好きな子にリコーダーを舐めたと誤解された俺の末路は……
伊角せん
好きな子にリコーダーを舐めたと誤解された俺の末路は……
「……佐藤君、何してるの? それ、私のリコーダー、だよね?」
放課後の教室に市原夕菜の声が響き渡る。普段、あまり表情を変えることのない彼女の顔はひどく怯えている。
教室に入ると男子が今まさに自分のリコーダーを引き出しにしまおうとしていたのだ、そういった顔になるのも無理はない。
修二は市原の胸中を察し、同情の目を向けた。
「ねえ、なんとか言ってよ……」
何も言わない佐藤に市原はもう一度声を掛ける。それでも佐藤からの返事はない。
修二は市原の泣きそうな顔を見て、佐藤に怒りを覚えた。と、同時に修二は恐るべき事態に自分が直面しているのに気付いた。
この教室にいるのは現在二人、そして修二のフルネームは「佐藤修二」――つまり、さっきから市原が声を掛けているのは修二、ということになる。
そんな馬鹿な、と思いつつ修二は今の自分の状況を整理してみることにした。
修二がいるのは教室の一番後ろの窓際の席。そして腰を屈めて引き出しを覗くようにして右手にはリコーダーを持っている。リコーダーにはシールが貼ってあり、「市原夕菜」とマジックで書かれている。そして市原の視線は修二に向けられている。
「……いや、ちょっと待て! 誤解だ市原!」
長考の末、修二はやっと自分の危機的状況を理解した。修二は市原に放課後誰もいないのをいいことに女子のリコーダーを舐め回す変態だと思われているのだ。
修二はあまりの悲惨な状況にどうやら無意識に現実逃避を図っていたらしい。
「誤解って、じゃあなんで私のリコーダー持ってるの……」
「俺、学級委員長だろ? その仕事で週に一回置き勉チェックがあるんだよ。で、その最中に市原の机がちょっと斜めってたから直した拍子にリコーダーが落ちてきたんだ」
「……で、落ちたリコーダーを引き出しに戻そうとしたら私が入ってきた、ってこと?」
「そうそう! 市原はものわかりいいなー。よし、これで俺の疑惑も晴れ――」
「証拠は?」
「…………」
安心しきった修二の声を市原の鋭い声が掻き消した。市原の顔は一切の感情がこもっていない。
この手の質問が来ることを予期していた。だが予期したところでそれ相応の回答を用意できているわけではない。
再び教室に流れていた沈黙を裂き、市原は修二に追い打ちをかける。
「ていうか、置き勉チェックって確か委員長と副委員長、担任の先生の三人でやるものだよね? なんで佐藤君が一人でやってるの? 木下さんと松谷先生は?」
「き、木下も松谷先生も用事があるって今日は俺一人で……」
「へー、そうなんだ」
市原は小さい目を一層細めて修二に疑いの目を向ける。痛いところを突かれ、修二は額に汗が噴き出るのを感じた。
副委員の木下は今日までのカフェの無料券を手に入れたと仲の良い友達と足早に教室を出て行った。担任の松谷先生は生徒から進路の相談を受け、調べものをしないといけないと今も職員室でパソコンとにらめっこしているだろう。
クラス全員分の置き勉チェックといえども、要領よくやればものの数分で終わる作業である為、修二は二人が参加できないことに言及しなかった。逆に、今度は自分が参加できなくても気兼ねなく休むことが出来ると今日の二人の不参加を喜んでいたほどだ。
こんな事態になるとわかっていればどちらか引き留めておいたのに、と後悔する修二だが今更そんなことを言ったって後の祭りだ。
「でもよ市原、証拠がないのはお互い様だ。お前はこのリコーダーを俺が舐め回したんだと思ってるんだろ?」
「え、吹いただけじゃないの……なんでそんな、気持ち悪いよ……」
修二の言葉で市原は口を両手で覆い、身を仰け反らせた。目には今にもこぼれそうな程涙が浮かんでいる。
「いや、ほんとに何もしてないからっ! とにかく俺の話を聞いてくれ、な? もし俺が本当に市原のリコーダーをを吹いたんだとしたら吹き口のところに俺の唾が付いてるはずだろ?」
修二はリコーダーが市原に見えるよう前に突き出した。市原は警戒しつつ修二にゆっくりと近づきリコーダーを観察し始める。
正直この言い分はとても弱いものである。吹いた後ハンカチやティッシュで唾液を拭き取りさえすれば証拠は容易く隠滅される。しかし、唾液が付いていないことを市原に確認してもらい、一旦安心させた上で話をした方がいいと修二は踏んだのだった。
「……やっぱり付いてる、舐めてる、じゃん……嘘つき」
「え?」
嫌悪の目で修二を見る市原は、ゆっくりと後ずさりながらそうこぼした。
修二は手に持ったリコーダーを顔の近くまで引き寄せ、リコーダーの吹き口をよく観察した。
