ボンボル
物心がついた頃には、ボンボルに両親はいなかった。
父と母の顔は覚えていない。写真さえも手元にない。
ただ、村長が語る話と生前母親が買ってくれたという、古びた絵本が手元に残るだけだった。
ボンボルは村長の家で育った。皇国の外れの小さな村で、自然に囲まれながら、農作業を手伝い日々を過ごしてきた。
村長は寡黙な男で、あまり多くを語らなかったが、その瞳の奥に時折見せる憂いが、ボンボルの心に深く刻まれていた。
早くに両親を亡くしたボンボルを、哀れに思ってもその処遇には困り果てていたはずだ。幼いボンボルを引き取り育てたのは、村の長としての義務感からだろう。愛情というものには、恵まれない幼少期だった。
村長に子どもはおらず、村にも同年代の友人のいなかったボンボルは自然と本に親しむようになった。辺鄙な村に子ども向けの本など多くはなかった。覚えたての文字で必死に読み耽っていたのは、母が買ってくれたという、『アルスリア戦記』。
母親は村の人間ではなかったと、村長から聞いていた。村の戦士だった父親がどこからか攫ってきた、美しい娘だったと。その素性は、村長さえも把握していなかった。
ボンボルが生まれてすぐに死んだ母親は、元々病気がちだったという。戦士だった父親も、ボンボルが二歳の時に村の付近に出没した魔物の討伐に赴き、生きて帰ってはこなかった。父方の祖父母は、父親がまだ小さかった頃に、村の近辺で起きたある事件の被害者となり命を落としていると聞いている。
親類が次々と若くして命を落としたボンボルを、村の人間は避けていたのだろう。
寡黙でなにを考えているのか分からない村長と二人、孤独な幼少を過ごした——
転機が訪れたのは七歳になったころだ。村に、一人の男が訪ねてきた。中年から初老に到達しかけていた男は、旅の魔術師だという。
魔術師は村に滞在している間、やたらとボンボルに話しかけてきた。村での生活のこと、農作業のこと、ボンボルの好きなこと……そして、両親のこと。
両親は物心つく前に他界しており、まったくもって覚えていないことを打ち明けた。生前母が買ってくれたという絵本のみが、自身に両親がいた証だという話をすると、魔術師は悲しそうな表情をした。
その晩、夜中に村長の家を訪ねてくるものがいた。すでに布団に潜っていたボンボルには最初、誰が訪ねてきたのかわからなかった。
ボンボルの眠る隣の部屋で、訪問者は村長となにかを話し込んでいるようだった。当初は穏やかに進んでいた話し合いも、次第に熱を増してきたらしい。言い争うような二人の声が聞こえ始めた頃、訪問者はあの魔術師だということに気付いた。
議題の内容までは分からなかったが、寡黙でめったに感情を表に出さない村長が、あれほどまでに声を荒げていたという事実が強烈にボンボルの印象に残っている。
次の朝、ボンボルは魔術師に声をかけられた。
「私はもうすぐこの村を発つ。旅を続け、今度は皇国の外に行くつもりだ。——よければその旅に、君も一緒についてこないか?君には戦士としての才能がある。一目見た時から分かった。道中私が指南する。考えてみてはくれないか?」
ボンボルは迷った。村の外の世界、それは、ボンボルにとって未知のものだった。幼き頃から母の残してくれた『アルスリア戦記』を何度も読み返しては、各々の勇者たちが繰り広げる壮大な冒険譚に胸を躍らせていた。いつか自分も、そう考えたことは一度や二度ではなかった。
しかしそれと同時に、生まれ育ったこの村を離れていく。それは、ボンボルの胸に込み上げてくるものがあった。
決していい思い出の詰まった村ではない。しかしそれでも、自分にとっての唯一の故郷、その事実は変わらない。
畑を耕す腕を止め、近くで作業に励む村長を見る。なにか言葉を発することもなく、黙々と作業に勤しんでいる。ボンボルが物心ついてからというもの、毎日見てきた光景だ。
「村長。俺、魔術師のおっちゃんに一緒に来いって言われたんだ」
「……そうか」
村長の気持ちが、ボンボルには分からなかった。数年という時間を過ごしてきたが元々は赤の他人。しかも他の村人たちには避けられているボンボルだ。幼心に、申し訳なさを感じていた。
農作業の帰り、魔術師の元へと立ち寄った。旅へと同行する旨を、伝えるために。
魔術師は嬉しそうな表情を見せた。ボンボルの才に惚れ込んでいるのは聞いていたが、誰かに自分が必要とされているという初めての感覚に、胸の奥から嬉しさが込み上げてきた。
「……出発は三日後だ。それまでに、村長に別れを告げておけ」
一転、悲しそうな表情を見せた魔術師に疑問を感じるも、言われた通り村長の家へ行き、村から旅立つことを伝えた。
「……そうか」
数年間ともに過ごしてきた、ボンボルにとって育ての親から掛けられた言葉は、質素なものだった。
