慈悲深い創世神
鼠色の雲が空を覆い隠す午前中のクロトヴァの街近郊には、冷たい風が吹き抜けていた。
アルスリア大陸は一年を通して寒冷な日の続く土地である。四季と呼ばれるものは存在するが、怜の元いた世界——日本の四季と比べると、夏は涼しく冬は耐え難いほどの寒さになる。
現在の季節は春。冬を乗り越えた土地では、独自の進化を遂げた動植物たちが活発になり、実りをもたらし始めていた。
だがそれとともに、望まれざるものたちも活動を始める。
冬眠から目覚めた、あるいは冬をじっと耐え忍んでいた魔物たちの活動も、活発になり始めていた。
その脅威は、数多くの冒険者を有するクロトヴァの街近郊においても同じくだ。毎年、近郊の村々では魔物の被害が多発している。農作物を荒らし、時には人に危害を加える。
村にも正規兵や冒険者ほどでないにしろ、腕に自信のあるものや自警団が常駐していることがほとんどだ。
ゴブリン程度の魔物なら、多くの村で問題なく自分たちで対処可能だ。ギルドに討伐の依頼が舞い込んでくることは、それほど多くはなかった。
しかし近年、そのような様相も変化してきている。原因は戦争だ。
諸国を巻き込んだ『
その戦争は魔物の生態にも影響を及ぼしていた。
冬の間、例年ならおとなしい魔物たちも戦火に冬眠を阻害され、冬の寝床を焼き払われて各地で暴れ回っていた。
街道沿いで魔物の群れの襲撃に遭った、強力な魔物に村を襲われたとの報告も数多くきている。そのような魔物たちは、季節が変わってもなお精力的に暴れ回り、街の近郊にまで出没するようになっていた。
人同士の戦争は魔物の生態に影響を及ぼし、そしてそれは人の生活の脅威となり、人々に少なくない影響を及ぼしていた——
ドガンッという大きな爆発音と共に、冷えた風を熱風が押し流す。
爆心地を中心に舞い上がった土煙と煙幕が晴れた頃、その中央からは魔物であったであろう物体が姿をあらわした。
「ふぉー。えっぐい火力だな」
焼け焦げた死体を見て、ボンボルが奇声をあげる。
「再生能力を持つトロールだ。再生できねぇようにウェルダンにしておいた」
転がっている死体はトロール。付近の村々を襲い、被害が出ているとギルドに報告が上がっていたが、今朝方クロトヴァ近郊で発見され、怜たちが討伐に赴いた。
「こいつは俺様一人じゃ無理だな。斬っても斬っても再生しやがるからよ。トロールの心が折れて逃げ出すまで、何度も粉微塵にしてやるしか手がなかった。助かったぜ兄ちゃん」
さらりとトロールの恐ろしい対処法を聞かされ、顔が引き攣る。
ボンボルの剣士としての強さは前回の戦闘で目の当たりにした。それが十分可能であることは、
焼け焦げたトロールを、ボンボルはステーキ肉をカットするように大剣で斬り分ける。
「木偶の坊お前……それ食ったりしねぇよな?」
「は?何言ってんだよ?こんなもん食えるわけねぇだろ。今日の飯がなくても食わねぇよ。数日飯抜きなら考えるが」
(しばらく食ってなかったら食うのか……)
昨日はギルドを後にした後、街を散策し、ボンボルの行きつけだという店で食事をとった。
報酬が入ったことをいいことに、盛大に食い散らかすボンボルを見て、この計画性のなさが金欠に直結しているのだろうと断定した。
散策した街の様子を見るに、クロトヴァは至って平和を維持していた。
街は人の往来が多く活気に溢れ、女性や子どもの一人歩きも珍しくはなさそうだった。
連合国の端に位置するクロトヴァは、隣国のエルセナ皇国とも距離が近い。
神聖国の次に長い歴史を誇ると言われる皇国は、建国から数多の戦いで勝利をあげ、領土を拡大してきた。
しかしここ百年ほどは、侵略的戦争を仕掛けることもなく、自国の国土の平定、維持に努め、周辺国とも友好的な関係を築いていた。
自国防衛の思想の強い連合国に属し、少なくとも現時点では侵略の意思を示さない皇国に隣接したクロトヴァは、両国の交易の拠点として発展を遂げているとのことだ。
豊かな都市である分、腕のたつ冒険者も多くこの街に拠点を据えている。日本を彷彿させる治安の良さを維持するクロトヴァには、隣国で戦火が広まった様子は微塵も感じなかった。
「兄ちゃん、採取完了だ。早々に終わっちまったな、まだ昼前だぜ」