すると吹き口をはみ出すほど広範囲に、そこにあるはずのないたくさんの唾液が付着していた。
「なんでだ、俺は本当に何も……」
修二は訳が分からなくなっていた。本当にリコーダーを拾ってしまおうとしただけで他はなにもしていない。しかし、リコーダーには確かに、所々に小さな気泡のあるぬめりけを帯びた液体が、満遍なく付いているのだ。
「なんでこんなことするの……それになんで私なの? 千代ちゃんとか京香ちゃんとか可愛い子たくさんいるじゃん。なのに、なんで私なんかの……」
「そんなこというなよ! 市原だって十分可愛いし、なんだったら俺は市原のこと……」
そこまで言って俺は自分の発言がこの状況において逆効果になることを悟った。市原は一瞬怯んだような顔を見せたがすぐに怯えた表情へと戻り、
「だったら、こんな歪んだやり方じゃなくてもっと他にあるじゃん……私だって佐藤君のことずっと……」
と言い残し教室を飛び出した。修二は追いかけることもできず、その場で立ち尽くすことしかできなかった。
修二は密かに市原に思いを寄せていたが、どうやら市原も少なからず修二に好意を抱いてくれていたらしい。その事実を知り、修二は胸が締め付けられるような痛みにしばし襲われる羽目になった。
これからどうしよう――市原の足音も消え、再び静けさを取り戻した教室で、修二はそう思いを馳せた。
修二としては市原の誤解を真っ先に解きたいところではある。しかし、誤解を解く材料を何一つ持ってない修二にはかなりの難題であることは容易に想像できる。そもそも修二が今から追いかけて行っても事態は悪化するだけだろう。
色々考えた末、修二は残りの仕事を終わらせ、真っ直ぐ家に帰ることにした。
これが一番良い、というより実際のところこれ以外の方法を何も思いつかなかったのだ。
「悪いな佐藤、一人でやらせちゃって。結構時間かかったな」
職員室へ向かう道中、後ろから声を掛けられた。振り向くとそこには松谷先生の姿があった。
「まあ、色々ありまして。教室の鍵返しに来ました」
先生は「色々?」と首を傾げたが、特に言及する気はないようで、何も聞かずに鍵を受け取った。
修二は軽く会釈して「さようなら」と告げると、踵を返した。すると修二の背中に先生から声が掛けられる。
「ああ、待て待て。そういえばお前に言わなきゃいけないことがあるんだ」
修二は凍り付いた。修二に言わなければいけないことなどさっきのことしかないだろう。市原はきっと、早々に修二の悪行(仮)を先生に報告したのだ。
「いや、別に怒るとかじゃないぞ。そんなにビビんなくたって大丈夫だ」
目に見えて動揺する修二を見て先生は苦笑した。それを見て修二も自分の考えが取り越し苦労であることを悟り、胸を撫でおろした。
先生は修二が落ち着きを取り戻したのを確認し、口元を修二の耳に近づけた。
「実はな、この学校にストーカーがいるって噂があるんだ」
「しょ、証拠はあるんですか! 証拠は!?」
「おいおい、びっくりするのはわかるが静かにしろ。あまり表沙汰にできない話なんだ」
再び取り乱す修二を先生は呆れた顔で宥めた。
「まだほんとに噂程度なんだが、ほら、火のない所に煙は立たぬって言うだろ? だから一応委員長であるお前にだけ伝えておこうと思ってな。だから誰にも言うなよ」
「……わかりました。その、ストーカーの噂って言うのは具体的にはどんなことが?」
「うーん、どうだろうな。表沙汰になってないってことはそこまで大したことはしてないんじゃないか」
先生は腕を組み、天を仰いだ。何か他に情報がないか思案しているようだが、やがて組んだ腕を解いて腰に当てた。右手には県内トップクラスの女子大のパンフレットが丸めて持たれている。恐らく進路の相談を受けた生徒へ渡すためのものだろう。
「まあ、とにかく委員長。クラスでおかしなこととかあったらこっそり俺に教えてくれ。どんな些細なことでもいいからな」
「あ、じゃあ僕よく物がなくなるんですよ。消しゴムとかボタンとか」」
「それ、ここ最近のことか?」
「いえ、普段からです」
「物は大切にしろよ。じゃあな」
先生はそのまま職員室の方へ歩いて行った。修二は先生の背中を見送りながら自分の中で生まれた一つの疑惑について考えていた。それは、件のストーカーのターゲットが市原で、リコーダーを舐めたのはそのストーカーなのではないか、ということだ。
修二は放課後になり、一旦提出物を届けに行くため教室を出ている。そして帰ってきたころには誰一人として教室にいなかった。犯行は十分可能だ。
それに、修二が少し机を持ち上げただけで市原のリコーダーは落ちてきた。リコーダーを最近使ったのは先週の音楽の授業だ。引き出しから落ちやすい場所にあるのはおかしい。しかもリコーダーを入れる袋も開いたままになっていた。
