第4話 大学1年~2年

 夏休みに正臣は運転免許を取るため昼間は自動車学校に通い、夜は東高の山田先生に頼まれた家庭教師のアルバイトを毎日やった。そのため、小百合とデートする時間はまったくなかった。

 夏休みが終わると、正臣と小百合は交際を再開した。交際と言っても、毎朝バス停で会ってバスの中で話せるので、それだけでお互いに安心できた。

 休みの日には小百合の家の近くにあった佐藤公園でバトミントンやテニスをした。そしてデパートの丸柏に行って、ファミリー食堂でアイスクリームを食べた。

 小百合は典型的な箱入り娘で、帰りが夜なるコンサートやダンスパーティーや飲み会には親が出してくれなかった。正臣も男女交際について親から厳しく言われていたので、それを何とも思わなかった。

 それでも正臣と小百合は、お互いの大学の寮祭や学園祭には、待ち合わせて一緒に行った。

 二人で観に行った映画は、オリビア・ハッセーの「ロミオとジュリエット」とダスティー・ホフマンの「卒業」だった。小百合は映画を観て、きれいな涙を流した。

 正臣は小百合のその様子に、

(僕はどんなことがあっても、小百合を守ろう)

 と思った。

 

 秋が深まる頃、小百合が保育実習のために短大に行かない日が何日かあった。小百合の実習先の幼稚園は、彼女の家の近くにある『若松天使園』だった。

 正臣は小百合を紅葉狩りに誘おうと思っていたが、バスで話せないので彼女の家に電話した。若い頃の正臣には少し吃音きつおんが残っていて、特に彼女の名前を発音するのが苦手であった。

 その日、正臣がかけた電話に出たのは、小百合ではなく小百合のお母さんだった。そのため正臣は、最初のひと言を発することがなかなかできなかった。

 十秒ほどの沈黙の後、正臣はやっとのことで、

「娘さんをお願いします」

 と言った。すると小百合のお母さんは、猜疑心さいぎしんに富んだ低く鋭い声で、

「どちら様ですか?」

 と聞いてきた。正臣が、

「河村です」

 と答えると、小百合のお母さんの声が1オクターブ高くなった。

「あら、河村君、お元気? この頃ウチには来てくれないじゃない。たまにはウチに遊びに来てよ」

 と言った後、さらに高くてよく通る声で、

「小百合、河村君からお電話よ」

 と、小百合を呼んでくれた。

 それはまるで、好きな男が久しぶりに電話をかけてくれた時の女性の声であった。 

 正臣は、

(小百合のお母さんは、僕のことが好きみたいだ)

 と思った。


 紅葉狩りに行く代わりに小百合が提案したのは、日曜礼拝に行くことだった。

 正臣は小学校の低学年まで、栄盛川町にある若松バプテスト教会に日曜の朝は毎週のように礼拝に行っていた。その教会は正臣が幼少の頃に通っていた「神愛幼稚園」と同じ敷地内にあった。

 東高三年の時は、小百合が日曜の朝に通っていた日本キリスト教団若松教会に何度か行ったことがあった。そのため、正臣はキリスト教徒ではなかったが、日曜礼拝で歌われる讃美歌を歌詞を見なくてもほとんど歌うことができた。

 その日正臣は、小百合の家の近くにある日本キリスト教団若松教会の日曜礼拝に行った。そこに行くのは二年ぶりだった。

 正臣は昔そうしたように、讃美歌を歌い、牧師さんのお話を聞き、回ってきた献金袋に献金を入れた。昔と違うのは、隣に小百合がいることだった。

 礼拝が終わると、小百合が祭壇の前に行ってお祈りを始めた。正臣は小百合の横に行って、彼女と同じように手を握ってキリスト教式のお祈りをした。

 正臣はお祈りを終えると小百合に、

「何をお祈りしたの?」

 と聞いた。すると小百合は、

「私たち二人のことよ。神様はもう知っているけど、言ったら願いが叶わないかもしれないから、今は言わない」

 と言った。

 正臣は宮本武蔵がものの本に書いていたように、

『神仏をたっとび、神仏に頼らず』

 を信条にしていたが、その日だけは違って心の中で、

(神様お願い、小百合と結婚できますように)

 とお願いをしていた。


 その日曜礼拝の後、正臣は久しぶりに小百合の家に上がった。

 小百合のお母さんが出してくれた昼食は、ご馳走だった。正臣は小百合や小百合のお母さんと一緒にそのご馳走を食べた。

 食事をしながら小百合のお母さんは、

「私の旦那さんは、私が女学校時代に道ですれ違う憧れの人だったの。その人とお見合いすることになって、私はその人とすぐに結婚しようと決めたのよ。それが小百合のお父さん」