「早いに越したことはねぇだろ。午後はのんびりできるってもんだ」
「それもそうだな。昼飯は今日は行きてぇとこがあるんだ。冒険者の生き抜く手段ってやつを兄ちゃんにも教えといてやる」
魔物か?魔物を食うのか?と、丸こげになったトロールを見ながら、怜は最悪の事態を想像する。
「安心しろや。ちゃんとした飯だ。魔物じゃねぇ」
怜の表情と視線から、考えていることを察したボンボルが、魔物食を否定する。落ちてるものでも嬉々として食らいつきそうなボンボルだ、生き抜く術として魔物の調理法でも教えられると思っていた怜は安心する。
「兄ちゃん、今すげぇひでぇこと考えなかったか?」
今日もボンボルの危機感知能力は優れているらしい。相変わらずの小動物っぷりだ。
「なんも考えてねぇよ。昼は楽しみにしておくぞー」
気持ちのこもらない怜の返事を聞いたボンボルは、まぁいいけどよと、街の方へと歩き始めた。
「なぁ木偶の坊。皇国に行くって話だけどよ、出発はいつ頃か決めてるのか?」
「ん?あぁ……あと一月くらいはクロトヴァに滞在するかと考えてんだよ。少なくとも兄ちゃんがいなくて一人だったらそんくらいで出立してたな」
「……思ってたより早いな。なにか理由はあるのか?」
「……まぁ特に理由はねぇよ。ただまぁなんとなくそう考えただけだ。クロトヴァが気に入ったってならもうちょい長くいてもいいぞ?さすがに兄ちゃんが拠点に据えるってんなら一人で皇国に行くけどよ」
「いや、一月でいい。皇国の道なんてどこに行ったらいいかもわかんねぇしな。木偶の坊に着いていく」
「分からねぇって兄ちゃん皇国方面から来たんじゃねぇのかよ?クロトヴァまで来た街道を逆側に走れば皇国の領土に入るぞ?」
(……そういえばリアも皇国の国境沿いとか言ってたな。まずいな、なにか言い訳を考えねぇと)
まだ出会って日の浅いボンボルに、自身の生い立ちと現状を話すつもりはない怜は、頭を働かせて言い訳を考える。
「ふらふらしながらここまで来たんだよ。どこを通ってきたかも分からねぇくらいにな。もしかしたら皇国も通ってきたかもしれん」
「おー、なるほど。それなら教えてやるよ。皇国は街道をクロトヴァと逆方向……まっすぐ北上していったら皇国領内に入る。皇都はさらにその北、大陸でも最北端に近い場所に位置してる」
出会って一週間とたたないが、どうやらこいつは物事をあまり深く考えないらしいと、ボンボルの短絡ぶりを理解した。
(大陸でも最北端……)
(それってもしかして……)
イスティフの時代には存在していなかった皇国。
話を聞くにその歴史は神聖国の次に長いと言われ、建国から八百年とも伝わる世界有数の大国だ。
その皇国が座する場所に、怜は心当たりがあった。
リン、ゴン、と鐘の響く音が聞こえた。
場所はクロトヴァの教会だろう。昨日の散策時に、それなりに大きな教会を見かけた。
「まずい!急ぐぞ兄ちゃん!教会の鐘が鳴ってやがる」
ボンボルは鐘の音を聞くと、血相を変えて駆け出した。
「おい!鐘がどうしたってんだよ?なんかあんのか?」
「いいから急ぐぞ!もたもたしてると手遅れになっちまう」
後ろを走り、問いただす怜の声に答えることもなく、時間が惜しいとばかりに全力でボンボルは駆ける。
いつになく真剣なボンボルの表情に、怜は少しだけ、警戒を感じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
クロトヴァの街の教会は立派なものだ。
この世界では一般的に創世神と呼ばれる神が広く信仰されている。世界を創ったと言われる神は、包容的な女性であったとも、叡智に富んだ老人であったとも伝わっているが、その正体は未だ謎だ。
ただ神聖国に存在する『封域』に封印を施し、世界に三つ展開される強力な神聖対魔結界を構築した存在とされ、その総本山は神聖国であると認識されている。
ゆえに教会は、世界各国に点在してはいるが、その司祭には神聖国出身の者、または神聖国で教典を学んだ者が派遣されている。
クロトヴァほどの規模の街になると、その司祭も名の知れた敬虔な信者が務めているとのことだ。
礼拝時には多くの街の人が訪れ祈りを捧げる教会には現在、長蛇の列ができていた。
