言葉

よしこう

第1話

 言葉にはそれぞれ固有の世界がある。文字があろうがなかろうが。なら、忘れ去られた言葉とともに、その世界は死んでしまうのだろうか。

 森の奥の家に老人が一人で住んでいる。彼の顔は焦げ茶色で、深く皺が刻まれていた。彼は毎朝のように森へ出かける。まるで義務であるかのように。短弓を携えた彼は狼のように見えた。時折道ですれ違う彼は、決まって私を鷲のような目で射抜く。黄色い目、そう、彼の目はトパーズのように見えた。

 私は言葉を追っている。山の奥で、林の中で。言葉とは窓である。世界を理解するための窓。彼の目はどんな風に世界を捉えているのだろう。

 彼の家は実は家と呼ぶのも難しいような代物だった。深い森の中で木々に囲まれているその家の屋根はただ木々を板にして貼り付けただけというような粗末なものであって、雨を防ぐにも難儀しているようだった。けれども彼は狩りに行く。そして決まってその日食べるだけの獲物を狩るのだ。その家から登る煙はきまって一つだけだった。

 私は彼の家の隣からずっと彼を眺めていた。鬱蒼とした密林の中でたった一人。彼は何を思っているのだろう。

 言葉とは人と人を繋ぐもの。けれどもそれは仲間あってこそ。失われつつある一つの世界の、たった一人の継承者。彼の言葉は私には届かない。けれども彼は狩りに行く。私には分からない。

 とうの昔に消えた氏族、山の中に呑まれ、静かに消えていった小さな世界。彼らはその生きた証を世に残せたのだろうか。

 私は文字を追っている。失われた世界の断片を集めている。一つの文字にも、一つの声にも、物語が宿る。

 彼の言葉は相変わらず私には分からない。それでも私を見るのが楽しいのか、彼は伝わりもしない言葉を紡ぐ。彼の言葉には文字がない。いや、もう失われてしまったのか。

 森には特有の言葉があった。彼の言葉はその森の鼓動を敏感に感じ取る力を持っているようだった。ここには森の神が息づいている。

 日は既に暮れかかっていた。けれどもこの森はいつまでも仄明るい光に覆われている。彼の言葉はその光をとても美しく表した。けれども私の言葉ではその光をうまく言い表せない。静かに光を放ち、森を暖かな明かりで覆う。眠るには明るすぎると思った。けれども彼はそんなこともはや気にもならないようだった。

 森の主というのがいるそうだ。それはこの森の奥深くの洞窟に住む獣なのだそうだ。私にも少しずつ彼の言葉が分かってきた。

 今日は特別な日だ。年に一度、この森の木々が一斉に花を咲かせる祭日。この日だけは彼も猟をしない。この日にあわせて作った酒を、一晩で空かしてしまうのだそうだ。その酒はこの木々に咲く花が落ちたあと、その花を使って作るのだそうだ。半透明な水色の酒。一口呑んでみて驚いた。度数が強いのに、不思議なことにくらくらとした酔は回ってこない。体がぽかぽかと暖かくなって、不思議な高揚感に襲われた。これならいくら飲んでも大丈夫だと思った。

 ある暖かな春の日に、男は静かに眠りについた。こうして男の話した言葉は遠い森の中で、忘れ去られることになった。だが、私だけは覚えておこう。あの男の紡ぐ優しげな言葉を。

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言葉 よしこう @yakatu

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