君のことが、ずっと……。 

和希

前編

 晩春から初夏へとうつろいゆく、五月下旬のある放課後。

 コンコン。生徒会室のドアを軽くノックすると、


「どうぞ」


 中から、生徒会長の声が招いた。

 深い森の奥に湧く泉のように澄みわたった、耳ざわりのいい、清らかな声。

 何度聞いても聞き飽きない彼女の声に、ボクの心臓はとくんと小さく跳ねる。

 ドアを開き、中に足を踏み入れてみると、彼女は正面の生徒会席に座っていた。


「やれやれ、また君ですか。こうも毎日、放課後になるたびに生徒会室にやって来て。いったい何のご用です? こちらは子猫の手も借りたいほど忙しいというのに」


 作業していた手を止め、呆れたようにボクを見上げる生徒会長。

 けれども、けっして嫌がっているわけではないことは、口元にうっすら浮かべた微笑が物語っている。


 つややかな長い黒髪。透き通るようなきれいな肌。勝ち気な瞳。

 小柄ではあるけれど、身体の小ささをあまり感じさせないのは、背筋がぴんと伸びて堂々としているからだろう。


 確固たる信念や揺るぎない自信をただよわせる彼女は、いつもボクに、華麗に咲き誇る赤いバラを連想させる。

 その美しい一輪をこの手で摘み取ってみたい――ふとそんな衝動にかられ、思い止まる。


 彼女に触れてみたい。けれども、彼女に嫌われたくもない。

 そんな心のせめぎ合いに、ボクはわずかに表情を曇らせる。


「どうしたんです? いつまでもそんなところに立ちつくして。ふふっ、まさかこのわたしに見とれてしまった、なんて言うのではありませんね? ――へっ? わりとその通りだって?」


 たちまち、生徒会長の色白の頬にぱっと桜色が散る。


「も、もうっ、からかうのは止めてくださいっ。ちょっと冗談を言ってみたかっただけですからっ。本気にしないでくださいっ」


 ぱたぱた、と恥ずかしそうに火照った顔を手であおぐ生徒会長。

 こちらこそ、動揺させてごめんね。

 でも、生徒会長のそういうところ、ボクは好きだよ。


「ほら、君もそうして突っ立っていないで、いいかげんそこに座ったらどうです?」


 生徒会長が、部屋の中央に置かれたソファへとボクをうながす。

 これ以上彼女の機嫌をそこねてはいけないので、ボクは素直に腰を下ろす。


「それで、今日はいったいどんなご用件で? 用があるなら早く言ってください。こちらも暇ではないんですからね」


 まあ、特に用はないのだけど。

 ただ、生徒会室に立ち寄るのは、ボクにとって、家に帰るのと同じくらい自然なことだから。

 今日も当たり前のように、この癒しの空間にやって来る。


「まったく、君という人は。用もないのに毎日のように生徒会室を訪ねられては困ります。そもそも、いったい君は何が面白くてこんな人気のない生徒会室に毎日足を運んでくれるんです? ――えっ? わたしに会いたいから来た? わたしの顔が見たくて?」


 生徒会長の顔が、トマトのようにみるみる赤くなっていく。


「と、とんだ物好きがいたものですねっ。いったいわたしの何がいいんです? えっ、すべてがいい? お顔も天才? そ、それはどうも、恐れ入りますっ。……でも、君のことだもの。きっとあらゆる女の子に、そういう歯の浮くようなセリフを言っているのでしょう? 君は可愛い女の子が大好きですからね。君の甘い言葉にそそのかされて、ついその気になってしまう女の子だっているにちがいありません。ですが、ごあいにく様。わたしにその手は通用しませんよ」


 うろたえつつも、最後には謎の自信をのぞかせて、薄い胸を誇らしげに張る生徒会長。

 そんな仕草も表情もセリフも、ほんとうに可愛くて。

 だから、ボクは彼女に教えてあげるんだ――こんなこと、生徒会長にしか言わないよ、って。


「……むぅ……そうですか……っ。それはご親切にありがとうございます……っ」


 生徒会長が短くうめき、頬をさらに紅潮させる。

 それから、彼女は何かをふり払うように、静かに首を横にふった。


「ですが、それが事実だとしたら、わたしは君をここから追い出さなくてはなりません」


 どうして?


「だって、考えてもみてください。人通りの少ない校舎の隅の、けっして広いとはいえない生徒会室に、若い高校生が二人きり……。わたしだって、どんなに平然と振る舞っているように見えても、手狭な空間で君と二人きりになればそれなりに意識もしますし、軽く緊張するくらいには年頃の女の子なんですよ?」


 意識してくれるのは嬉しいけれど、緊張しなくてもいいのに。

 ボク、何もしないよ?