翌日も、その翌日もいつもと変わらない日々をボンボルは過ごした。
朝早くに起きては村長と共に畑へ行き、会話もなく黙々と作業に勤しむ。数年間、変わらなかった日常。ボンボルの目から見て、別れを惜しんでいる様子はなかった。
旅立ちの前夜、いつもと同じように村長と夕食を囲んだ。質素な食事ではあったが、ボンボルにはなんの不満もない。身寄りのない自身を、義務感からとはいえここまで育ててくれた村長には感謝していた。
「……村長、ありがとな。これまで」
自然に口をついて出た言葉は、ボンボルが初めて口にした、心からの感謝だった。
食器を片付け、いつもと変わらず床に就こうとしたところを、村長に呼び止められた。
「……本を、読んでやる」
その晩、ボンボルは初めて絵本を読み聞かせてもらった。内容はもう既に知っていた。ボロボロになるまで読み込んだ、『アルスリア戦記』だ。
もはや新鮮味のない話であったが、誰かの口から語られる物語は、初めて読んだ時のように、ボンボルに興奮を与えた。
翌朝、魔術師が迎えに来た頃には、村長はもう畑へと出掛けた後だった。
魔術師は、これまでに見たこともない出刃包丁のよう大剣を抱え、やってきた。
ローブについた土を払うと、家の中へ上がり込む。
「畑の土は服につきやすいな」
困ったような顔をする魔術師に、畑へ寄ってきたのかとボンボルは疑問を感じた。
「……その本は、持っていかないのか?」
机の上に置かれたままの、ボロボロの絵本を見つけた魔術師が尋ねてきた。
「いい。これから絵本より楽しい世界が待ってるからよ。この本はもう、村長に捨ててもらう」
「……そうか」
村長と同じように、短く言い放った魔術師に迎えられ、ボンボルは、村から旅立った。
「二十歳になったら、お前がこの背中の大剣を扱いこなせるようになったら、一度村へ帰るぞ」
出立してすぐに、魔術師はボンボルへそう声をかけた。
「うん、分かった」
七歳の少年にとって、二十歳を迎えるなどまだ先の話。特になにも考えず、そう返事をした。
「……それとこれから私のことは師匠と呼びなさい。君も、『ボンボル』と名乗れ。旅の魔術師は、素性を明かさない方がいいこともある」
それからボンボルは師匠の元で修行に励んだ。
魔力量はどうやら人並み外れた量を持っていたようだが、魔法の才能はこれっぽっちもなかった。当初は魔法の修行をつけられたがすぐに方針転換し、剣士として育てられた。
頭脳面においても光るものはなかったが、剣士の才だけは本物だった。
修行を始めてすぐに頭角を表し、傭兵として活動する師匠とともに、戦果を上げ続けた。
恐ろしい速度で成長を果たしたボンボルが十歳になった頃、大陸で大きな戦が起こった。後に『列国戦争』と呼ばれることになるこの戦いに、ボンボルも傭兵として雇われ従軍した。
民間人にまで被害の及んだ泥沼の戦争においても、ボンボルは小さいながらも物資を運び、民間人を保護し、戦線において戦った。
長期化する戦争は各地に癒えない傷を残す中、その悲劇はボンボルにも襲いかかった。
十四歳になった頃、七年間を共にした師匠が、戦死した。
全ての属性魔法を使いこなし、体術にも秀でていた師匠も、寄る年波、そして前線の過酷さには敵わなかったのだろう。
師匠との生活は、村での生活とは違い過酷なものだった。
厳しい修行に加え、傭兵として雇われ戦う日々。必要以上の報酬を受け取らない生活は贅沢できるものではなかった。
それでも、厳しいながらも優しく、なにより誰かに必要とされる喜びを教えてくれた師匠の死に、ボンボルは涙を流した——
師匠の死後、ボンボルは冒険者として活動を始めた。きっかけというきっかけはない。ただ、終わりの見えない戦争に、人間同士の殺し合いに嫌気がさした。ただそれだけだ。
昔読んだ『アルスリア戦記』の英雄たちのように、各地を転々として渡り歩いた。
一箇所に拠点を落ち着けないボンボルは基本一人であったが、その強さに比肩できるものがいないのもまた事実であった。
どんな仕事も脅威的な速度で片付け、どんな魔物にも臆する事なく立ち向かうその姿に、いつしか『怪人』との異名をとるようになった。
戦争も一応の落ち着きを見せ、十九歳となった頃、ボンボルは連合国と城砦国の国境付近の街を拠点に活動していた。
傭兵として七年間、冒険者として五年間活躍し、十分な備えもできあがっていた。ボンボルは、村を発つ時師匠に言われた言葉を思い出した。
(二十歳になったら一度村に帰る、か……)
あの時は遠い未来だと思っていたその時は、もう一年後の未来だ。
(帰るか。村に。皇国に)
皇国には軍がある。その中でも皇聖隊と呼ばれる組織は他国に名を轟かせる猛者の集まりだ。帰国し、皇国軍に士官することを目標に定めたボンボルに、新たな出会いが訪れた。
「よぉあんちゃん。なにしてんだ?」
