けもみみもみもみもみもまれ
左前方でコインの落ちる音と子供の泣き声が聞こえた。アタシは「ドロボー!」という金切り声が響くより前に音源へと駆け出す。
前方には川と広い橋。馬車が余裕ですれ違えるような橋の両脇には屋台が並ぶ。人波をすり抜け、飛び越え、ちょうどいいところにちょうどいい高さの禿げ頭があるからそこに両手をついて高く跳ぶ。
人の流れに逆らってもがく男がひとり。小バカにした視線は泣きじゃくる子どもに向けられ、握られた財布の中から響くのはさっきと同じコインの音。
狙い過たず、そいつの脳天に膝を食らわせ着地。目を白黒させる男の手から財布をもぎとる。
「返せ、この泥棒!」
「泥棒はあんたでしょ」
男がアタシに殴りかかるけれど遅い。余裕であしらっているうちに親子連れが、兵士を連れて駆けてきた。財布を持ち主に返せばあとは兵士の仕事だ。両脇を抱えられて連行される泥棒を見送っていたアタシの耳にぜいぜいと苦しげな呼吸音が届いた。
「あんたは……すぐ……どっかいく……」
「ごめんねー、困ってる人の声がしたからつい」
あきれ顔で額の汗をぬぐうのは両手を手袋で覆った眼鏡の女の子。背丈と同じくらいの高さの杖を支えに立っているのがやっとというところ。アタシの素早さについてこれる人間なんて見たことがないとはいえこのどんくささは冒険者としてどうなんだろう。
「ありがとう! お姉ちゃんかっこいい!」
財布の持ち主が、目尻の涙をぬぐってキラキラした目でこちらを見上げてきた。その後ろでお母さんらしき女の人も頭を下げる。そんなふうに見られるとつい頬が緩んでしまう。
「お姉ちゃんは耳がいいからね。困ってる人の声がしたら飛んできちゃうんだ」
人助けしたんだしちょっとかっこつけてもいいと思う。めちゃくちゃ嫌そうな顔の相棒のことは意識から追い出しておこう。
アタシたち獣人族の耳は四つある。顔横には人間族より尖りぎみのがふたつ、頭の上には猫みたいなのがふたつ。頭上の耳は猫同様に筋肉が密集していてよく動くし、遠くの音もよく聞こえる。身体能力だって人間族より遥かに上だ。
「だからって見境なく人助けに走るのはなあ」
宿に入っても相棒のお説教は止まらない。もっと周りを見ろとか突っ走りすぎるなとか、週に五回は聞いているいつものやつだ。アタシは向かいのベッドに寝転がって猫耳をぺたんと伏せる。
「主人公属性こわ……」
アタシへのお説教が最後にはよく分からない愚痴になるのもいつもの事。
どんくさくて愚痴っぽくて世間知らずなとこのある、アタシとは何もかも正反対の子。そんなのを相棒に旅をするのはこの子が伝説の聖女かもしれないからだ。
モンスター駆除依頼を受けたアタシは遺跡の最深部でこの子と出会った。広い襟に布を細かく折り畳んだスカートという奇妙な出で立ちで、持ち物といえば薄い鞄に薄い本、水晶を引き伸ばしたようなもので覆われた小さな板切れ。
右手の甲に浮かぶ紋様を見ればその子が冒険者じゃないのは一目で分かった。
白く輝く紋様は、この国じゃ子供でも知っている救国の聖女、その証だ。
……本人いわく『どのルートでも闇落ち確定のドス黒聖女成り代わりかよ!』らしい。意味がわからん。
ともあれこの子は聖女サマとして名乗りを上げるつもりはないらしく、『主人公』のアタシと一緒に冒険者ライフを送るとのこと。面倒なのを拾っちゃったなあと思いつつ、なんとなく一緒にいる。
相棒の愚痴を聞くともなしに聞いていたら眠くなってきた。瞼と頭上の耳がだんだん重くなる。くあー、とあくびをするのを合図に愚痴が止まった。
ぽんぽんと柔らかいものを叩く音がアタシを誘う。
相棒はベッドの真ん中で正座し、自分の太股を叩いていた。
「怒ってんじゃないの?」
「もうおしまい。それにお手柄だったしね」
苦笑につられてアタシも――これからの事に期待して笑みを返す。アタシは重い体をなんとか起こし、相棒のベッドにお邪魔した。
長いスカートに覆われた腿に頭を乗せる。最初はふわふわで頼りなかったのが、旅を経て筋肉がついたおかげで今はちょうどいい弾力があった。相棒のお腹に頭頂部を向けた形で寝転ぶから、脚と脚の谷間がいい感じに頭を支えてくれる。
見上げる先で上下逆さまになった相棒が手袋を外した。
人前ではだいたいいつも手袋をしているから手首から先に白く日焼けの痕がある。その白さや手の甲の紋章を目の当たりにできるのはアタシだけの特権。
白い指先が頭上の耳に触れる。
切り揃えた爪が短い毛並みを撫でて、地肌をかりかりと掻いていく。先端から付け根まで、ちょっと位置をずらして付け根から先端まで。短いストロークでかりかりされると体が勝手に身震いしてしまう。する方も毛並みを堪能するのが心地いいらしい。
耳全体を撫でた後は人差し指と親指で耳を摘ままれる。
筋肉や神経の集まる場所だから丁寧に、気持ちよさと痛みのぎりぎり境目の力加減で揉みほぐしてくれる。彼女の指が動くごとに耳の筋肉の強ばりに気づかされる。
初めて会った時からなぜかこの子は獣人向けマッサージが異様に上手い。元の世界で猫を飼っていてよくもみくちゃにしていたからだという。飼い猫扱いは不本意だけどこの手腕はただ者じゃない。
耳と頭皮の間を指の腹で押し、そのまま小刻みに円を描かれるのとか背筋が溶けそうだ。血の巡りを促されて頭皮全体がむずむずし始めたタイミングで指先が頭をゆるく弾いていく。
とんとん、ぽんぽん。地肌を叩く音や振動が眠気を膨らませていく。半分夢の中に沈みながら、アタシは相棒を見上げた。
手の甲の紋様が優しい光をたたえている。
ひょっとして。この子のマッサージが凄いのは聖女の癒しの力のおかげでもあるのだろうか。
「お金、貯めたらさあ」
あくび混じりにそんな言葉が飛び出した。
「マッサージのお店開きなよぉ。アタシ用心棒やるー」
「どうしたの急に」
「絶対稼げるー……」
この子の居場所が別の世界にあるのは知ってる。何に使うか分からない板切れを親指で叩いているときの寂しそうな表情だって。聖女の役目から逃げきれたとしても、たった一人、帰る場所もないままこの世界で生きていくのは苦しみを伴うものだと思う。
ただ。
小さな店を構えて誰かを癒すのは、そこをアタシが守るのは、ほんのちょっとでもこの子の苦しみをやわらげはしないだろうか。
そんな妄想は胸のうち。アタシはでろでろになった猫耳を伏せて目を閉じる。
アタシの地元では頭上の耳をさわらせるのは親子や夫婦など特に親しい関係に限られる、というのはもうしばらく黙っておこう。
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