「分かっていますよ、君が何もしないことは。だからこそ、わたしもこうして安心して君を受け入れているんです。わたしは君を信じていますから。いつもわたしのことをそれなりに大切に思ってくれて、温かく見守ってくれて。君がそういう優しい人だと、わたしは知っているつもりです」


 それなりに、じゃないよ。

 とても大切に思っているよ。


「でも、その優しさが、時々怖くもなるんです。どうしてわたしにそうまで優しくしてくれるんだろうって? いつも心配そうに生徒会室をのぞいてくれて、まれに仕事を手伝ってくれたりもして――もちろん、君の機嫌がいい時に限って、ですけど。まったく、君は子猫のように気まぐれですから」


 生徒会長が困ったように苦笑する。

 ごめんね、気分屋で。

 でも、生徒会長を支えてあげたいって気持ちは、本物だよ。


「もちろん、君に親切にしてもらえるのは嬉しいですよ。でも、君は不用意にわたしの領域に侵入してきますから……時にドキッとしたりもして……っ」


 胸に手を当て、赤らんだ顔でうつくむ生徒会長。

 それから、ふたたび顔を上げ、ボクにきっぱりと告げた。


「もし、わたしが君に寄せている信頼がわたしの独りよがりな幻想に過ぎなくて、君がよからぬ下心を持って近づいてきているのだと分かれば――わたしは君をこの生徒会室から追い出すのに、ためらいはしないでしょう。万が一、身の危険を感じるようなことがあれば、わたしは今にも廊下に飛び出して、二人きりの密室で君に襲われたとわめき散らしてやる覚悟があります」


 生徒会長ってば、いったいどんな妄想をしているの?

 身の危険ってなに?

 ボクが生徒会長を襲うような人間に見える?


「君は時々そういう目をしています」


 うそ。

 どういう目?


「獲物を狙う獣みたいな、そういう怪しい目です」


 ボク、そんな目してたかな?

 でも、だとしたら、それは生徒会長が可愛すぎるからいけないんだ、ってことにはならない?

 可憐に咲く一輪のバラを目の前にしても、触れてみたいとも思わずに、心おだやかに眺めていられるだけの強靭な精神力や心の余裕がボクにあればよいのだけど。


「だいたい、君は気づいているんですか? 生徒会室に足しげく通う君をわたしがこうして毎日迎え続けていたら、この先、いらぬ誤解を招く恐れだってあるんですよ」


 誤解?

 いったい、どんな?


「たとえば、わたしと君が生徒会室で毎日イチャイチャしているだとか、二人は付き合っているんじゃないか、とか。わたしがご主人様の帰りを待ちわびる子犬みたいに尻尾をふって、君が来るのを今か今かと待ち焦がれている、とか」


 なにそれ、可愛い。

 思わず頬が緩んじゃう。


「もう、どうしてそんなに嬉しそうなんです? とにかく、誤解されてもおかしくない状況にわたしたちはいるんです。そして、根も葉もない噂が妙な信ぴょう性をもってあっという間に広まっていくのが、学校という場所です。ああ、今ごろわたしも陰でどんなひどいことを言われていることやら」


 額に手をそえ、悩ましげにため息をつく生徒会長。

 どうやら全校生徒の前に立つような目立つ仕事をしているせいか、気苦労が絶えないらしい。

 でも、それなら解決する方法はあるよ。

 誤解を正解にしちゃえばいいんじゃないかな。


「へっ? 誤解を正解にすればいい? それってつまり……ふえぇっ!? もしかして、君はほんとうにわたしたちが付き合えば誤解じゃなくなるって言いたいんですかっ!?」


 うん。

 理論上はそういうことにならないかな?


「い、いけませんっ! まったく、君は神聖な生徒会室をなんだと思っているんですっ? こんな場所でわたしたちがイチャイチャすれば、たちまち学校全体の風紀が乱れてしまいますし、なにより生徒会長であるわたしが子犬みたいにきゃっきゃと君を待ちわびていたら、権威が地の底まで堕ちてしまいます。そんなの、絶対に許されません……っ」


 耳まで紅葉みたいに真っ赤に染め上げて、ぷいと顔をそむける生徒会長。

 やっぱり駄目、だよね。

 自分でも分かっているんだ、結ばれるはずのない恋だって。


 だって、ここは女子校で。

 ここに通うボクも生徒会長も、あらがいようもなく同じ性別をしていて。

 ボクの一方的な想いに、彼女を付き合わせるわけにもいかないから……。


 でも、せっかくこうして二人きりになれたんだもの。

 せめて今だけは、生徒会長ともう少しお話を続けていたいな。

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