魚拓
よしこう
第1話
佐山哲夫は今年で62になる。
先祖代々からの古ぼけた木造の家には、今日も昔と変わらず魚拓が飾られている。
額縁に入れられた魚拓は大きな鯛を釣ったときのものらしい。
文字は墨が滲んで読めなくなってしまっている。
しかし釣りを嗜まない哲夫にもこれが相当の大物であることは一目で分かった。
梁に釘を打ち込んで固定されている魚拓。
その中の鯛は鱗の一枚まで丁寧に写されており、まるで生きているかのようなその片目はこちらをジーっと睨んでいる。
山形県鶴岡市、哲夫はそこに住んでいる。
当時企業勤めだった哲夫は東京に転勤したときに東京の本社で事務職をしていた美咲と結婚し、二人の子宝に恵まれた。
一人は今東京に行って働いているがもう一人は、そこまで考えが及ぶと哲夫は大きなため息をついた。
次男坊の隆史は今年で32になるが職につく訳でもなく家に我が物顔で居座っている。
長男は優秀で国立大を卒業して大企業に入社した。
隆史は兄と同じく国立大を志望していたが浪人し、次の年には地方の私立大には合格したが、国立大には合格できなかった。
その前からも兄と自分を事あるごとに比べて劣等感を感じているようだったが、受験の失敗も加担して隆史の中の劣等感は生来の明るい性格に陰鬱な蓋をしてしまったようだった。
大学にはしばらく通っていたがすぐにサボり気味になり、オンラインゲームに興じるようになってしまっていた。
普段は二階の自室に引きこもっているが食事になると下に降りてきて飯を食べる。
その度に哲夫は口酸っぱく小言を言うのだが全く聞く耳をもたない。
そればかりか逆に開き直っている節がある。
これには妻と二人途方に暮れているのだ。
今日も隆史は食卓に座ると食事をとりはじめた。隆史はふと顔を上げると哲夫におもむろに尋ねた。「この魚拓、なんで外さないの? 毎回飯の度に頭にぶつかりそうになって邪魔で邪魔で仕方が無いんだよ」
哲夫は隆史をギロリと睨みつけた。
これは自分が物心付いたときから家にあったものでずっと同じ場所にかかっている。
今さら外せと言われて外す訳がない。
隆史は低く舌打ちすると二階にノロノロと戻っていった。
その日の晩、哲夫はある夢を見た。
夢の中で額縁の中の鯛はピチピチと跳ねて躍りだし、だんだんと色彩も鮮やかになっていった。
そこで夢はうねうねと形を変えていった。
気づいたら古ぼけているはずの家は新築のように変わっていた。
髪を髷に結った背の低めの男が玄関の引戸から入ってくるのが見えた。
夜中であるが夢だからか妙に明るく顔もはっきりと分かった。
その男は長い竹で出来た竿を戸にぶつからないように入れると、背中から大きな鯛を出した。
紛れもなくあの魚拓の鯛である。
そこで夢から覚めた。
時計は午前6時を指していた。
次の日も同じ夢、その次の日も同じ夢だった。
哲夫は何かに突き動かされるように車で鶴岡市立図書館に向かった。
調べるのは庄内藩の歴史である。
魚拓に関して何か載っているかもしれない。
果たしてあった。
歴史書にははじめて魚拓をしたのは庄内藩藩主酒井忠発で鮒。その後酒井公は武士道の荒廃を憂いて海釣りを奨励とある。
使った釣竿は竹製の長い竿で名前を庄内竿と言う。
昨晩の夢と奇妙に符号している。
それだけではない。
職務に支障が出ないように太陽が沈んだあと二十キロの道程を庄内竿を担いで行軍し、その後魚を釣るというのだ。
夢の中では夜中だと思っていたが奇妙に明るかったのは釣りが長引いて帰ってくるのが明け方になってしまったということだろうか。
奇妙な一致に胸の高揚を覚えながら哲夫は家に戻った。
次の晩の夢は同じものではなかった。
男が隆史と向かいあって座っていた。
男は隆史に持っていた庄内竿を手渡した。
その瞬間隆史の体は光に包まれた。
そこで目が覚めた。
哲夫は手がかりを探して古い蔵を漁ってみることにした。
蔵は埃まみれであったががらくたの山の奥に竹の竿があるのが見えた。