いくら治安が確保され、豊かな都市であるクロトヴァでも、明日の生活に困窮する者や、家も職も持たないような人間は出てきてしまう。
そのような者たちが規則正しく順番待ちをするように形成した列の中に、怜とボンボルの姿はあった。
「……おい木偶の坊。なにしてんだよこれ?」
「ん?見りゃ分かんだろ。並んでんだよ」
「……何に並んでるんだ?」
「炊き出しの列だ」
「……なんで?」
「そんなことも分かんねぇのか?昼飯だ」
「ばかなのかぁあお前は!!」
さも当然のように列に並び、自分の順番が回ってくるのを待っているボンボルに、罵声を浴びせる。
「こういうのって困窮した人間に神が与える慈悲じゃねぇのかよ」
「俺らだぞ」
「……ん?」
「その困窮した人間は俺らだぞ?俺様は金がねぇ。兄ちゃんも無駄遣いできるほど金はねぇだろ?これから依頼をこなすにも前準備で金が入り用になったりもするからよ。特に俺らには家がねぇ。明日には一晩過ごす宿さえないなんてことも十分あり得る。今日は半日で終わる依頼だったからいいけどよ、一度受注したら何日も帰ってこれねぇなんてこともあるんだぞ?その間カツカツの金で耐え凌がねぇと明日の俺らは無いも同然だ。依頼をこなすにも金がかかる。——どうだ?俺らは裕福か?」
「……いや、まぁ確かに」
「今日の飯への不満はないかもしれねぇ。ただ明日明後日の俺たちは本当になんの心配もなく生活していけるのか?いや、できねぇ。そんな俺たちは裕福か?いや、困窮する民だ」
「……」
「創世神様は寛大なお方だ。こうやって慈悲をもらう俺たちだって広い心で許してくれるさ。明日明後日の不安が無くなった時に、恩返しにきたらいいのさ」
熱弁を振るうボンボルに、怜は絶望を感じる。
(冒険者として名が売れてもこんな生活なのかよ……)
必死に訴えるボンボルの気迫には鬼気迫るものがあった。おそらく実感が籠っているからこそ熱が入るのだろう。
(……うん、俺たちは困窮民だ。確かに明日明後日の生活の保証なんてどこにもねぇ……世界が変わってまでホームレス生活かよ……創世神様の慈悲にあずかろう……)
実体験からくる先輩冒険者の説得に、怜は涙を堪えて納得した。
前方に並んでいた男が列から捌け、怜たちの順番が回ってきた。
炊き出しはシチューのようだ。修道女から二名分のシチューを受け取り、列から捌ける。
「うひょー、うっまそうだな。この炊き出しは教会で修道女の姉ちゃんたちが作ってるらしいぞ?女の子の手料理を無料で食べられるなんて神に感謝だ」
「……木偶の坊、お前それが一番の目的じゃねぇのか?」
上機嫌にシチューを天に掲げていたボンボルの動きが、ピシャリと止まる。
「……兄ちゃん、創世神様は慈悲深いお方だ。俺ら下民の戯れの一つくらい、笑って許してくれるさ」
「……」
怜は気まずそうな表情のボンボルを、無言で見つめる。
「そ、それにクロトヴァくらいの街になると困窮民なんてほとんどいねぇんだよ。ここでの炊き出しなんてお食事会みたいなもんだ。ほら、列を見てみろ。炊き出しに並んでる冒険者なんて俺らだけじゃねぇぞ?」
列に目を移すと、未だ並んでいる者の中には、確かに冒険者のような出立のものも多くいる。
「それによ兄ちゃん。さっきの修道女を見てみろよ」
列を辿り、その終点を見ると、先ほど怜たちにシチューを渡した修道女が、今も笑顔で炊き出しのシチューを配っていた。
「このシチューはあの子も作ったんだぞ?可愛くねぇか?あの子の手料理が今兄ちゃんの手の中に!」
自身の手元に目を移す。湯気を立て、食欲をそそる香りを運んでくるシチューは、先ほどよりも数段、美味しそうに見えた。
「兄ちゃん。創世神様は慈悲深い御方だ」
真剣な表情のボンボルと、視線がかちあう。
「困窮する我らをいつも見守り、案じてくれておられる。——戦争が蔓延り、日々魔物と命をかけた死闘を繰り広げる俺たちの、些細な戯れなんて笑って許してださるってもんだ」
怜の肩に手を置き、静かに語りかけるボンボルに——
「フッ。慈悲深き創世神様に感謝だぜ」
怜は、炊き出しの世話になることを決めた。
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