第6話 大学1年

 正臣と小百合は、待ち合わせていた訳ではないが、毎朝七時三十分に「大橋通り」を出て若戸大橋を渡る同じバスで通学した。

 そのおかげで正臣は、一日も休むことなく朝一から大学に出て、受講可能な授業をすべて受講した。

 

 せっかく小百合と再会したのに勉強がおろそかになって留年したら元も子もなくなる。そこで正臣は大学では勉強第一と決めて、父親が教えてくれた『大学での勉強の仕方』を実践した。

 それは、部活やバイトをやっても、必ず毎日三十分を講義の復習に当てるというものであった。

 

 具体的には一日に四コマの授業を受けたとしたら、一コマについてそれぞれ五分ずつ、必ずノートを開いて先生が言ったことを反復して内容を理解する。

 そして最後に、その日に受けた四つの講義について、それらの講義の関連性について思いを巡らせるというものであった。

 

 それをやったら不思議なことに、定期試験の前にあまり勉強をしなくても、正臣はすべての科目でほぼ満点が取れた。


 

 夏休みに正臣は運転免許を取るため昼間は自動車学校に通い、夜は東高の山田先生に頼まれた家庭教師のアルバイトを毎日やった。そのため、小百合とデートする時間はまったくなかった。

 

 夏休みが終わると、正臣と小百合は交際を再開した。交際と言っても、毎朝バス停で会ってバスの中で話せるので、それだけでお互いに安心できた。

 

 休みの日には小百合の家の近くにあった佐藤公園でバトミントンやテニスをした。

 小百合は典型的な箱入り娘で、帰りが夜なるコンサートやダンスパーティーには親が出してくれなかった。

 正臣も男女交際について親から厳しく言われていたので、それを何とも思わなかった。

 

 それでも正臣と小百合は、お互いの大学の寮祭や学園祭には、待ち合わせて一緒に行った。小百合と並んで歩くと男子学生が振り返るのを正臣は誇らしく思った。

 

 二人で観に行った映画は、オリビア・ハッセーの「ロミオとジュリエット」とダスティー・ホフマンの「卒業」だった。

 小百合は映画を観て、きれいな涙を流した。

 正臣は小百合のその様子に、

(僕はどんなことがあっても、小百合と一緒にいよう)

 と思った。

 

 秋が深まる頃、小百合が保育実習のために短大に行かない日が何日かあった。彼女の実習先の幼稚園は、彼女の家の近くにある『若松天使園』だった。

 

 正臣は小百合を紅葉狩りに誘おうと思っていたが、バスで話せないので彼女の家に電話した。若い頃の正臣には少し吃音きつおんが残っていて、特に彼女の名前を発音するのが苦手であった。

 

 その日、電話に出たのは小百合ではなく小百合のお母さんだった。そのため正臣は、最初のひと言を発することがなかなかできなかった。

 十秒ほどの沈黙の後、正臣はやっとのことで、

「娘さんをお願いします」

 と言った。

 すると小百合のお母さんは猜疑心さいぎしんに富んだ低く鋭い声で、

「どちら様ですか?」

 と聞いてきた。


 正臣が、

「河村です」

 と答えると、小百合のお母さんの声が1オクターブ高くなった。

「あら、河村君、お元気? この頃ウチには来てくれないじゃない。たまにはウチに遊びに来てよ」

 と言った後、さらに高くてよく通る声で、

「小百合、河村君からお電話よ」

 と、小百合を呼んでくれた。

 

 それはまるで、好きな男が久しぶりに電話をかけてくれた時の女性の声であった。 

 正臣は、

(小百合のお母さんは、僕のことが好きみたいだ)

 と思った。


 紅葉狩りに行く代わりに小百合が提案したのは、日曜礼拝に行くことだった。

 

 正臣は小学校の低学年まで、栄盛川町にある若松バプテスト教会に日曜の朝は毎週のように礼拝に行っていた。その教会は正臣が幼少の頃に通っていた「神愛幼稚園」と同じ敷地内にあった。

 東高三年の時は、小百合が日曜の朝に通っていた日本キリスト教団若松教会に何度か行ったことがあった。

 そのため、正臣はキリスト教徒ではなかったが、日曜礼拝で歌われる讃美歌なら、歌詞を見なくても歌うことができた。

 

 その日正臣は、小百合の家の近くにある日本キリスト教団若松教会の日曜礼拝に行った。

 そこに行くのは二年ぶりだった。

 正臣は昔そうしたように、讃美歌を歌い、牧師さんのお話を聞き、回ってきた献金袋に献金を入れた。

 

 昔と違うのは、隣に小百合がいることだった。

 

 礼拝が終わると、小百合が祭壇の前に行ってお祈りを始めた。

 正臣は小百合の横に行って、彼女と同じように手を握ってキリスト教式のお祈りをした。

 

 正臣はお祈りを終えると小百合に、

「何をお祈りしたの?」

 と聞いた。

 すると小百合は、

「私たち二人のことよ。神様はもう知っているけど、言ったら願いが叶わないかもしれないから、今は言わない」

 と言った。

 

 正臣は宮本武蔵がものの本に書いていたように、

 『神仏をたっとび、神仏に頼らず』

 を信条にしていたが、その日だけは違っていた。

 正臣は心の中で、

(神様お願い、小百合と結婚できますように)

