(六)どうせ死ぬなら
かつてここは、天の翼を持つ者たちの国だったらしい。壁画に残された光景では、芳醇なワインを片手に果物を
有識者が言っていた。魔導時代崩壊の発端となったのはイグラーシャだと。この絵画こそ、当時を紐解く鍵になるのではないか、なんて。
白は死の色であり、魔につらなるものの色だ。どこの子どももそう教えられる。
そして魔狩が相手にするのは、魔種と呼ばれる魔につらなる魔獣や魔物――それらすべてだ。とうぜん、死は背中合わせに存在する。
いつか、こんなときが来るんじゃないか、と思っていた。
けれど、それは思ったより突然だった。
***
「ここが
トビがひょうし抜けだとでもいうように、目をまるくした。
そこは遺跡の最奥。がらんどうの聖堂だった。濃い瘴気と獣の臭いが混ざった空間は、つい先ほどまで、ここにダイオウルフがいたことを示している。建物の一部を細かく砕いたのだろうか。瓦礫が混ざった砂地の山には、ダイオウルフの真っ白な抜け毛がいくらか見られる。フンや餌のカスがないところを見ると、ここを寝床にしていたのだろう。大人の男が三人、寝転がっても、かなり余裕がありそうだ。
柱に残された爪痕を、ソウは
おのおのが、すみからすみまで調査を進めるものの、特にこれといって有益な手掛かりは得られない。
「フンも餌のかすも、どれも最近のものばかり。以前からここにいたとは考えにくいね」
「けどよ、ほかに怪しいとこなんかなんもなかったぜ? ここになかったら、バカでかいダイオウルフはなんでこんなところを急に根城にできたんだよ」
トビの声に、ソウはわからないと首を横に振った。
そのときだ。
轟音。破壊音、というのがおよそ正しい。風圧。振動。ソウはトビと同時に、ふりかえった。まず目にしたのは、聖堂の壁が瓦礫となり、派手に崩れとぶ一瞬。さしこんだ陽の光が聖堂を乱す。反対側の壁ぎわでとっさに剣を抜いたのは、隊長だ。彼の姿をさえぎるように、大きな何かが聖堂をめちゃくちゃにするように転がった。砂が舞い、陽光を反射する。
唖然。派手に血を散らしながら起き上がった白い魔獣は、見上げるほどの巨体。
(――思ったより、大きいな)
ソウは悠然と見上げた。想像していたよりずっと大きく、目の前にするとその威圧感は凄まじい。いつも仕事で相手にしている魔種とは、けたちがいだ。
現状を一瞥する。ソウからやや離れたところに、若い二人の魔狩が腰を抜かして呆然と魔獣を見上げている。さいわい瓦礫にはまきこまれなかったらしい――が、恐怖にすくんですぐに動ける状態ではない、というのが見てとれた。
驚愕の声をあげたのは隊長だ。
「ダイオウルフ⁉ 今は他の部隊が相手をしているはずではないのか!」
作戦では、そうだ。本隊がダイオウルフを遺跡内からおびき出し、足止めをしながら、討伐にあたる。そのあいだに、ソウ達の部隊は魔獣の出所をつきとめ、必要に応じて対処し、本部へと情報をもちかえる。
「オオオオオォォォォォォオオオオオオオオオォッ!」
ビリビリと空気がふるえる。ソウは腰もとにさげた猫の面に触れながら、本能から生じる恐怖を逃がした。
新しい血にまみれた、ぬらりとみずみずしい獣の爪。鋭牙。
――いったい、どれだけの魔狩を殺した?
