第3話 高校3年~大学入学
高校三年のクラス配属は、将来の希望と二年生までの成績で割り振られるが、正臣はトップクラスの生徒が集まる理系男子選抜クラスの三年十組になった。
由美と小百合は三年二組の女子クラスになり、そのクラスには正臣の幼馴染みの高良真樹も配属されていた。
真樹が正臣を振る原因になった和田は、高校二年の夏休みの間に大阪に転校していて、真樹の髪形は正臣が好きだった昔の形に戻っていた。
正臣が昼休みに委員会業務の打ち合わせのために彼女達のいる三年二組に行くと、由美と小百合が正臣に駆け寄ってきた。それとは対照的に、真樹は今にも泣き出しそうな顔をして正臣を見つめていた。
彼女たち三人の間で恋のさや当てが始まるのは時間の問題であった。
若松東高は夏休になる前に、若松区と若戸大橋で結ばれた戸畑区にある戸畑高校とスポーツ競技会を行っていた。
「若戸大会」と呼ばれるその競技会では、会場になる高校の保健委員が救護班を構成するが、相手方の高校の保健委員も顔を見せるのが慣例となっていた。高校三年の時の「若戸大会」は戸畑高校で開催され、正臣と由美と小百合の三人は戸畑高校に行った。由美はインターハイの短距離走者に選ばれるほど足が速かったので、リレー選手としてもその大会に参加していた。
その年の「若戸大会」の最後の種目は男女混合リレーだった。そのリレーで由美がぶち切りの速さでトップに立ち、アンカーの男子にバトンを渡すことが期待されていた。
その競技が始まる三十分くらい前に小百合が、
「気分が悪くなったから、もう帰る。河村君、送って」
と言った。
正臣は由美の走りを見たかったが、小百合の体のことを気遣って彼女と一緒に戸畑高校を後にした。
正臣が小百合と一緒に少し歩いて大きな通りに出て、タクシーを捕まえようと思った時、小百合が思ってもいないことを言った。
「気分が悪くなったっていうのは嘘よ。河村君と町を歩きたかったの。ねえ、若戸大橋を歩いて渡ろう」
そう言うと小百合は、正臣と腕を組んできた。
若松東高一の美少女だと思っていた小百合にそんな行動をとられて、正臣は彼女に心を奪われてしまった。
二人は若戸大橋を歩いて渡り、若松の町に一つだけあったデパートの『丸伯』のファミリー食堂で、アイスクリームを食べてアイスコーヒーを飲んだ。
一方、正臣の幼馴染みだった真樹は、帰り道で正臣を待ち伏せするようになった。
それは、若松東高からバス通りを五分ほど下った深町一丁目の本田米穀店がある四つ角で友達と話をしながら正臣を待ち、正臣の姿が見えると友達と別れて、正臣に会釈してから自宅に向かうというやり方であった。
その四つ角から真樹の家に続く坂道の途中にある小田山は、よくアベックが草むらの中でエッチしているという場所であった。実際に東高の中にも、その草むらの中で「B」まで済ませたという同級生カップルがいた。
正臣は、
(まさか高良さんは、僕を小田山の草むらに誘っている訳じゃないよな?)
と思った。
実際に高良真樹は、正臣を取り戻せるなら何でもしようと思っていた。
真樹は紅葉中学で正臣と一緒に過ごした三年間、正臣が『好きだ』と言わないまでも、正臣の好きな女の子は自分だけだということを真樹は知っていた。それなのに、一時の気の迷いで正臣を裏切ってしまったと、真樹は後悔していたのである。
しかも高校三年になって、自分と同じクラスの女子と仲良くしている正臣を見て、
(河村君は、私のものだったのに・・・)
と、嫉妬の炎を燃やしていたのだった。そして真樹は、自分の裏切りを正臣に許してもらうために、高校三年まで守ってきた女の子の一番大切なものを正臣に捧げようと思っていたのである。
しかし正臣は、真樹の後を追うどころか、彼女と口をきこうとしなかった。
(俺は小学校に入学した時からずっと真樹のことが好きだったのに、あんな振り方をするなんて、絶対に許せない。今更俺に何をしろというのだ)
正臣は、中学二年の三月に真樹に出した差出人が書かれていない手紙に書いた、
『真樹が東高に入ったら、手紙の差出人が誰だか打ち明ける』
ということも実行しないままであった。
由美も負けていなかった。
由美が盲腸になって入院した時、彼女が入院した「大安部外科医院」の近くに住んでいた正臣は、由美と同じクラスにいる小百合から渡された「学習プリント」を由美に届ける役目を請け負った。
正臣は、渡すプリントがない日も由美のお見舞いに行った。
由美は毎日、病室で時計とにらめっこしながら、正臣が来るのを今か今かと待っていた。
由美は入院五日目まではパジャマを着ていたが、入院六日目に正臣が由美の病室に入ると、彼女はスケスケのネグリジェ姿だった。それは、高校一年の海水浴の時に彼女が着ていた水着よりも刺激的だった。
正臣がどぎまぎしていた時、看護師さんが由美の病室に入ってきた。
「大野さん、検温ですよ。あら、ボーイフレンド?」
と由美に聞いた看護師さんに彼女は、
「いいえ、彼氏です」
と答えた。彼女のその答えに正臣は、
(俺は三人の女の子の心をもてあそんでいることになるのじゃないか?)