 とか、

「私のお兄さんも九工大を出ているの」

 など、小百合のお母さんの身内の話をしてくれた。それを聞いて正臣は、小百合とは安心して付き合えると自信を深めた。

 昼食の後、小百合のお母さんは、

「今からお買い物に行って来るから、二人でお留守番していて。二時間くらいで帰って来るわ」

 と言い残して、買い物に出て行った。


 冬になると、車の運転に慣れた正臣は車で大学に行くことが多くなった。若戸大橋の通行料は片道百円だったが、回数券を使うとかなり安く上がった。そして正臣は、小百合が短大からの帰りにバスを乗り換える戸畑の「麻生通り」のバス停で彼女を車でピックアップして、小百合を家まで送るようになった。

 正臣は、「麻生通り」で西鉄バスから降りてくる小百合を探すのが好きだった。

 その頃正臣が使っていた車は正臣自身の車ではなく、彼の家の自家用車で、何の変哲もない白いファミリーカーだった。それでも小百合は、嬉しそうな顔をして正臣が運転する車に駆け寄って来て、ドアを開けて助手席に座った。そして二人は、カーステレオから流れてくる曲について話をしながら小百合の家までドライブした。

 正臣は毎日違うアーティストの曲を流して、小百合の反応を見るのが好きだった。

「今日は、ビートルズね」

「これは、『夏の日の恋』・・・私、この曲が大好きよ」

「どうして今日は、三波春夫の曲なんか流すの?」

「これは高三の時にラジオの深夜放送で私にプレゼントしてくれた、『悲しい片思い』ね。一緒に歌ってみようよ」

 そんな幸せな日々は、あっという間に過ぎていった。

 

 正臣の二十歳の誕生日の二日後の日曜日は小春日和だった。その日、桜のつぼみはまだ硬かったが、正臣は佐藤公園の桜の木の下で小百合と待ち合わせて、彼女を正臣の家に連れて行った。

 正臣の父親は、小百合の美しさに言葉を失った。

 そして小百合が四月生まれで、正臣と同じ学年でも小百合が正臣より一歳近く年上だと知って、

「『一歳年上の女房は金(かね)のわらじを履いてでも探せ』と言うから、正臣にとって小百合ちゃんは貴重な存在だね」

 と言った。

 正臣の母親は、大切にしていたカメオのブローチを小百合にプレゼントした。

「これは私のお母さんが持っていたものよ」

 と正臣の母親が小百合に言うと、小百合は、

「ありがとうございます、お母さま。私、これを大切にします」

 と言った。

 そして小百合は、その頃は正臣の妹の尚江しか弾いていなかった居間にあったピアノで、正臣に「ハッピーバースデー」を弾いてくれた。


 小百合が短大の卒業を三日後に控えた三月十日、いつものように正臣に車で自宅に送ってもらった小百合は、車が自分の家の下に着いたのにドアを開けようとしなかった。

 正臣は、

「この車のドアの開け方を忘れたの? この前までは開けられたのに」

 と言った。それでも小百合は車のドアを開けずに、無言で何かを待っていた。

(今日が車で家に送ってもらう最後の日になるのに、あなたはなぜ、何にも言ってくれないの?)

 小百合は正臣の

『短大を卒業しても、僕と会ってくれる?』

 という言葉を待っていたのである。

 正臣にそう聞かれたら、答えはもちろんイエス。そして指切りをして、初めての口づけを交わしたいと思っていたのである。

 しかし正臣は何も言わず、左手をいっぱい伸ばして助手席側のドアハンドルを引いた。

「じゃ、またね。バイバイ」

 いつもと同じグッバイであった。

 正臣はその時、小百合とキスしたいという衝動を覚えていた。しかしそれをしなかったのは、

(小百合とそういう仲になった後、何らかの理由で彼女を失うことになったら、自分は生きていけない)

 と思ったからであった。

 小百合は現役で短大に入り、正臣は一浪して大学に入ったので、一緒に大学に通えたのは、たった一年だった。

 だがそれは、二人にとってかけがえのない一年間であった。

 

 正臣が大学一年から二年に進級する春休みに、正臣の家は山の堂町から大谷町に変わった。それは正臣の父親が若松で一番大きな工場の工場長になったためであった。正臣の父親は、国内に十工場を有する金属製品を製造している会社に勤務していた。各工場は事業部制をとっていたので、工場長になった正臣の父親は、その工場の経営者になったのである。社宅とはいえ正臣の家は、若松で一番大きな、地上二階、地下一階の邸宅になった。