つまり、ストーカーは行為に及んでいる最中に修二の足音に気付いて、慌てて教室を後にしたのだ。それでリコーダーを元の場所に戻す余裕がなかったのだろう。
とにかく明日、市原にこのことを伝えなければ……。
修二はそう胸に決め、学校を後にした。
「い、市原……おはよう」
下駄箱で待ち伏せすること十数分、修二は市原に声を掛けた。待ち伏せなど、ストーカーの専売特許だなと思いもしたが修二はなりふり構っていられなかった。
昨日のショックで学校を休む心配もあったがひとまず登校してきたので修二は安堵した。
「市原、昨日のことで話があるんだ。ちょっとでもいいから俺の話を聞いてくれ」
市原は修二と目も合わさず、迷いなく歩を進める。昨日、あんなことがあったのだ、無理もない。
それでも懸命に市原の後を追った。そのまま教室へ向かうものと思ったが、市原は進路を変え、体育館の方へ足を向けた。修二は戸惑いつつもその後を追いかけた。
「……返して」
体育館の裏まで来て足を止めると、市原はそうこぼした。声は微かに震えている。
「え?」
「……私の体操着、返して」
そう言って市原はやっと修二の方を振り向いた。目からは既に涙がこぼれていた。
「どういうことだよ」
「とぼけないでっ! お願いだから、お願い……返して」
市原は両手で自分の体を抱いて、その場でうずくまった。涙も体の震えも止まる気配がない。
「昨日、教室に忘れたの……」
搾りだしたように言う市原の声で修二は市原の真意を理解した。
恐らく市原は、昨日体操着を忘れて放課後の教室へ足を運んだのだ。そして、修二との一件で目的も忘れ教室を再び出て行ってしまったのだろう。
だが、修二が見た限り、教室に体操着らしき忘れ物は見当たらなかった。修二は瞬時に噂のストーカーとこの話をつなぎ合わせていた。
「市原、実はな――」
修二はできるだけ丁寧に市原にストーカーの噂があることを話した。不安を増幅させるだけだとも思ったがこれ以上あらぬ誤解をされたままなのは勘弁ならなかった。
「……証拠は?」
デジャヴか――頭の中でよぎった言葉を飲み込み、市原を見返した。市原の目は言い逃れするなと鋭く訴えていた。先ほどまでの怯えきった顔が嘘のようだ。
「証拠か……じゃあ松谷先生に聞いてみたらどうだ? そしたら俺の言ってることが正しいのが分かるだろ」
「先生に口外するなって言われたんじゃなかったの?」
「やむを得ないだろ、この場合。いつまでも疑われっぱなしじゃ俺も敵わないしな。それに、こうして市原に話してる時点で今更だろ」
「でもあなたの言う通り、ストーカーの噂が本当にあったとしても、それを私とを結びつけるのはちょっと強引すぎない?」
「どこがだよ、ストーカーの被害に合ったやつとストーカーの噂――偶然同じ時期に怒った出来事とは思えないだろ」
市原は修二の言うことを中々信じようとはしなかった。しかも密かに、修二を呼ぶ名が「佐藤君」から「あなた」へシフトしていた。胸の奥にうっすら曇りが立ち込める。
「じゃあ教室で私のリコーダーを持っていた佐藤君よりも、その噂の方を信じろってこと? そんなの無理」
「それは……」
「ていうかそのストーカーの噂の発端があなたなんじゃないの? そう考えた方が違和感ないんだけど」
そう考えるのが修二からしても自然と言えた。
「放課後まで待つわ」
「えっ」
「放課後までに返してくれたら私はこのことを口外しない。それ以降は……大ごとにしたくはないけど、先生に言う」
「ちょっと待て、ほんとに俺は知らないんだ、おい!」
修二の言葉を最後まで聞かず、市原はこの場を去った。と同時に予鈴が鳴り響いた。とりあえず、修二は市原とは別のルートを使い、教室へと向かった。
放課後まで、か。
ことを穏便に済ませるためにはそれまでに市原の体操着の所在を掴まなければならない。
教室へ着くと、既にほとんどの生徒が席に着いていた。その中に既に市原の姿もあった。
いつも通り本を読んでいるのを見ると、とても昨日ストーカー被害に遭ったとは思えない。しかし、本を持つ手が小刻みに震えているのに気付くと、修二はなんともいえない気持ちになった。
誤解とはいえ、あの震えの根源が――恐怖の対象が修二であることは間違いないのだ。
「おい、委員長。号令だぞ」
「あっすいません」
松谷先生に指摘され、修二は慌てて号令をかける。周囲からはクスクスと笑い声が漏れる。どうやらホームルーム開始のチャイムが鳴ったことに気付かなかったらしい。
「なんだ修二、市原に見惚れてたのかよ」
「馬鹿言え、見惚れるほどの顔かよ。」