「うわぁっ!!」
街外れの教会前、ぶつぶつ独り言を呟きながら歩いていた青年に声をかけた。街の人間じゃない。しばらく拠点に据えていた街の人間の顔はだいたい把握していた。
旅人風の身なりの青年は、声をかけられたことにひどく驚き動揺を見せた。こういう反応を見せるのは、人に知られたくない秘密を考えてるような人間だ。
「この街に来たばかりで迷ってしまっていて……」
その言葉は嘘ではないだろう。監視の意味も込めて、ボンボルは青年に街の案内をかってでた。もうじき離れていく街ではあるが、平和な日々が続いてほしいと思うくらいには、愛着が湧いていた。
「あんちゃん、名前はなんてんだ?」
街を案内しながら尋ねたボンボルに、青年は少しだけ考えるような素振りを見せてから口を開いた。
「……『レンカ』といいます」
偽名だ。すぐに分かった。自分と同じく、名を隠している。流れの傭兵かとも思ったが、悪さをしようなんていう嫌な気配は感じない。
聞けば、城砦国で魔物の侵攻を食い止める傭兵として働いていたようだ。十分な資金が貯まったことをいいことに、世界を見るために旅を始めたばかりだと。
昔、『アルスリア戦記』の英雄たちに憧れていた自分自身を思い出した。
これからの職に困っているという青年に、ほんの気まぐれから自身と同じ冒険者稼業を紹介した。しばらくは面倒を見てやると言ってやると、レンカは嬉しそうに、世話になる、と返してきた。
レンカはボンボルが考えてた以上の使い手だった。特に封印術には目を見張るものがある。ボンボルの師匠でさえ扱えなかった魔法を容易く操作し、戦術面においてはボンボルが教わることの方が多かった。
当初、少しの期間だけ面倒を見るつもりだったレンカとは、気付けば息のあったコンビとなっていた。ともに街を出発し、次の街へ着いては依頼をこなしてまた次の街へ。
そんな生活を一年ほど続けた辺りで、突如として、レンカは姿を消した。
レンカの泊まっていた部屋に、争ったような痕はなかった。奇妙な事といえば、服さえ持たずに姿を消してしまったということだ。
兆候がなかったわけではない。最近、どうも様子がおかしいとはボンボルも感じていた。
近頃レンカが口にしていた『赤い商人』が関係しているであろうことはほぼ確実であったが、ボンボルはそのような商人にまったくもって心当たりはなかった。
成り行きとはいえ、一年間行動を共にした相方が突如として失踪するとは考えておらず、さすがのボンボルにも堪えるものがあった。
しばらく街へ留まり、帰りを待ってみたが、戻ってくるような気配はなかった。
レンカが失踪して一月が経った頃、ボンボルは二十歳を迎えた。
(皇国へ行くか)
もう彼は戻ってこないだろう。皇国へ向け街を離れることを決め、最後にと街の酒場へ顔を出した。
騒がしい店内のカウンターに座り、慣れない酒を流し込む。酒の得意でないボンボルはすぐに酔いが回ってきた。
「隣、失礼するよ」
一人で酒を飲むボンボルの隣に、老婆が腰を下ろした。
「若い男が一人でやけ酒かい?色気がないねぇ。レディが一杯付き合ってやるよ」
老婆は安酒に上品な仕草で口をつけると、ボンボルに尋ねた。
「……なにか困りごとかい?ばあさんに話してみな」
この老婆に相談したところでどうにかなるはずもない。しかし酒の入ったボンボルは言われるままに、これまでの生い立ちから今までを打ち明けた。
「そうかい。——皇国に行くってんなら、冬を超えた時期がいいんじゃないのかい?」
静かに話を聞いていた老婆が漏らした言葉に、確かにそうだと感じた。厳しい冬を迎えている皇国を目指すには、時期が悪すぎる。
「……それに、もう少し待てば、きっといい出会いがあるさ。老婆の勘だよ」
「頼りになりそうにねぇな」
「年寄りの勘は当たるもんだよ」
「ばあさん、いくつなんだよ?」
「……八十……いや八十一だったかね?……ん?七十九だったような……まぁそのくらいさ」
自分の歳も忘れてしまうくらい、数字には弱いようだ。やはり頼りにならないと思うも、皇国には冬を越してから出発することに決めた。
翌朝、ボンボルはフィラーテを発った。冬の間、皇国にほど近いクロトヴァの街で過ごすことに決めた。
クロトヴァでもパーティを組むことはなく、一人で冒険者活動を続けた。だがこの一年間、常に隣にいた仲間がいないということに、ボンボルは寂しさを感じた。
冬の終わりが近づいてきたある日、ボンボルは街道沿いの魔物の討伐の任務を請け負った。
戦争により、冬の時期も活発に活動していた魔物たちの動きはまったくもって読めない。その日も街道に出現する魔物を狩り倒しながら、宿屋に帰ったボンボルは——黒髪赤眼の青年と、出会った。
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