 小百合の家からは遠くなり、小百合も「若松天使園」の先生になったので、二人で会う機会はめっきり減った。

 正臣の父親が勤めていた若松工場の従業員は二千人程度で、そこで作っていたものは、帝国製鉄が使う大型機械の工具であった。

 正臣は小学校の低学年の頃、父親の会社の現場に行くのが好きだった。正臣が工場に行くと現場のおじさん達は、

「おー、正臣、来たか」

 と言って正臣を可愛がってくれた。

「あっちにはピットがあるから、行っちゃいけない」

 と言われ、鋳造のために掘ってある深い穴や溶けた鋼の近くには寄らせてもらえなかった。それでも正臣は、現場のおじさん達に色々なことを教えてもらった。

 鋼の性質に大きな影響を及ぼすのは炭素の含有量で、一般的には発光分析で鋼に溶け込んでいる炭素の量を分析してから鋳込むのだが、溶けた鋼をほんの少し床に置かれた鉄板の上に落とし、その時出る火花の色を見て炭素の含有量を当てるおじさんもいた。それは、熟練の技と言うよりも、魔術であった。

 正臣は、日本のモノづくりの現場のスタッフの優秀さを子供の頃から知っていたのである。そして正臣が大学で父親の会社がその専門家を必要としている『金属工学』を専攻したのもこれがきっかけだったのである。

 

 若松東高は灘高やラサールに比べると有名大学への進学率が低いということで、正臣の弟の光安は県外にある私立の進学校に、妹の尚江は区外にある私立の進学校にそれぞれ入学していた。正臣の家族が大谷町に転居したその年の春、光安が東大の経済学部に現役で合格した。

 正臣は、幼稚園の先生になって忙しそうにしている小百合をなかなかデートに誘えなかった。正臣の方からたまに小百合に電話してお互いの近況を話す程度であった。

 その年の八月、小百合も好きだったポール・モーリア・オーケストラのコンサートが小倉で開かれると知った正臣は、そのチケットを二枚買って一枚を小百合に郵便で送った。前もって彼女に連絡していなかったのがいけなかったのか、それとも短大時代と同様に夜の外出がいけなかったのか、とにかく小百合のお母さんのお断りの手紙と一緒に、小百合に送ったチケットが正臣の元へ送り返されてきた。手紙の内容は、『仕事で毎日とても疲れるから』というものであった。

 正臣は仕方ないので九工大の同級生の小林と一緒にコンサートに行った。男と一緒に聞くポール・モーリアは、まったく楽しくなかった。

 よく考えると、正臣は小百合とキスさえしていなかったので、

(小百合とはまだ恋人同士になっていなかったのか?)

 と思った。そして、

(彼女のことを想っているだけじゃ駄目なのか? それじゃ、どうすればいいんだ)

 と、正臣は思いあぐねた。


 その次の年の三月、正臣の妹の尚江が東大の教育学部に合格した。

 その前の年の光安に続いて、兄弟での東大への現役合格は、小さな町でニュースになった。ここで少し、若松の町で「河村三兄弟」として知られる正臣の弟と妹のことを書いておこう。

 河村家の長男の正臣と長女の尚江は三つ違いで、その間に次男の光安がいるという河村三兄弟は年子であった。ただし、正臣が早生まれで光安は遅生まれだったので、正臣と光安は一つ違いでも学年は二学年開いていた。

 河村三兄弟は、三人とも小学校は深町小学校で中学は紅葉中学と、中学までは同じ学校に通っていた。しかし、高校は三人とも違う高校に進学した。

 正臣は生後間もなく、心臓弁膜症か心房中隔欠損症しんぼうちゅうかくけっそんしょうで、『大人になる前に死んでしまう』と言われていた。しかしそれは、「心電図」はあっても「心音図」という検査機器がなかった昭和二十年代のことで、聴診器に頼るしかなかった診察による誤診であった。正臣の心臓に欠陥はなく、むしろ心臓に毛が生えているほど正臣の心臓は丈夫で、心臓の音が大きいだけだと分かったのは、正臣が中学一年の時であった。

 しかしながら、子供の頃に死んでしまうと思われていた正臣は、両親の心配と愛情を独り占めにして育った。

 光安は両親の愛情をあまり感じることなく育ったので、小さい時からたくましくなった。光安は小学校に入る頃には、兄の正臣よりも体が二回り大きくなっていた。

 二人が中学生だった頃、正臣は音楽や絵画や詩と言った芸術の分野で才能を発揮していた。一方、光安はスポーツ万能になっていた。例えば、北九州市教育委員会の読書感想画コンクールで最優秀賞を取った中学三年の河村正臣の絵が校内に掲示された日に、中学一年の河村光安は、北九州市の中学生の水泳大会で大会新記録を出して個人優勝した。