ホームルームが終わるとクラスメイトが修二の元へ寄ってきた。
「ちげぇよ」
からかいを含んだ言葉にそう返し、修二は教室から出た。
語気が強くなっていたのは自覚していたが、今の修二に弁解する余裕はなかった。
背中で怪訝な視線を感じながら修二はこれからどうするか考えていた。だが、結局午前中の授業が終わり、昼休みになってもこれといった打開策は当然のごとく生まれなかった。
ここもない、か。
昼休み中、修二はとにかく教室をもう一度見て回った。周りの不審がる視線など今は気にしている場合ではない。教卓の中に掃除用具棚など、あるはずがないと思いながらも修二は目を皿のようにして探した。とりあえず何か行動を起こさなければ何も始まらないと自分を鼓舞した。
しかし、体操着は見つからないまま時間だけが過ぎていき、あっという間に昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。仕方なく、修二は掃除場所である学級園へと向かった。
靴に履き替えるため、下駄箱へ向かうと市原の姿があった。
「…………」
「…………」
一瞬目が合い、すぐさまお互いに目を逸らす。気まずい沈黙が二人を包み込む。
「すまん、まだ見つからないんだ」
目線を泳がせたまま修二は言った。
「家に持って帰ってそのままってこと?」
「だから、俺じゃないって!」
再び二人の視線がぶつかった。市原は鋭く目を光らせ、修二を威嚇している。しかし、手に持ったほうきの柄を強く握りしめているのを見ると、本当は修二に怯えているようだ。
「とにかく、放課後また体育館裏で」
視線を外し、市原は手を動かし掃除を始めた。ほかになにか言おうとも思ったが、下駄箱を行き来する人の波ができたので、修二は仕方なく掃除場所へと移動した。
「今日はこんなもんやな」
「まあ、そうだな」
「なんや修二。元気ないな」
同じ学級園掃除である折橋は修二の顔を覗き込む。修二はなんでもないと折橋から見えない角度に顔の向きを変えた。関西から引っ越してきて数年経つが、折橋のなまりは未だ抜けないままだ。
「なんでもないならええんやけど。じゃあ水やって教室帰るか」
折橋はじょうろを取りに用具倉庫へと足を向ける。修二もとぼとぼとその後に続いた。頭では今も市原の体操着の所在について考えを巡らせている。
「いいたくないなら言わんでええけど、あんまり一人で溜め込みすぎはあかんで」
「えっ」
蛇口をひねり、じょうろに水を溜めながら折橋は言った。
「溜め込んだら気分が重なる。このじょうろと一緒や」
修二に微笑みかけ、折橋は水でいっぱいになったじょうろを片手で持ち上げた。
「だから、どっかで吐き出さなあかん」
折橋はじょうろをひっくり返した。それにより、かわいたコンクリートに落ちた水が勢いよく浸食していく。
「話したくなったら聞いたる。まあ、別に俺でなくてもええんけどな」
折橋は一層破顔し、修二に語り掛けた。普段は人のことなんてお構いなしという印象だが、折橋は意外と面倒見がよく、周りのことをよく見ているらしい。
「わかった、ありがとう」
素直にそう感謝の言葉を伝えると折橋は満足そうにうなずいた。
「おい、折橋。今水捨てたろ。無駄遣いすんな」
「はいっ、すいません!」
通りすがった先生に注意され折橋は顔を強張らせた。思わず修二も一緒になって頭を下げてしまう。先生がいなくなると目を合わせ、同時に笑みがこぼれた。
「まったく、ムードが台無しや」
折橋は顔を赤くして再びじょうろに水を溜めていった。そして二人してじょうろ片手に学級園へと戻っていった。
「ん、なんやあれ」
学級園に着くと、近くの側溝になにか落ちていた。じょうろを置き、修二はゆっくりと側溝に近付く。
「……ナップザック?」
「そんなのさっきまであったか? 名前とか書いてないんか?」
「ええっと、ちょっと待ってくれ……」
ナップザックを拾い上げ、軽く汚れを払い、名前がないか確認する。
「外には書いてないな。中は……開けていいのかこれ」
「うーん、女子のやったらあれやしなあ。先生に届けるのが一番ちゃうか」
「わかった、俺届けてくる。あと、ごめんだけど頼む」
折橋の返事も待たず、修二はナップザックを手に学級園から離れた。そして職員室とは真反対――校庭の奥にあるトイレへと駆け込んだ。
「やっぱりな……」
恐る恐る中を開けると、予想通り、体操着一式が入っていた。名前のところには市原の文字が書かれている。紛れもなく昨日、市原が忘れて行った体操着だろう。
なんであんなところに落ちていたんだ……。
修二はふと疑問に思ったが、すぐに答えは出た。間違いなく市原に付きまとうストーカーの仕業だろう。