とびあがるように体制を立てなおしたダイオウルフ――聖堂の壁が崩れてからここまでが、ほんの一瞬の出来事だということを、この場にいる魔狩のどれほどが理解できただろう。
「退避! 退避しろ! この場は――」
隊長の声は、真っ白な毛並みの尻尾にしなやか打たれ、穿たれた。防具と筋肉の鎧に包まれた太い体躯から、鋭利な棘がとび出る。その白い棘に押しだされるように、肉片が弾け、血がふきだす。
誰かが息を呑んだ。尻尾の毛並みに隠れるようにして、無数に覗いている、鋭利な骨の棘。
――仮に胴体がつながっていたとしても、おそらく助からない。
りん、と猫面が、小さく鳴いた。ソウはそれらの光景を見つめたまま、背中に手を回した。片刃曲刀の柄に、指先を触れさせると、ピリとわずかな刺激が走った。
白は、死の色。
魔に連なるモノの色。
世界は、今、この瞬間。巨大な白い恐怖に支配されている。
――いっそ、焼きはらったほうが早いだろうか。
「いや、ダメだ」
考えて、しかし指先をはなした。
いま魔導武具で雷撃を放てば魔種は倒せるかもしれないが、それはすなわち、この場にいる魔狩すべてを殺すことになる。
〈魔狩は、人命救助をおこなう。より多くの人命を優先すること。このとき、個人の感情によって行動することは、多くの人命、ひいては人類の未来を失うと心得よ〉
ソウは心の中で、魔狩の行動指針を
「トビ、君は動けるね?」
背中ごしに訊ねる。後ろで、トビが静かにうなずく気配がした。
隊長は死んだ。まもなく、魔獣の白濁した瞳は次の獲物をとらえる。血走った眼が、ぎょろりと
――殺意の先が、さだまった。
その、瞬間。
風を切る音より速く、白い魔獣が赤い血しぶきを派手に散らして、吠えた。なにが起こったのかを理解できたのは、その数瞬後。黒く長いなにかが、視界をかすめた。
「っはははははははははははははははは!」
まるで、咆哮のような、獣じみた笑い声。黒い刀身が、一瞬の緩みを経て、鋭く振りぬかれる。鮮血。ぶちまけられた赤色が、真っ白な、その人物の痩せこけた頬を汚す。
「あれは」
――いつか聞いたことがある。
近年、誰とも組まず、本部からの指令も無視して、ただひたすらに魔物を狩り尽くす孤高の魔狩がいる、という。その姿を見た者はおらず、男か女かもわからず、名前すらわからない幻のランクS。知られているのは派手に積みあげられた討伐報告の山と、通り名のみ。
――
戦いの前に見たその姿は。
いま目の前に君臨する存在は。
まさにその呼び名を冠するにふさわしい。
刹那、魔獣の
ソウはかけだした。
「おい、ソウ!」
「トビ、ほかの二人をお願い! 俺はあの人を援護する」
振りはらわれる瞬間、黒影は驚異的な体の動きで、受ける威力を最小限にとどめたことが、ソウにはわかった。これでも目はいいほうだ。おそらく、黒影はまだ戦える。
「ふふふ、はっはははははははははははは!」
ずるり。長く重い髪を引きずるように、ぬらりと立ちあがって、黒影は笑い声をあげた。劣勢であれほど楽しそうに声をあげる人間の気は知れないが、今はそんなことを気にしている余裕はない。背中の二振りの曲刀を抜きさる。
「
瞬間、いっせいに泡立つように、体内を細かな刺激が広がった。逆流するようにねじれ泡がふきだすようなこの感覚は、いまだに慣れない。むしろ、この感覚はソウにとって好ましいものではなく、できるだけ使いたくないものだった。
総毛立つ
普通に走ったところで間に合うことはないが、魔導武具を起動させた今なら――。
遠心力で黒影を叩きつけようとする尻尾の前に、ソウは雷光の残滓をまといながらすべりこんだ。その流れにそうようひと息に打ちあげ、軌道をはずす。細かい電流が、その軌跡をたどるようにきらめいた。
「まだ動ける? 援護する!」
「いらん!」
黒影の尖った横顔は、笑っている。
一見めちゃくちゃな戦いをしているように見えるが、黒影の太刀筋は洗練された命を狩るためのものだ。一目見ただけで、黒影と
トビがまだ生きている二人のもとへたどり着いたらしい。
彼らが戦場を離れるまでにはまだ時間がいる。これが安息とした日常なら、その時間はお茶を飲む間に過ぎてしまう短いものだ。だが戦場でのこの時間は、あまりにも長すぎる。
ソウは黒影をまきこまないように、魔導武具が発する電流を細かく制御しながら、魔獣の猛攻をしのいだ。
「防御戦は得意じゃないんだけど、な!」
斬りあげて、攻撃を受けながす。
そもそも、魔獣と人間がまともに戦おうなんて、どだい無理な話だ。人間は簡単に死ぬ。だから、魔狩は魔物とわたりあうために、こうして魔導武具を使う。
魔導武具は強力だ。戦争にもちこめば、たった一人でどれほどの命を奪えるだろう。上位の魔狩は、兵器といっても過言ではない。だからこそ、あつかう人間には資格と制約が与えられる。国家を脅かさないため、人類の存続を守るため、中立であり、模範的であり、等しく命を助けなければならない。
「はははははははっ!」
黒影が斬り、魔獣は砂埃を立てて盛大に転がった。が、
(最悪だ!)