 二人とも知能指数が高く、勉強はよくできた。妹の尚江は二人の兄以上に勉強ができたので、紅葉中学の同時期の人達には、「河村三兄弟」として知られる存在となったのである。

 

 面白いのは、正臣と光安は外見がまったく違っていたことである。

 二十歳の頃の光安は、身長百八十三センチ、体重八十キロで、東大に入ってから始めた部活のホッケーの正選手になっていた。光安のマスク(顔)は、その体に似合った、その頃のハリウッド俳優でいうとクリント・イーストウッドを思わせる、いかつい顔をしていた。

 長男の正臣は光安とは対照的に、身長百六十五センチ、体重五十三キロと、弟に比べるときゃしゃな体格だったが、話が面白く、顔はロバート・レッドフォードを思わせる、端正で甘いマスクをしていた。実際に、栄盛川町の交差点の近くにあった「川畑写真館」は、正臣が運転免許証を申請するために撮った写真を店頭に飾っていた。それは「証明写真の見本」のはずが、どう見てもポートレートであった。

 その店を訪れた正臣の母親が店頭にあった正臣の写真を指さして、

「あれは、ウチの息子よ」

 と言うと、写真店の主人は、

「よく撮れているので、使わせてもらっています」

 と言った。正臣はその町で一、二を争う美男子だったのである。


 高校時代、『私は、お父さんが決めた人と結婚するの』と言っていた小百合の言葉が不安材料になっていた正臣に、『思ってもいない、とんでもない事』が起こったのは、正臣が九工大の三年生になる直前の春であった。

 正臣の父親は、お得意様である帝国製鉄の部長さんや就活中の学生を推薦してくれる帝国大学の教授を接待するため、日曜日にはよくゴルフに行っていた。小百合のお父さんもゴルフをやっていて、ゴルフの腕前は正臣の父親以上の『ハンディはシングル』だと聞いていた。

 その年の三月下旬の日曜日、ゴルフを終えて帰ってきた正臣の父親が、

「今日、近美さんとクラブハウスのお風呂で一緒になった。近美さんが、『娘がいつもお世話になっています。これからも娘をよろしくお願いします』とおっしゃるので、『こちらこそ息子をよろしくお願いします』と返事をした。すると近美さんが、『その内に正式なお話を』とおっしゃるので、『分かりました』と返事をしておいたよ」

 と話したのである。 

 これはお互いの父親が二人の交際を認め、近い内に二人を一緒にしてやろうと思っている証拠であった。

 正臣は喜びに、天にも昇る気持ちになった。

 小百合とはキスをしたこともなかったが、十七才で知り合い、二十二才まで付き合っていたのは、将来は彼女と結婚したいと思っていたからに外ならなかった。

 その頃の正臣は、小百合のためにも頑張ろうと大学の授業は一コマも欠かさずに出席して、復習だけでなく予習までやって、九工大では首席を通していた。

 普通なら、これでハッピーエンドを迎えられるはずだった。


 これから先は、人生一歩先は何が起こるか分からないということと、ちょっとしたことで人生は大きく変わるということ、そして人生で何が幸運で何が禍かは、おそらく死を迎えるまで分からないということを紹介することになる。

 

 正臣と小百合の父親同士がゴルフ場のクラブハウスで話をして一週間もたたない内に、正臣の母親がとんでもない事を言い出した。

「福村さんが言うには、近美さんのお父さんは『やくざ』だってよ」

 正臣は、

(そんな馬鹿なことはない)

 と思ったが、正臣の母親は福村さんが言うことはすべて真実だと思っていた。

 そもそも正臣の母親は、世間知らずのお人好しであった。

 正臣の母親の友人である福村和子は、実際には若松にいる善良な人達から数千万円にのぼるお金をだまし取っていた詐欺師であった。しかしながら正臣の母親は、福村さんは貧しい人や恵まれない人達のための基金を運営している正義の味方だと思っていた。

 後の警察の捜査で、正臣の母親は福村和子から二十年以上マインドコントロールされていたことが明らかになったが、その当時はそれを知る由もなかった。そこで正臣の母親は、父親同士で縁談がまとまりそうになっている小百合の家がどんな家なのかを、正義の味方と思い込んでいた福村さんに聞いたのである。