と思い始めた。
由美の入院九日目には、由美のお見舞いに来た彼女のお母さんから、
「あなたが河村君? 由美からいつも話を聞いているけど、本当にハンサムね。これからもこの子をよろしくね」
と言われた。
由美の母親にそう言われて、正臣は決心した。
(いささか遅きに失するが、僕はまだ誰とも約束していないし、手も握っていない。誰か一人を『僕の彼女』と決めないといけないな)
そう思った正臣は、小百合を彼女にしようと決めた。小百合に決めた理由は、育った環境が自分とあまり変わらないと思ったからであった。
(由美に僕のことを諦めさせよう)
それは正臣の思い上がりだったかもしれないが、とにかく急を要する事だと思われた。
そこで正臣は、KBC九州朝日放送とRKB毎日放送のラジオの深夜番組とオールナイトニッポンにリクエスト葉書を書いた。
『若松東高の三年二組にいる大好きな近美小百合さんにこの曲をプレゼントします。河村正臣』
と、四日続けて、それぞれ二枚ずつ小百合に曲をプレゼントする葉書を出した。リクエスト曲はいずれも、その頃流行っていた洋楽のラブソングだった。
そのいくつかは採用され、それはたちまち東高で話題になった。
由美が明日退院という日、正臣がいつものようにプリントを持って由美の病室に入ると、彼女が聞いてきた。
「河村君、河村君がラジオの深夜放送で近美さんに曲をプレゼントしているって友達に聞いたけど・・・嘘よね。河村君はそんなことしないよね?」
それに対して正臣は、
「いや、本当だ」
と言った。
由美の目から大粒の涙が溢れ出し、女がこんなに泣くとは思わないほど彼女は泣いた。
正臣は泣いている由美をなだめもしないで、彼女の病室を出た。
その次の日から、正臣は小百合と東高の靴置き場で待ち合わせて、肩を並べて帰るようになった。
高校時代に恋に落ちたら、普通なら切ない思いをたくさんして、眠れない夜をいくつも数え、それでも打ち明けられずに片想いで終わることの方が多い。
それに対して正臣は同じ高校の生徒全員の前で、
「僕は、近美小百合さんに恋をしています」
と告白したのも同然であった。
当時の高校生は恋愛に関して臆病者が多く、ラジオの深夜放送で好きな人に告白する男など他にはいなかった。
正臣は小百合に、
「うれしいけど、恥ずかしいからもうやめて」
と言われて深夜放送へのリクエストをやめたが、二人の仲は公然のものになった。
その週の日曜日、正臣は小百合の家に招かれた。そして正臣は、彼女の部屋に入った。
そこは甘酸っぱい女の子の匂いがした。
「私の部屋に入った男の人は、あなたが初めてよ」
と小百合は言った。続けて小百合は、
「隣の部屋で私のお父さんが聞き耳を立てて、私達がこの部屋の中で何をしているか探っているみたいだよ。私と何がしたい?」
なんて冗談を言った。
その部屋には彼女のベッドがあった。
「それじゃ、君のお父さんを驚かしてやろう」
正臣はそう言うと、小百合をベッドの反対側にあったピアノに誘い、彼女とピアノの連弾をした。曲はモーツアルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク第一楽章』だった。
高校三年の秋の運動会で、正臣と小百合は東高の救護のテントに詰めた。
昼食時間になると小百合が、
「私のお父さんとお母さんが来ているから、お昼のお弁当、体育館で一緒に食べようよ」
と正臣を誘ったが、正臣は遠慮した。小百合がそう言ったのは、正臣を父親に紹介しようと思ったからであったが、正臣はそこまで気が回らなかった。
正臣は救護のテントの中で、たった一人で弁当を食べた。
昼食後の最初の種目は、フォークダンスだった。それが始まっても体育館から戻ってこない小百合に正臣は業を煮やした。そして正臣が一人でフォークダンスの輪に入ろうとした時、