恐らくストーカーは市原が修二のことを疑ってるのを知り、そのまま修二に濡れ衣を着せようとこういった行動に出たのだ。
これを市原へ返したとして、修二の潔白が証明できるかはわからないが、とりあえず先生に告げ口されることは避けることが出来て、修二は心底ほっとした。
このまま市原のところへ持っていくのは人目に付くのでまずい――そう思い、とりあえず修二は体操着をナップザックにしまい、どこかへ隠しておくことにした。
「……なんだ、これ」
異変に気付いたのはその直後だった。
「約束通り来たんだ」
「……ああ」
放課後、体育館裏。市原は修二より先に来ていた。顔は親の仇でも見るような目をしている。
「で、返してくれるの?」
冷たい声が響く。その後に修二の声は続かない。市原は更に険しい顔を浮かべる。
「なんとか、言ってよ」
それでも修二の口は閉ざされたまま。接着剤で引っ付けられたように、開く素振りは見せるものの、素振りだけに留まってしまう。
修二は市原の目を真っすぐに見た。
市原は決して美人と持てはやされる部類ではない。目も細くて鼻も高くない。
いつも無表情で男子はおろかそもそも女子ともそう話すことの少ない、先生に当てられて発言してる方が話す頻度が多いほど。それくらい無口である。
しかし、教室の隅っこで本を読む市原が時折見せる笑顔が修二の楽しみの一つとなっていた。修二の視線に気付くと途端に無表情に戻るが、耳を赤くして恥ずかしがっている姿も修二の癒しだった。
いつかみんなの前でもあんな笑顔を――いや、あの笑顔をみんなが知ってしまったらいやだな。そんな気色の悪い考えを浮かべてもいた。
それが、どうだろう。今目の前にいる市原は敵意を臆面なく顔に晒し、凶器でも所持してようものなら怒りに身を委ね修二を手に掛けてもおかしくない。これ以上はこんな市原を修二は見たくない。
しかし、そんなことも言っていられない。修二は拳を強く握り、今から自分がしようとしていることを整理した。これを行えば、今以上に市原は顔にしわを寄せ激昂することだろう。だが、これが同時に市原の為になることだと修二は自分に言い聞かせることに終始した。
「市原……」
覚悟を決めると口が開いた。ここから先を告げると後戻りできない。
「ごめん。これ、返す」
後ろに持っていた体操着の入ったナップザックを市原の前に差し出した。
「リコーダーを舐めたのも……俺だ。全部、俺がやったんだ」
その場に正座する。ナップザックを一旦置いて、両手を付く。
「本当にすいませんでした」
最後に頭を付いて修二は土下座の姿勢を取った。生憎、修二たちのいる場所はコンクリートだったがそんなこと、気にする余裕は毛頭なかった。
「そう、やっぱりそうなんだ……」
しばらくして頭上から市原の声が聞こえた。声は少しばかり震えている。
「だよね。そうだよね。だって、うん……あなたしかいないよね。最低だよ、ほんと。なにが『ストーカーの噂が……』、なにが『俺じゃない』、だよ。嘘ばっかり。もう顔も見たくないし、一緒の空間にいたくない。そのままそこにへばりついて動かなければいいんだ」
心にズキズキと矢が刺さるような――そんな感覚に苛まれる。
「これ以上なにもしないなら私は今回のことは誰にもいわない。だから二度と話し掛けてこないで。じゃあね、佐藤修二」
市原はナップザックを拾い上げ、歩き出した。
フルネームで呼ばれるのもそれはそれで心にくるものがある。刑事ドラマで警察が犯人を呼ぶ時の、冷酷な口調を連想させる。
「信じてた」
足音が聞こえなくなる。市原が一旦歩くのをやめたのだろう。
「ほんとは――心のどこかで違うんじゃないかって思ってた。だって佐藤君、クラスでひとりぼっちの私のこと、いつも気にかけてくれてたから。あの優しくて温かい目は、本当は薄汚くて淀んでたんだね」
そこまで言うと、足音は大きな音を立て遠ざかっていった。
しばらくして顔を上げると、コンクリートには晴れているというのにぽつぽつと雫がいくつか落ちていた。それが市原の歩いた場所と一致していたのは、どうか、どうか偶然であってほしい。
これでいい、これでいいんだ……。
立ち上がり、制服に付いた汚れを払う。そして脇に置いていたリュックを開いた。
よし、間違って渡してないな。
確認を終えると修二は安堵した。こんなもの、絶対に市原に渡すわけにはいかない。修二が袋に包んである市原の体操ズボンを再びリュックの奥底にしまった。
掃除の途中、誰もいないトイレの個室へと駆けこんだ修二はナップザックの中身が市原の体操着であることを確認した。
そして取り出した体操着をナップザックにしまうおうとしたとき、あることに気付いた。
ん、なんだこれ?
