貴が、いない。
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