「河村君~」
と呼びながら小百合が走って戻ってきた。
正臣は小百合が差し出した手を握って、フォークダンスの輪の中に入った。正臣が小百合の手を握ったのは、それが初めてであった。
その頃の正臣の家は、東高と小百合の家を結んだ道のちょうど中間地点にあった。
東高から一緒に帰るのはいいが、正臣は一度自分の家の前を通り過ぎて小百合を彼女の家まで送り、そこから自分の家に引き返すという帰り方をしていた。
小百合の家の近くには私立の女子高校があり、そこにはプラタナスの並木道があった。東高からの帰り、その道を二人で歩いていた時、色づいたプラタナスの葉がひとひら正臣の肩の上に乗った。
小百合はそれを取って、通学カバンに入れた。
「それ、どうするの?」
正臣が聞くと小百合は、
「押し花にするの」
「それって、押し花じゃなくて、押し葉じゃない」
「落ち葉よ」
そんなたわいのない話も、二人にとっては楽しいものであった。
高校三年の秋以降は大学受験のための勉強に集中しなければならない時期なのに、正臣の小百合に対する気持ちは日に日に募っていった。
そして勉強に手がつかなくなった正臣の成績は急速に落ちていった。正臣の高校三年の大学受験の年は、東大安田講堂事件で東大の入試がなかったことも影響したかもしれないが、その年の正臣の大学入試は全敗であった。
(こんなことでは、僕はダメになる)
そう気付いた正臣は、伸ばしていた髪を切って丸坊主になり、小百合に会うこともやめた。そして正臣は、次の年の大学入試に向けて、受験勉強中心の毎日を送った。それは、不得意科目を克服するために毎朝六時に起きて、旺文社の「大学入試ラジオ講座」を聞いてから朝食をとり、予備校に行くというものであった。
「継続は力なり」というが、その甲斐あって正臣は、一年後には理系、文系を問わず、受験した五つの大学のすべてに合格した。
具体的には、早稲田大学の法学部と慶應義塾大学の医学部、静岡の県立薬科大学の薬学部、そして、国立大学一期校と国立大学二期校の工学部に合格した。
正臣はその中で最も有名ではない、自宅から通える国立大学二期校である九州工業大学(九工大)に入学した。そこを選んだ理由は、小百合が九工大の近くにある短大に通っていたからであった。
昭和四十五年四月十五日に「大橋通り」のバス停で正臣と出会った小百合は、不思議そうな顔をした。
「河村君は早稲田大学に入学したと思っていたのに、違ったの?」
そう言う小百合に正臣は、
「早稲田に入学金は払ったけど、僕にはやっぱり、九工大の方が合っていると思うからね」
「そう、よかった」
一年以上会っていなかったが、二人の会話はごく自然であった。
正臣と小百合は待ち合わせていた訳ではないが、毎朝七時三十分に「大橋通り」を出て若戸大橋を渡る同じバスで通学した。おかげで正臣は一日も休むことなく朝一から大学に出て、受講可能な授業はすべて受講した。
せっかく小百合と再会したのに、勉強がおろそかになって留年したら元も子もなくなる。そこで正臣は大学では勉強第一と決めて、父親が教えてくれた『大学での勉強の仕方』を実践した。それは、部活やバイトをやっても、必ず毎日三十分を講義の復習に当てるというものであった。
具体的には、一日に四~五コマの授業を受けたとしたら、一コマについてそれぞれ五分ずつ、必ずノートを開いて先生が言ったことを反復して内容を理解する。そして最後に、その日に受けた四つまたは五つの講義について、それらの講義の関連性について五分間思いを巡らせるというものであった。
それをやったら不思議なことに、定期試験の前にあまり勉強をしなくても、正臣はすべての科目でほぼ満点が取れた。
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