体操ズボンになにか変なシミが付着していたのだ。正直それだけだったら修二もこの後シミを観察しようだなんて思わなかっただろう。
ただでさえ、今トイレのドアを開けられたら、女子の体操着を広げて安堵する変態野郎という、ストーカーとは別の汚名が付与されかねない。早々に体操着をしまい、この場から去りたい気持ちが大半を占めていた。
だが、そのシミからは強烈な臭いが放たれていた。掃除の行き届いていないトイレの臭いだと思っていたがそうではなかったらしい。
これは……まさか……。
シミは白く濁った色をしていた。ストーカー、白く濁ったシミ、強烈な異臭、体操ズボン――修二は鳥肌が立ち、その場に立ち尽くしたのだった。
市原にこんなものを渡すわけにはいかない――修二はそう思い自分の体操ズボンと市原のを交換した。材質は同じだがサイズは違うので後でバレるかもしれない。それでも構わなかった。こんな穢れたものを正直に渡してしまうより幾分かマシだと思えた。
体育館から生徒校舎まで戻ってきた修二はあたりを警戒しながら足を進めた。市原と鉢合わせるのもそうだが、ストーカーはいまだ野放しにされている。今日も犯行に及ぶ機会を虎視眈々と狙っている可能性がある。
自分がストーカーを捕まえなければ――修二はそんな使命感を抱いていた。
そんな時、きゃあ、と下駄箱の方で女子の悲鳴が聞こえた。
修二は一瞬迷ったが、覚悟を決め、下駄箱に向かって走り出した。
下駄箱へ着くと案の定、市原の姿があった。放課後ということで他に誰の気配もうかがえない。市原は自分のスリッパを無造作に放り投げ、しりもちをついていた。修二に気付いている様子はない。
市原の目線の先を見る。すると、たくさんの写真が散乱していた。市原はそれを見てひどく怯えている。修二はその中から一枚の写真を手に取った。
「……これは」
そこにはリコーダーを手に狼狽する修二に後ずさり怯える市原が写し出されていた。間違いなく昨日の放課後とられたものだ。
他の写真も見てみるとアングルが変わっていたりさっきまでの体育館裏にいた時を撮られたものもあった。
「佐藤君、じゃ、ないの?」
修二に気付いた市原は震えた声で言った。修二は肯定も否定もできずにいた。
「佐藤君、じゃ、ないんだね……」
床に座り込み、下駄箱にもたれる市原の目から涙が流れた。その手には写真とは違う一枚の紙が握られていた。
他の男と関わるな お前は俺のものだ
一文字一文字の書体や色の違う、新聞の切り抜きかなにかを貼り付けた脅迫状にそう書かれていた。
修二が市原より早く下駄箱へ来てこれらの写真を入れておくのは不可能であり、このことから修二がストーカーであることはありえないものとなってしまった。市原はそのことを悟ったのだろう。
修二のしたことは事態を悪化させたのだとこの時ようやく気付いたのだった。
「ごめん、わたし、わたし……」
市原はひたすら修二に謝った。涙はとうに枯れ果て声も掠れている。それでも市原は謝り続けた。
二人は帰路に立っていた。ひとまずこの場から離れようとへたり込む市原起き上がらせ、写真を回収し、修二は市原の手を取った。ここまで大ごとになれば先生に言うのもやむを得ないと思ったがそれだけはと市原が頑として拒むので仕方なくそのまま学校を出たのだ。
それで今、市原の手を引き市原の家に向かっている最中である。たまに登下校中見かけるとは思ったが、どうやら修二の家と割と近い場所にあるらしかった。
「俺の方こそごめんな。犯人を庇う真似なんかして」
「ううん。佐藤君は悪くない」
市原には体操ズボンの件をイタズラされていたとだけ説明した。それ以上は今の状態の市原にはとても話す気になれなかった。
幸い、市原もそれ以上のことを聞いてくることはなかった。
「これから、その……どうする?」
「どうするって……」
市原の修二の手を握る力が強くなる。修二もそれに応えるように強く握り返す。
「さすがにこのままなにもしないっていうのはまずいと思う。一番はやっぱり先生に相談するのが――」
「それは……そう、なんだけど」
「やっぱり表沙汰にしたくない、か」
市原は小さくこくりと頷いた。そしてそのまま俯いた状態を保つ。
市原の気持ちもわからないでもなかった。先生に相談すればそれなりに対策を講じ、ストーカーへの被害を抑えることができるかもしれない。だが、このことを知る人が増えれば、おのずと周囲に話が漏れる可能性も高まる。