 とお願いをしていた。


 その日曜礼拝の後、正臣は久しぶりに小百合の家に上がった。

 小百合のお母さんが出してくれた昼食は、ご馳走だった。

 正臣は小百合や小百合のお母さんと一緒にそのご馳走を食べた。

 

 食事をしながら小百合のお母さんは、

「私の旦那さんは、私が女学校時代に道ですれ違う憧れの人だったの。その人とお見合いすることになって、私はその人とすぐに結婚しようと決めたのよ。それが小百合のお父さん」

 とか、

「私のお兄さんも九工大を出ているの」

 など、小百合のお母さんの身内の話をしてくれた。

 それを聞いて正臣は、小百合とは安心して付き合えると思った。

 

 昼食の後、小百合のお母さんは、

「今からお買い物に行って来るから、二人でお留守番していて。二時間くらいで帰って来るわ」

 と言い残して、買い物に出かけた。


 

 冬になると、車の運転に慣れた正臣は、車で大学に行くことが多くなった。

 正臣の父親は以前から会社の車の送り迎え付きだったので、正臣は、家にある自家用車をいつでも使うことができた。

 

 若戸大橋の通行料は片道百円だったが、回数券を使うとかなり安く上がった。そして正臣は、小百合が短大からの帰りにバスを乗り換える戸畑の「麻生通り」のバス停で彼女を車でピックアップして、小百合を家まで送るようになった。

 

 正臣の家の自家用車は、何の変哲もない白いファミリーカーだった。

 それでも小百合は嬉しそうな顔をして正臣が運転する車に駆け寄って来て、ドアを開けて助手席に座った。

 そして二人は、カーステレオから流れてくる曲について話をしながら小百合の家までドライブした。

 

 正臣はカーステレオで毎日違うアーティストの曲を流して、小百合の反応を見るのを楽しみにしていた。

「今日は、ビートルズね」

「これは、『夏の日の恋』・・・私、この曲が大好きよ」

「どうして今日は、三波春夫の曲なんか流すの?」

「これは高三の時にラジオの深夜放送で私にプレゼントしてくれた、『悲しい片思い』ね。一緒に歌ってみようよ」

 

 そんな幸せな日々は、あっという間に過ぎていった。

 

 正臣の二十歳の誕生日の二日後の日曜日は小春日和だった。その日、桜のつぼみはまだ硬かったが、正臣は佐藤公園の桜の木の下で小百合と待ち合わせて、彼女を正臣の家に連れて行った。

 

 高校時代にも小百合は何度か正臣の家に来たことがあったが、それは「山の堂」にあった前の家で、若松で一番大きな家になってから小百合が正臣の家に来るのは、それが初めてであった。

 また、小百合を父親に会わせるのは、正臣にとってそれが初めてだった。

 

 正臣の父親は、小百合の美しさに言葉を失った。

 そして小百合が四月生まれで、正臣と同じ学年でも小百合が正臣より一歳近く年上だと知って、

「『一歳年上の女房は金(かね)のわらじを履いてでも探せ』と言うから、正臣にとって小百合ちゃんは貴重な存在だね」

 と言った。

 

 正臣の母親は、大切にしていたカメオのブローチを小百合にプレゼントした。

「これは私のお母さんが持っていたものよ」

 と正臣の母親が小百合に言うと、小百合は、

「ありがとうございます、お母さま。私、これを大切にします」

 と言った。

 

 その日、正臣は小百合を家に送る途中で、小さい頃から写真を撮ってくれていた写真館に小百合と一緒に入った。

「お坊ちゃん、今日は何事ですか?」

 写真館のおじさんがそう言うので、

「今日は、彼女が家に来たから、記念に写真を撮ってもらおうと思って」

 正臣がそう言うと、おじさんは二人をスタジオの中に案内した。

 

 小百合が短大の卒業を三日後に控えた昭和四十六年三月十日、いつものように正臣に車で自宅に送ってもらった小百合は、車が自分の家の下に着いたのにドアを開けようとしなかった。

 

 正臣は、

「この車のドアの開け方を忘れたの? この前までは開けられたのに」

 と言った。


 それでも小百合は車のドアを開けずに、無言で何かを待っていた。

(今日が車で家に送ってもらう最後の日になるのに、あなたはなぜ、何も言ってくれないの?)

 小百合は正臣の

『短大を卒業しても、僕と会ってくれる?』

 という言葉を待っていたのである。

 

 正臣にそう聞かれたら、答えはもちろんイエス。

 そして指切りをして初めての口づけを交わしたいと小百合は思っていたのである。

 

 しかし正臣は何も言わず、左手をいっぱい伸ばして助手席側のドアハンドルを引いた。

「じゃ、またね。バイバイ」

 いつもと同じグッバイであった。

 

 正臣はその時、小百合とキスしたいという衝動を覚えていた。しかしそれをしなかったのは、

(小百合とそういう仲になった後、何らかの理由で彼女を失うことになったら、自分は生きていけない)

 と思ったからであった。

 

 小百合は現役で短大に入り、正臣は一浪して大学に入ったので、一緒に大学に通えたのは、たった一年だった。

 

 だがそれは、二人にとってかけがえのない一年間であった。

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