 その答えが『小百合のお父さんはやくざ』だったので、正臣の母親は、

(これはどんなことをしてでも、正臣と小百合を別れさせよう)

 と思ったのである。

 

 正臣と母親と父親の三人で家族会議が開かれた。

 正臣は、小百合の家が正臣の家に負けないくらい広くて大きな家であることは知っていたが、小百合のお父さんには会ったことがなかった。

「近美さんのお父さんの職業を知っているか?」

 という父親の質問に正臣は、

「小百合は『ウチのお父さんは、不動産をやっている』と言っていた」

 と答えた。正臣の両親は、それを悪徳不動産屋だと誤解した。

 とにかく、その家族会議の結果、正臣は、

「小百合には二度と会わない」

 と約束させられたのである。

「お母さん、福村さんの言うことを信用しないほうがいいよ」

 と言う正臣の言葉を母親は聞こうとしなかった。

 この時、正臣が両親に、

「これは僕の一生のお願いだから、信頼できる探偵に頼んで、近美さんの家のことをちゃんと調べてよ」

 とお願いしていたら、正臣と小百合の人生は変わっていたかもしれない。

 

 小百合や小百合の両親の方は、父親同士が縁談に近い話をしたのに、それからぱったり正臣からの連絡が途絶えたことをいぶかしく思っていた。正臣が急に連絡してこなくなった理由として考えられるものは、次のようなものであった。

 河村君は、『親は金持ち、成績優秀、眉目秀麗びもくしゅうれい』と三拍子揃っているから女がほっておくはずがない。そのため、正臣には他に女がいたというのが考えられる一つ目の理由。

 二つ目は、小百合が若くて、あまりにもきれいだから、正臣の母親がやきもちを妬いたというもの。

 そして三つ目の理由は、正臣が抱いている一般の人には思いもつかない大きな夢を実現するために小百合が足手まといになる、または、その夢のために小百合に苦労させるのは可哀そうだと正臣が判断したというもの。

 小百合の家では、とにかく様子を見て、小百合が二十五歳になるまで待ってみようということになった。

 小百合がただ待つだけでなく、正臣に、

「なぜ、会ってくれないの?」

 と電話の一本でもしていたら、または、「さみしい」と一言だけ書いた手紙の一つでも正臣に送っていたら、小百合と正臣の人生は変わっていたかもしれない。


 良家の息子や娘は人任せとは言わないまでも、恋愛において自発的な行動を取らない傾向がある。

 そういう二人にとって最大の敵は、世間のねたみや嫉妬である。

 二人のことをよく知っている友達は二人が結婚できるように応援するが、その他大勢の世間の人は応援などしてくれない。

 むしろ二人が不幸になることを望んだりする。

 福村さんみたいな満たされていない結婚生活を送っている中年女性は、町一番の資産家のお嬢様と町で一番大きい工場の経営者の嫡男ちゃくなんが高校時代に恋に落ち、何年か愛を育んで、両家の親族から祝福されて結婚することなどあってはならないと思うのである。正臣と小百合の恋は、そういう例であった。

 正臣の母親が小百合の父親はやくざではなく、映画館の他に貸家や貸アパートを何軒か持っている若松一の資産家だと知ったのは、正臣と小百合を別れさせてから五年後であった。また、福村さんが自分や自分の知り合いからお金をだまし取っていたと知ったのは、それからさらに十年後であった。

 

 福村さんの詐欺の手口は、次のようなものであった。

 初めの内は、自分が所有している市場の店子たなこ達の仕入のための資金(プール金)を出してほしいと持ち掛け、

「利子は十年ものの郵便定期と同じだけど、いつでも引き出しや解約ができる。とにかく、お金に困っている人達のためだから、お願い」

 と言って、正臣の母親を含めた知り合いの奥さん達に出資させていた。

 福村さんの旦那さんが『行政書士』になってからは、詐欺の手口としてはよくある『つなぎ融資』のお金を貸してほしいというものであった。法務局に出入りしている人の奥さんが詐欺をしているとは誰も思っていなかったが、やがて福村さんは自転車操業に行き詰まり、自殺未遂事件を起こして詐欺をはたらいていることが発覚したのである。福村さんばかりでなく、福村さんの旦那さんも警察に逮捕され、手錠を掛けられて腰ひもで警官に引かれる写真が西日本新聞に掲載された。旦那さんの方は起訴猶予になったようだが、行政書士の資格ははく奪された。

 どんなにおいしい話も、逆に堅い話も、どんなに困っている人のためでも、銀行でもないのに人にお金を貸して利息をもらうのは出資法違反で、本来ならば、だまされてお金を失った方も罰せられるのである。

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