「ストーカー被害に遭った女子生徒」――そんなレッテルを貼られるのを市原は恐れているのだろう。
だがしかし、だからといってなにも対策を打たぬまま相手の出方をうかがっているだけでいいのか、とも思う。
市原が誰にも相談せず、このままでいるとストーカーの行動は更に大胆なものになるかもしれない。
ストーカーは修二の存在を良く思っていない。事の成り行きを見ていたのなら修二をそのままストーカーとしておくことも可能だったはずなのにそれをあえてやめた。そこまで市原が異性といることを疎ましく思っているのだ。とりあえず今後は修二と関わるのを避けた方がいいように思う。
「あ、佐藤君の家こっち、だよね。私こっちだから」
市原は足を止め左側を指差した。修二の家は反対の右側にある。
「ああ。でも今日は家まで送るよ」
「そんな、悪いよ。佐藤君にこれ以上迷惑掛けられない」
市原はやはり、さっきの脅迫状のことを危惧しているらしい。
このままだと修二に火の粉が降りかかるかもしれない。
いや、火の粉どころか、最悪の場合、修二に犯行のターゲットが移ってしまうおそれがある――そう思い、不安ながらもそう言ってくれているのだ。
修二は迷った。脅迫状に従わず、市原の傍にいれば修二の身に危険が及ぶかもしれない。そうしたら市原が責任を感じるだろう。しかし、市原をひとりぼっちにしておくのもよくないことだ。
「じゃあ、そういうことだから」
ふいに市原の手が離れる。市原は修二から少し距離をとってからこちらに顔を向けた。
「……大丈夫なのか、一人で」
「うん、大丈夫だよ。ほら、私、教室でも一人でしょ」
市原の苦笑いの奥に恐怖の感情があるのは容易にわかった。
「それじゃあ、ね」
「おい待てって。市原!」
修二の呼びかけに市原は振り向かず、そのままゆっくりと歩いて行った。追いかけようと思ったが修二の足はうまく動いてくれなかった。
――プルルルル、プルルルル。
市原の背が小さくなったころ、電話の音が辺りに響いた。音の聞こえる方は市原のいる場所だった。
市原は制服から携帯を取り出し、耳に当てた。すると、数秒後、市原の手から携帯は重力の向くままに地面へ落下していた。
「どうした、おい! 市原!」
修二はすぐに市原の元へ駆け寄った。市原は表情も体も固まったままだ。
「おい、大丈夫か」
やがて震え出した手を握り、声を掛けると市原の目に生気が戻ってきた。わなわなと口を震えさせながら市原は言葉を紡いだ。
「知らない番号、だった……知らない声……でも、たぶん」
そこまで聞けば察しがついた。恐らく、ストーカーからの電話がかかってきたのだ。地面に落ちたままの携帯には「非通知」と表示されていた。
「……なんて言われたんだ」
「俺は見てる、ずっと見てるぞって……」
「おい、しっかりしろ!」
そこまで言い終え、市原は脱力し修二は倒れないようそれを支えた。
一人でも大丈夫と市原は言った。そんなこと強がりでしかないと修二もわかっていた。しかし、修二といることで市原がより大きな被害に遭うのではないか、他に頼った方が市原の為なんじゃないか――修二はそう結論付け、去っていく市原を引き留めなかった。
しかし、心の奥で修二は自分のことを優先していたのかもしれない。市原の為と自分に言い聞かせ、心配する振りだけして、自分はこの件から遠ざかろうとしていた。
犯人はずっと見ている、そう言ったらしい。ということは近くにいる可能性が高い。修二は一つの決意を胸に自分に身を預けている市原の頭を軽く撫でた。
「おい、どっかで見てるんだろ? 今から言うことよく聞いとけ!」
「佐藤、くん?」
急に大声で話す修二に市原は疑問の声を上げる。しかし、今はそれにこたえる余裕はない。
「俺は……市原夕菜のことが好きだ!」
市原がなにやら声を出し、顔を赤くしている気もするが周りに気を払う余裕はない。
「たぶん、ずっと好きだった。けどこの気持ちに気付いたのは今回のことがあったからだ。だからその辺は感謝しといてやる。だが、もう市原のことは諦めろ、俺はお前以上にたくさん好きな気持ちを伝える。もちろんお前みたいに歪んだやり方じゃなくてまっすぐに、面と向かって。お前に変わって、お前と違って近くでずっと見守り続ける。だからもうこんなことやめろ!」