その先を見て、ソウはとっさに
撤退しようと移動をはじめたトビの目の前で、魔獣がゆらりと立ちあがる。命の危機に激昂する魔獣が、本能のままに殺意を向ける標的。考えるまでもない。
鋭い爪が地面を踏みしめて、強靭な前脚を振りあげ――。
「ああくそ!」
舌打ちをして、地面を擦るようにトビたちの前にすべりこむと同時に、三人をつきとばす。旋回する身体の動きに乗じて、諸手の片刃曲刀をまとめて魔獣の前肢につきたてた。
「ッあああああああ!」
トビたちをまきこまないように制御しながら魔獣に電撃を流しこんだが、さすがにこの一瞬で自分を除外するほどの時間はなかった。
「ソウ! お前!」
「優先すべき命を優先しろ!」
叫ぶ。気遣っている余裕がない。痛い。指先がちぎれそうだ。痺れて、身体中が激しく脈動する。
背後から気配がはなれて、数秒。ソウは魔獣に振りはらわれて地面を転がった。遅れて、曲刀が地面に叩きつけられる――すぐに、身体を起こす。
もうすこし。まだ、もうすこし。
(彼らが安全な場所に逃げられるまで)
息を吐きながら立ちあがる。奥歯を噛みしめて、ぐらついた足をとどめる。まるで足がずたずたに引き裂かれてしまったみたいだ。痛い。本当にどうして、こんな仕事をしているんだろう。ああくそ。こんなに痛い仕事なんて、そのうちやめてやる。冗談じゃない。
「黒影! 救助者の退路を潰すな! アンタならそれができるだろうが!」
ソウは曲刀を拾いながら、魔獣に斬りかかった。
魔獣の鋭い爪をかわして、黒影の背後に迫る尻尾の尖端をはらう。自分の曲刀では、攻撃の軌道をそらすのが精々だ。
「うるさい指図するな! 弱いヤツは死ねばいい! ワタシの知ったことではない!」
「君もたいがい口が悪いな!」
視線をすべらせる。魔獣がなにかを吐きだした。飛沫が頬に触れる。じゅ、と熱く灼ける。ああ、また、痛い。酸だろうか。その液体は、大きくかたちをゆがめながら、二人をおおうように広がった。だが、黒影はそれをまるで見ていない。見えていないのではない。迫ると知りながら、なお足を踏み出し、大太刀を振りかぶっている。
(こいつ、死ぬつもりか?)
信じられない。
ソウはトビたちを見やった。小さくなった後ろ姿。それをむかえ、魔物の追撃にそなえる前線の魔狩たち。
酸とともに迫る鋭利な尾棘。
おかまいなくとびこむ黒影。
この場で逡巡する、自分。
優先すべきものは――。
「悪いけど、君をまきこむよ」
りん、と腰にぶらさげた猫の面が鳴る。乾いた音とともに、小さな光が細く舞った。
「
父親は、魔狩だった。
世界を脅かす〈白〉色の魔種と戦う父の背を見て育ったソウは、幼少から自然と魔狩に必要な知識や技術をたくわえていくことになり、結果的にソウ自身もまた、魔狩となったのはごく自然な流れだった。
不幸は両親が早くに他界したことで、
ソウは十八歳とすでに成人していて、また魔狩として手に職があった。
――ライを、お願い。
母が亡くなる前に残した言葉が、鈴の音とともに反響する。
「――雷撃」
ソウは雷撃で一帯を焼きはらった。
――……。
乾いた風が、砂地をなぞってゆく。
ひりひりと、焼かれているようだった。
ジリジリと痛くて熱い。
熱い。
「っつぅ……」
頭痛がする。
全身がきしむ。
感覚が徐々にもどってくると、痛みがぶりかえした。正直、泣き叫んでやりたいところで、しかしそれをしなかったのは、そんな余力もない満身創痍だったことに加え、誰かがいるな、と思ったからだ。気配は薄いが、誰かがいる。そしてそれは、自分を見下ろしている。
「ワタシまでまきこむとは、いい度胸だな」
真っ白な顔面に、落ちくぼんだ三日月の目。なにも映していないような、暗くよどんだ瞳からは、殺意がにじんでいる。痛いほどの陽光が、地面すれすれにぶら下がる大太刀の切っ先を鋭利に光らせた。どうしてあれだけの雷撃を受けて、そんなふうに立っていられるのかわからない。こいつは化物だろうか。
勘弁してくれ、とソウは内心頭を抱えた。そんなしぐさができるちからも、目の前の殺意に対抗できる手段も、今はない。せめて死ぬなら、魔種に殺されるだとか、そういった
「ひさびさに痛かったぞ」
地の底を這うような声。どうやら、黒影の怒りを買ってしまったらしい。視界がかすんで、黒影の表情は見えない。
「キサマ、死ぬのか」
ソウは黒影の声を聞きながら、地面に転がっていた猫の面へ手を伸ばした。
伸ばしたかった。
あれは、大事な形見だ。
「生きたいのか」
「知ら、ないよ……。そんなの」
人間は死ぬときは死ぬ。それは自分の願望に関係なく、他者の願いすらきかず、およそ理不尽にそのときは訪れる。ソウはそのことをよく知っている。
「ききかたを変えてやる。楽になりたいなら、雷撃の礼に介錯してやる。自分で死ね」
――ああもう、ごたごたとうるさいな。
ソウは細く、息をこぼした。考えるのが面倒だ。もう、言葉の半分も理解できない。
「言ってみろ。キサマの欲望はなんだ」
「俺は――……、」
ぼんやりと、地面が発光しているように思えた。太陽に照らされた地面が熱をもっているからだろう、と考える。
温かい。
ふわり。身体が浮くようだった。
――ああ、こまったな。俺が死んだら、弟はどうするんだろう。ちゃんと仕事について、ひとり暮らしができるだろうか。誰かにいじめられて、泣いたりしないだろうか。
ソウは静かに、まぶたをおろした。
どうせ。
家族四人ですごした時間なんて、もどってこない。
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