哲夫は埃まみれの蔵のなかからやっとのことで竿を取り出した。
竿は夢で見たのと同じ形である。
紛れもない庄内竿であることが分かった。
これは隆史に釣りでもさせろということだろうか。
だが隆史が自分の言うことを聞いてくれるとは思えなかった。
その日の晩哲夫は思いきって夢の話を隆史にしてみることにした。
隆史は最初こそ怪訝な顔をしていたが途中自分が出てくるくだりになると急に驚いた顔になって食い入るように話を聞いてきた。
「なんで父さんも同じ夢を?」
隆史は驚いたようにそう言った。
哲夫も同じく驚いた。
自分だけならまだしも息子も同じ夢を見ているとは。
隆史は夢の中で庄内竿を手渡されたという。
哲夫は書斎に立て掛けてある庄内竿を持ってくると何も言わずに隆史に差し出した。
隆史の死んだ魚のような虚ろな目の奥に小さな光が宿っているような気がした。
「行ってみようかな」
隆史は小さな声で呟いた。
何かに導かれているようだ。
哲夫は車を出した。
釣り場に人はいなかった。
哲夫は隆史を降ろすと
「釣りは一人でするものだ。頭を空っぽにして魚に挑んでみなさい。日暮れ時には迎えにくるから」と言った。
隆史はぶっきらぼうに返事をすると釣りをはじめた。
釣り餌を釣り針につけ、投げる。
単調な作業だ。
しばらく経った。
釣れない。
もうしばらく経った。
釣れない。
隆史はだんだんイライラし始めた。
何だってこんな竹製のボロボロの竿を使わなくちゃならないんだ。
なんでこんなめんどくさいことしようと思ったんだろ。
そういう考えが隆史の頭を覆いはじめた。
その時である。
「随分と古風な釣竿だねー。」
後ろを振り向くとサングラスをかけた中年の男が立っていた。
その男は持ち運びの椅子を隆史の隣に置くとそこに腰かけて隆史の竿を手に取った。
「釣りははじめてかい?」
隆史は久しぶりに親以外の人に話しかけられて驚いたが小さな声で
「はい」 と応えた。
「驚いたなー、この釣竿は庄内竿だね。今も売っているところがあるの?」
隆史は畳み掛けるような質問に少しおどおどしつつも「
いいえ、これは家ので、」と言った。
その男は地元の庄内弁のしの字もない共通語で話しかけてくる。
父と同じく東京勤めだったとかなのだろうか。
色々と勘ぐっていると男は隆史を見て、
「それじゃあダメだよ、いいかい見ていなさい」と甲斐甲斐しい指導がはじまった。
釣りとは不思議なものである。
初対面で、年齢も違うのに二人は不思議なほど打ち解けあったのである。
急に隆史の手に電流の走ったような感覚が来た。「かかった」
隆史の声が海に響いた。
大物である。
庄内竿は綺麗な曲線を描いた。
男も加勢してしばらく格闘すると大物もだんだんバテてきたと見えて急に引く力が弱くなった。
「今だ」
男の声が響いた。
その大物は大きな鯛であった。
男はタモでそいつを掬い上げた。
鯛はビチビチと体を震わせて暴れていた。
ちょうどあの魚拓ほどの大きさである。
隆史は勝利の興奮と感動に酔いしれた。
男は満足げにうなずいた。
この日の経験は隆史の心に差す一筋の光となった。
与えた変化は決して大きくは無かった。
しかし彼の心を覆っていた氷はじわじわと溶けはじめていた。
次の日である。
あの生き生きとした魚拓は墨でかすれてしまっていた。
魚拓は長い人生を終えたかのようであった。
隆史は昨日釣り上げた鯛と魚拓の鯛を照らし合わせた。
魚拓の額は外して倉庫に仕舞われることになった。
魚拓の額の小さな隙間に古く黄ばんだ和紙が挟まっているのが見えた。
取り出して開くとそこにはこう書かれていた。「青取之於藍、而青於藍、氷水為之、而寒於水。」即ち
「青はこれを藍あゐより取りて、藍よりも青く、氷は水之を為して、水よりも寒し」。
学び続けよ、さすれば拓ける。
そう諭されたと思った。隆史はともかく前を向くことにした。
魚拓 よしこう @yakatu
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