人気のない、車通りもたいしてない道路に修二の怒声にも似た叫びが響く。
「そ、そういうことだから。えっとその……付き合ってください」
しばらく間を置いて市原にそう告げた。
「……これ、もし断ったらどうなるの?」
「断られても、見守ります」
「私が佐藤君のこと嫌いだったとしても?」
「え、マジか……そ、それでも、見守ります。」
市原は真剣な眼差しで真っすぐに修二を見た後、吹き出した。
「なにそれ。それじゃあ、ストーカーとやってること変わらないじゃん」
「あ、そうだよな、ごめん……」
修二はうなだれた。同時に断られる覚悟も決めた。
「いいよ」
「えっ」
「佐藤君をストーカーにするわけにはいかないしね。仕方ないから付き合ってあげる」
市原はいたずらな笑顔を向ける。今日一番の笑顔にふいに胸が熱くなる。
「そ、そうか。じゃあよろしくな。市原」
「ん、市原? 呼び捨てがいいな修二君」
「す、すまん。その、ゆ、夕菜」
「声ちっちゃい。聞こえない」
さっきまであんなに怯えていたのに市原はまるでなにごともなかったかのように修二に詰め寄る。
「じゃあ一生、見守ってね」
「い、一生? わ、わかった」
事態は好転の兆しを見せないものの、とりあえず思いを伝え、成就させることはできた。
「じゃあ、また明日迎えに来るから」
「うん、待ってる」
市原を家まで送り、明日からは登下校を共にすることを約束した。そうすれば市原が一人きりになることはあるまい。
絶対、守ってやる。ストーカーなんかに負けない。
そう心に決め、修二は駆けだした。恐るべき事態に目下直面している状況なのにもかかわらず、顔のにやけが止まらないでいた。
「ゆ、夕菜……夕菜、夕菜」
明日会った時、照れずに名前を呼べるよう、一人で口ずさみながら修二は家に帰った。
「ただいま」
「ああ、お帰り。あんたなんですぐ電話切るの。自分で掛けろって言ったくせに」
「ああ、ごめんごめん」
お母さんの文句を軽くあしらい、夕菜は階段に足を掛け、二階の自室へ向かった。
「しかも五時丁度にって。お母さん時計見てしっかり掛けたのに」
「はいはい、ごめんって」
バタン、と扉を閉める。鞄を開き、教科書とノートを明日の授業用に入れ替える。ついでにいらないプリントを整理し、ゴミ箱へ捨てた。その中には先生にお願いして調べて貰った女子大のパンフレットもあった。
ポケットに入れていた携帯を開く。クラスメイトの木下さんからラインが来ていた。開くとディズニーのキャラクターのスタンプが送られていた。
やっとめんどくさい会話がおわったと夕菜はほっとする。上にスクロールすると一日で十数件のやりとりがあった。一番上にはカフェのクーポンを譲るという夕菜のラインがあった。途中には、別に欲しいと言ったわけでもないのにカフェで撮られた加工された写真もある。
適当にスタンプで返信し、ラインを閉じる。そしてナップザックに入っている体操ズボンを取り出した。
「やっぱり」
体操ズボンに顔をうずめると修二の匂いがした。入念に準備した甲斐があったと数時間前の自分を褒める。
ひとしきり匂いを楽しむと押し入れを開いた。その一番奥のダンボールを取り出し、中身を開ける。
消しゴムにシャーペン、靴下にハンカチ。学ランのボタンにジャージ。極めつけはトランクスまで。全て真空パックで保存されている。無論、全て修二から密かに盗んだものである。その中からトランクスを取り出し、再び扉を閉めると、ベッドに寝転んだ。
そして二つを顔にうずめて片方の手を自らの秘部にあてがった。
今日、そして昨日のことを目を閉じ反芻する。興奮が高まり、頭がぼーっとする。
計画の成功を夕菜はこの上なく喜んだ。あとはストーカーをそれとなくフェードアウトさせれば完璧だ。まあ、そもそも、そんな人物は初めからいないのだが。
「修二、修二」
名前を呼ぶと体が昂りを増すのがわかった。修二は念願かなって夕菜のものとなったのだ。明日からのことを想像し、夕菜は一層胸を高鳴らせたのだった。
好きな子にリコーダーを舐めたと誤解された俺の末路は…… 伊角せん @engawasuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます